「見聞録」
15.1
「…岡野君」
「はいっ」
「どうしてここに呼ばれたか、分かっているね」
「………はい」
夜の会議室。何とか残業を片付けて、疲れ切って帰ろうとした時に俺は糸井課長に呼び出された。4階の大会議室の方ではなくて、7階の資料室の先にある、10人程度の人数で会議する時にしか使わない小会議室の方。時間はもう8時30分も回っていて、会社内は人もまばらだった。製造部の工場の方は24時間体制で稼動はしているものの、こっちの管理棟の方は8時を過ぎるとどんどん人はいなくなる。7階は主にデータを管理している階だから、電気のついている部屋なんて、今俺と糸井課長がいるこの会議室ぐらいなもので。
糸井課長の怒声は大きい。
だからかな…なんて、その時の俺はホント、バカだった。
「4月から君がこの営業部に配属なって、僕はずっと君を気に掛けていた。推薦した手前、君には早くこの課に馴染んでもらいたいと思っていたよ。3ヶ月も過ぎれば慣れて、君本来の力を発揮するだろうと楽しみにしていたんだけどね…」
直立不動で、外を眺めながら喋り出す糸井課長の背中を見詰めながら、内心俺はビックリしていた。
(そっかー俺って、糸井課長の推薦だったのかー。………でも、何で?)
うちの会社の営業課って、糸井課長が来てから、物凄い人材の『るつぼ』と化している。ほら、班長だの学級委員長だの生徒会だのと、役の付くものに立候補するのが大好きなタイプって、クラスに一人はいたじゃん?営業課って全員が全員ソレ。言うなれば、誰もが先頭に立って皆を引っ張っていきたい人間ばかりなのだ。良くしようとか、良くなろうとか思ってはいるものの、なかなか実現出来ないことを提案と実行で実現させてしまう人達ばかりで構成されているところなのだ。
給食係と保健委員しかやったことのない俺は、その段階でアウトなのだ。
成績を上げるのが目標ならば、俺は絶対に人選ミスだ。ボランティアで俺を成長させようって…そんな余裕のある課ってことはまずありえない。成長した人間しか取らないのが内の会社の、糸井課長の、方針なのだ。
俺に営業の素質がある訳がない。
多分俺って、書類ミスで配属なったのに違いない。
糸井課長、多分あなたの読んだ書類って、他の素質のある誰かのモノだと思います。
糸井課長の説教は延々と続いた。当たり前だから、反論出来なくて。たとえ反論出来たとしても、相手はアノ糸井課長だ。出来る訳がない。俺はひたすら黙って説教を受けた。
…親父の説教に似てるかな…
とか、途中で思った。長くて終わりが見えなくて。でも、逃げられない。
ぼんやりとして来る頭に段々声が響いてこなくなってくる。何を言っているのかすら分からない。分かるのは怒られていることだけで。動かないのが一番安全だろうと、微動だにもしない。そのうち麻痺してくる総ての感覚。心さえ閉ざしていれば、時間の流れを感じるだけで済む気がしてきて。でも、多分気持ちはとても凹んでいて。自分でも気付かず緊張状態だけが続いている。そんな感じ。
そんなことをつらつらと考えていた時、突然課長に名前を呼ばれた。
「岡野君」
「はいっっ」
いきなり現実に引き戻される。急に蘇ってくる感覚に頭が付いてこられなかった。思考と感覚のギャプに、気持ちが急に不安になる。そんな気持ちが空白になっているっていう、絶妙のタイミングで、俺は糸井課長に質問を受けた。
「君は営業って、何だと思う?」
……分かりません。だから、入社試験で言った言葉をそのまま言った。
「…………………会社の繁栄のために努力することです」
「……それは違うね」
「………」
糸井課長は大きな窓から正門の方をじっと眺めている。
帰宅する車もすっかり少なくなってて、時折ヘッドランプが思い出したように通過していく。もうじき最終の送迎バスも出発する。駅まで歩くと30分。……疲れてるのに嫌だなぁ……。
