「見聞録」
11
「それじゃあ、岡野君は俺が貫通穴からこの電線流すから、そのまま真直ぐ下のフロアーに落としてくれるかな?」
「はいっ」
「岡野君の下のフロアーにはユウが待機してるからユウの指示も聞き逃さないように。一発勝負だから。良いね。ユウ、ガイドしっかりな」
「おう」
「で、岡野君はユウの合図で2フロアー下のシャフトに入る。つまりユウの下の階。今度はユウが下ろす電線を引っぱりながらまた下の階へ落としていって。ここで気をつけて欲しいんだけど、電線が貫通穴超えたらユウに声掛けて。自分の下のフロアーに人がいない場合は絶対に必要以上に電線を落とさないこと。そうでないとそこのフロアーで電線がぐしゃぐしゃなって使い物にならなくなる」
「分かりました」
「都度指示は出すから。何かあったらすぐ止めてね。フロアー降りるにつれて電線は重くなるから無理はしないこと。掛け声出してタイミング合わせて落とすから」
「コウイチ」
「ん?」
「ドラム(電線を巻き付けているボビン状の木製の芯。「見聞録8」に詳しい説明があります)のガイドはどうするよ」
「んー、ま、パイプでしっかり固定してるから落ちることもないんじゃねぇの?」
「お姉さん、呼んだ方が良いんじゃねぇか?」
「ま、状況次第だな。岡野君」
「はいっ」
「アネキは今何してる?」
「えーっと…午前中の最後の1時間はダウンライト手伝って貰っちゃったんで、まだ手付かずの部屋は2つはあると思います」
「そっかー。じゃ、ま、やっぱ様子見だな」
………午後1時10分。
A棟最上階。
幹線前の最終確認中。
午後一番の職長会議(各職種の責任者が集まって、午後の作業確認を行う会議のこと)が終わって、いよいよこれから幹線が始まる。
始めて参加する大仕事に緊張している俺にも分かりやすいように、コウイチさんが作業行程を説明してくれる。
「岡野君、大丈夫。大したもんじゃないから」
と、笑って気持ちを落ち着かせてくれる。
それでもこれがどれだけ大変な仕事かは、親方さんから聞いたことがあるから分かる。
各世帯に伸ばされている無数の電線は、ものすごく複雑な方式によって最終的にたった一つの回路にまで集結される。それが、どこの家庭にでも付いている電力会社のメーター盤だ。あのメーター盤っていうのは何も月の電気の使用量を測るだけのモノではないんだ。一番重要な役目は、ズバリ電力供給。
あのメーター盤にまで送られてきている電力を、電気屋が電線を使ってブレーカーまで引っ張ってきて、スイッチにだの、照明にだのコンセントだの、電気調理器にだのと振り分けるのだ。
この現場は全91世帯。全部で91個の世帯用メーター盤がある。これを全部で8グループに分けて建物全体を8回路にまで集結させて、建物全体を統括する共用ブレーカーって言うのに接続されるって話だ。
正直何とことやらさっぱり分からない。
……難しいことはさておき、この建物は1階から9階まで縦一列が1回路ってことしらしい。
で、その回路を繋ぐ電線の配線こそが幹線って訳。
最上階から1階まで、フロアーをブチ抜いて縦に配線するのは『縦幹線』でフロアーごとを一回路として考えて、フロアーの端から端まで配線するのが『横幹線』。
理屈は分からないけど、今の電気工時業界では縦幹線が主流らしい……。
もう、この辺りに来ると見習いの俺には未知の世界になってくる。
お姉さんならもっと分かりやすく説明出来ると思うんだけどね。
俺にはこれが限界です。
とにかく、幹線っていうのは大掛かりな行程なのだ。幹線をやるって言う理由で、フロアー全体が電気屋以外立ち入り禁止になってしまうだけでも、その重要さを感じてしまう。
笑いながら説明してくれているコウイチさんの、いつもより丁寧で入念な話し方に、嫌が応でも緊張が高まる。
シャフトの中は既にガス屋さんがガス管の配管工時を施してあって、狭くなっているから足場は悪い。果たして見習いの俺にでも旨く出来るんだろうか…。なんか谷田君の口調からしても人数足りなっぽいし……。
いかんいかんっ。
気を抜くとすぐこれだ。
グズグズ、グズグズ。何でもかんでもすぐ弱音。
これじゃあコウイチさんに悪い。
使える男になるんだ俺はッ。
お姉さんだって、谷田君だって、コウイチさんだって、初めは皆見習いだったんだから。今の俺は昔の皆。誰でも一度は通る道ッ。
頑張るッ頑張るッ。よしっやるぞっッ!!
と、心で一人盛り上がっていたら、
「---だから。良いね、岡野君」
「へっ?」
大事なところを聞き逃してしまったようだ。
「わわわっ。すみませんッッ。俺、今ちょっと聞いてませんでしたッッ」
「こーら。ダメだよ。初めての作業はちゃんと聞かなくちゃ」
……怒られてしまった。
やる気満々状態から一気に凹む俺を見て、コウイチさんは、あはは、と、笑う。
「そんな落ち込まなくても良いって。今、気合い入れてたんだよね」
ぐっ。……どうして分かりましたコウイチさん。
ってな顔をしていたら、コウイチさんは何と答えを返してきたのだ。
「岡野君はね、何でも顔に出るから良いね。ホント、分かりやすいよ」
ガーン。
……そうか。俺って分かりやすいのか……。
しかし、本当にコウイチさんとお姉さん、そっくりですよ。こんなとこまで。
「ほれ、コウイチ、もうそろそろ始めないと間に合わねぇぞ。今日中に全部落とすんだろ?」
「勿論。さて、んじゃ、やりますかっっ」
パンパンッッと、両手で顔を叩きながらコウイチさんが立ち上がる。
ここで足を引っ張っては男、岡野の名前が廃るッ。
頑張るぞ。おうっっ。
妙に自分でテンション上げて、俺は8階の自分のポジションへと降りていった。
「いくよーっ。岡野君、良いかーい?」
「はーいっ。オッケーでーす。」
「せーのっ」
「そーれっ」
「はいもう一回っ。せーのっ」
「そーれぃ!!」
「上手い上手いその調子ッ。せーのっ」
「そーれっっ!!」
配管の終わったシャフトの中は狭かった。自分でも器用だと思うぐらい身体を捻らせなるべく奥に身体を入れる。
「ちょっと待っててねー」
「はーいっ」
ガラガラガラ…
ドラムから電線を伸ばす音が上から聞こえる。
それから直ぐに
「よっ…」
コウイチさんが上の階のシャフトに入ってくる。
「岡野君、大丈夫ー?」
貫通穴を通して間近にコウイチさんの声。
「はーいっ、こっちはいつでも大丈夫ですー。谷田くーんっ、後1メートルくらいでそっちに頭出るから宜しくーっ」
「分かりやしたーっ。岡野さーん、無理しなくて良いッスよーっ、ゆっくりやって下さーい」
「うん、ありがとー」
「岡野くーん、落とすよー。せーのっ」
「はいっ。そーれぃ!!」
1本目。幹線スタート。
コウイチさんも谷田君が上と下からしっかりと俺をサポートしてくれる。『せーの』『そーれ』の掛け声は電線を送る側と引っ張る側の声出しの合図。
始まってしまえば体勢は厳しいものの思ったよりも大変な仕事ではなかった。
とにかく大切に電線を扱いながら、俺は落ちてくる電線を絡ませないように真直ぐ下に降ろしていくだけ。扱う電線はプラス・マイナス・アースの3本線。縄みたいによってあって、3本分の太さは手首ぐらいもある。
「岡野君、ガスの配管巻き込まないように気をつけて」
「はいっ、大丈夫ですっ」
真直ぐに真直ぐに降ろしていく。どこにも当たらないように真直ぐ。
降りてくる電線は、真直ぐでクセが全然なくって、とても扱いやすかった。
「その調子。上手いよ。岡野君」
コウイチさんの声が上から聞こえる。
「ありがとうございますッ。コウイチさんは大丈夫ですか?」
「大丈夫だよー。ありがとー」
コウイチさんはシャフトの中を出たり入ったりと何度も繰り返している。一人で重たい電線を引き伸ばし、俺が扱いやすいように丁寧に下に降ろしてくれる。
「もうじき頭、7階に降りまーすっっ!!」
『はーいっっ』
上と下から返事が帰ってくる。
「谷田君っ、降ろすよーッッ」
「良いッスよーっっ……はいっ、頭掴みましたッ」
「コウイチさーん、谷田君の方まで電線降りましたーッ」
「はーいっ、じゃあ、岡野君っ、6階に降りてー」
「はーいっ」
「待ったーッッ!!後30センチぐらい降ろしてくれーっっ。岡野さんサポート頼みますっ」
「はいっっ」
「じゃあ、いいかーい。せーのっ」
「そーれっっ」
「はいっ、オッケーッ」
「じゃあ、俺6階に降りまーすっ」
『はーいっ』
階段を駆け降りる。降りる最中に、今度はコウイチさんと谷田君が声を出し合っている。あの二人は普段声を出し合って仕事はしない。お互いの動きのタイミングを熟知してるからだと親方さんは教えてくれた。そんな二人でも、幹線を成功させるために大きな声を上げている。
一気に階段を駆け降り、廊下をダッシュして谷田さんの真下のシャフトに入る。
「谷田さーん、6階のシャフト、入りましたーッ」
「はーいっ、じゃあ、直ぐ頭出るよー。良いかーい」
「はーいっっ」
流石に谷田さんは仕事が早い。掛け声の後、直ぐに電線の頭が見えた。
「これからどんどん重くなるッス。ゆっくりで大丈夫ッスから気をつけて」
「分かりましたーッッ」
夢中で作業を続ける。太い電線は次第に低階層へと降りてくる。9階のコウイチさんに声が届くように精一杯声を張り上げる。こんな大声出すのは前はいつだったか思い出せないくらいだ。
身体も力も声も、自分の出せる最大の能力で作業を続ける。
やっているうちに、上手くやろうとか、失敗したらどうしようとか、変な考えはどこかに消えてしまった。
サポートは信頼出来る2人がしっかりやってくれる。俺はその指示に従って、行動する。操り人形とは違う。どうすれば指示通りに出来るか自分で考えて自分で行動する。
「あっ!!すみませんっっ!!ルート間違えましたーッ。少し引き上げてもらえますかー」
「良いッスよー」
「せーのっ」
「そーれっ」
間違いがあれば少しでも早く反応して修正する。
そのためには、自分から指示を出すのも判断の一つ。時には自分が先頭に立つことだって大切なんだ。
「はーいっオッケーでーすっ。続けて下さーいっ」
夢中で仕事を続ける。
続けながら、すごく楽しいと、思った。
つづく。 10へもどる topへ 12へ
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