「…営業は、自分のためにするものだよ。会社なんて本当はどうだって良い。自分を売って、自分を認めてもらい、人間の輪が広がる。成績は後からついてくる副産物に過ぎないんだよ。モノを売ろうと思って、他人に近付いても、警戒されるだけで契約成立はありえない」
「……はい」
「岡野君」
「はいっ」
「君はこの会社で一生働きたいと思っているか?」
「はい」
だって、もう就職活動なんてしたくない。
「…それは良い心掛けだ。では、万一この会社が経営破綻を起こしたら、その後君はどうするつもりだ?」
「……………分かりません」
そんなの分かる訳ない。それにこの会社が潰れるなんてことも、想像出来ない。
「君は裸一貫で放り出されることとなる。その時に必要なのは、何か分かるか?」
「…………分かりません」
「いや、君には分かっているはずだ」
不思議な声色だった。まるで俺の本質も何もかも、みんな知っているんだよ…って、言われたような気になって。低くて静かなトーンで。焦った。この人にはいい加減な返事をしちゃいけないって思った。本能的に思った。何か答えなくちゃいけない。背中を見詰めながら思った。焦った。焦って、考えた。
「……才能でしょうか」
やっとの思いで絞り出した、自信のない答えを小さな声で返した。
「……そうだ」
低い張りのある、今日一番の優しい声。
「そうだ。一人になった時、最も必要なのは才能なんだよ。しかも、発揮出来る才能だ。素質ではいけない。力があっても、表現しないのであれば、発揮しないのであれば、才能なんてないに等しい。……君なら僕の言っていることが分かるね」
「はい。……分かります」
緊張していた分、糸井課長の優しい声にホッとした。ホッとしたから素直に心の底まで声が届いた。届いたから、警戒心を解いてしまった。
肩の力を抜いた直後、糸井課長の怒声が響いた。
「……なのに、どうして君は君の素質を発揮しようとしないんだっっ!!」
「ーーーっっっ!!!!」
心の底まで怒声が届いた。
警戒心を解いていた分、深いところまで突き刺さった。
普段だったら心を固くガードしているからちょっと凹むくらいで済んだ言葉に、どうしようもないくらいショックを受けてしまい、正直泣きそうになってしまった。
鼻の奥がツン…と、痛んだ。
身体を竦ませて怯えていた。
ゆっくりと課長が振り返る。
真直ぐ、鋭く睨む目は怒りを凄く含んでいた。
恐くて身体が震えた。
怒られるのなんて、慣れているはずなのに、ひどくその時は恐かった。
目を合わせていたら、大袈裟な話じゃなくって、精神的にどうにかなりそうで、思わず下を向いてしまう。
「逃げるなっっ!!!!」
「ーーーーっっっっ!!!」
「…顔を…上げろ」
会議室に響く怒声に心臓がキュッと、縮む。恐る恐る顔をあげる。真っ黒の夜空を背景に立つ課長の姿。キリッとした立ち姿に黒いスーツが良く似合う。怒りに満ちた目は、彫の深い顔に映えた。
恐かった。恐くて、死にそうだった。
糸井課長と二人っきりだったのも、仕事で疲れ切っていたのも要因の一つだったに違いない。
『飴と鞭』
最初の一巡で俺は糸井課長の術中に嵌まった。
激しい怒声が部屋中に響く。この声が全部俺に向けられたものかと思うと、もう恐くてどうしようもなくて、俺は身体の震えすら止められず、目は逸らすことも出来ず、頭の中はパニックだった。ゆっくりと、課長が俺の側に近付いてくるのを見ていた時は、頬に涙が伝う感覚だけしか感じなかった。
「岡野君」
目の前に課長が立つ。
「………は…い…」
声を出したら、歯がカチカチと震えて鳴った。
「君には期待しているんだよ…本当に」
肩に手が触れられた瞬間、カクン…ッ…と、膝が笑った。
「岡野君っ!」
崩れ落ちる身体を課長に抱きとめられる。抱き締められたまま立ち直される。
でも、一度崩れてしまったら、自分じゃ身体を支えることすら出来なくなって、課長が腕を弛める度にバランスを失い、逆にしっかりと抱き締められる羽目になってしまった。
俺は、課長の腕の中で身体を震わせていた。感覚的には殺人鬼に捕まった犠牲者って感じ。いつ殺されてもおかしくない。俺は観念して目を閉じた。身体を竦ませ、身体を震わせ、しっかりと目を閉じ、なぜか両手は固く握りしめて。
「どうした?大丈夫か?」
首を振ることも出来ず、ただ、身体を震わせていた。
「岡野君……」
どれくらいそうしていたかも分からなかった。
すっぽりと課長の腕に抱かれ、何も考えられなくなった俺は、ひたすらに怯えていた。
ふと、左手に何かか触れた。本能的にそれをギュッと掴んだ。掴んだら、暫くしてもっと強く抱き締められた。
その辺りから訳が分からなくなってきた。
抱き締められている感覚に逃げ込んだ。相手が課長だっていうのなんて、途中からすっかり忘れてしまった。物凄く恐い思いをして、倒れそうになったところを助けてくれた力強い両手に、もっと抱き締められたかった。押し付けられた胸は広くて固くて暖かかった。頭をすり寄せると、更に強く抱き締められた。擦り寄る。抱き締められる。擦り寄る。もっと強く抱き締められる。甘えるようにもっと擦り寄る。砕けそうな程、しっかりと抱き締められた。
顔を引き上げられたのなんて全然分からなかった。唇が暖かい何かに被われた時は、あまりの気持ちよさに身体の震えも止まってしまった。ゆっくりと吸い上げられる。むにっ…と、した感触が物凄く良くて、誘われるままに唇を薄く開いた。柔らかくてしっかりとした暖かいものが口の中に入ってくる。キスだって気付く前に、前歯をなぞられ奥歯をなぞられ、歯の裏側をくすぐられた。すぐったくて口を閉じようとすると舌にそれが絡んできた。舌の先か側面とかを擦られると、身体が次第に暖かくなっていった。
頭の中が違う意味でぼわーっとなってくる。俺は苦しくなって、鼻息が荒くなっていくのを感じながら、その柔らかいものに弄られ続けた。
口の中から去っていく時、物凄く寂しくなって追い掛けてしまった。すると突然どこかに吸い込まれて、舌全体が狭くて暖かい何かに密着してしまった。
「……んっ……」
声にならないのは舌が自由に動かないから。
しっかりと俺を抱き締めていた腕が片方、俺のケツの方に伸びる。
バランスを失いかけて、膝がガクッと折れる。
咄嗟に相手にしがみついた。
「ん…んっ……」
ようやく自分が何をしているのか気が付いた。
……でも誰と……?
ぼんやりとした頭ではそれ以上考えられなかった。
それに恐い思いをしていたことだけは身体が覚えている。
また、その恐い思いをするのは嫌だった。
この気持ち良い感覚の方に意識をダイブさせてしまう方が簡単で、良かった。
……昔付き合ってた彼女とのキスより数倍気持ちよかった。相手にリードされるキスってこんなに気持ちよいもんなんだって思った。彼女も俺にリードされて気持ちよかったのかなって思った。
リードされてるってことは…この後もリードされんのかな…って、思った。
男をリード出来る女って、すげー……、って、思った。
頭がおかしくなっていた。
こんなハードなキスしてるんだったら、この先もあるだろうとかって、とんでもないことを考えていた。
普段の俺だったら、ありえない。女だったら誰でも良いって訳じゃない。
あの時の俺は、本当にどうかしていた。
言い訳かもしれないけれど、本当に、純粋に、恐怖から逃げようとしていた。
本当に、俺は、どうかしていた。
続く 14へ TOPへ 15.2へっっ
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