「見聞録」
18
各フロアーで掛け声が響く。絶対終わらせなければならない幹線。最上階では親方さんが現場中に響き渡るような声を上げて指示を出している。何だかものすごく聞き取りやすい。精一杯って感じでもないのに、どこにいたって何言ってるのか聞き分けられるような明瞭さだ。……そう言えば、この現場でこんなに大きな親方さんの掛け声を聞いたのは初めてかもしれない。固いコンクリートに反響する声は、俺達みたいに割れてしまって聞きづらくなることが無い。多分長年やって来ているから感覚でどのくらいの高さで、どのくらいの大きさで声を出せば良いのか分かるんだろうな。こういうところが熟練の職人の技なんだろうな。
…コウイチさんと2人で押したフロアー以外のシャフトの中はそれなりに余裕があって、頭の曲がってしまった太い電線も、問題なく下ろしていくことが出来た。
「岡野君、随分慣れて来たね。上手だよ。ペース上がってもちゃんとついて来れるなったよね」
腰を痛めてメインの最上階の始点のパートを親方さんと交代してからコンビを組んでいるコウイチさんが、俺の後ろについている。
「…ありがとうございます」
俺は必死で仕事に集中しているフリをする。
でも、正直、それどころじゃなかった。
『ユーウッ!!』
先刻のコウイチさんの声が頭の中でぐるぐるしている。
谷田君を呼んだあの声。甘さなんてこれっぽっちもなかった。色気なんて皆無だった。
……でも。
相手を心底信頼しているんじゃなきゃ出せないような声色だった。友達とか親友みたいな近さより、もっともっと近い間柄。例えば恋人同士とか。男同士の恋愛が存在するってことは俺は嫌って言う程良く知っている。だから気付いた。狭いシャフトの中で、俺の腕に抱かれながら叫んだ名前。大事な幹線だから。ここ一番の難所だったから。まるで全てを託すような…そんな想いの入った声だったから。だから分かった。
コウイチさんは…俺と同じだ。相手は絶対谷田君だ…と。
………考えてみれば、思い当たる点なんて幾らでもある。
何をするのも2人一緒。相談なんて全然しない。でも、だからって、お互い相手のことを考えていないんじゃない。お互いがお互いのことをちゃんと理解しているから、相談しないだけのこと。いつでもお互いのことを優先して考えて行動している。喧嘩の時だってそうだ。コウイチさんが本気でキレて大暴れして手が付けられなくなっている時、他の誰も止めに入れないような恐ろしい状態でも、飛び込んでいくのは谷田君。谷田君を素人呼ばわりして半殺しにされかけた職人もいる。自分のことじゃないのに、本気で怒ったのはコウイチさん。俺がこの仕事に入って間も無い頃、左官屋の若手との喧嘩でアバラを一気に3本も叩き折られた時、逆上して相手を病院送りにしたのは谷田君。
………今日コウイチさんが疲れてるって言うのだって、疑ってしまえばきりがない。
昼飯途中で眠ってしまったのって、ちょっとやそっとの疲れでなるもんじゃないもん。そう言えば……昼飯に呼びに言った時、何となく慌ててた2人。
「さむくてねぇ」
なんて、言ってたくせに全開だった窓。
谷田君の手に丸められてたシャツ。
不自然な1枚だけ敷かれていたボード……。
『……もしかして……見た?』
コウイチさんの言葉。ビックリしていた2人の顔……。
気が付かない俺の方がどうかしている………。
こんなに時間を一緒に過ごしていて、2人の中に気が付かないでいたなんて。
ショックだった。
コウイチさんがホモだからって訳じゃなくて、相手が谷田君だったからって訳でもなくて。
好きって分かった日に失恋したんだって事実がすごくショックだった。
「大丈夫?疲れた?」
気が付くと手が止まりかけそうになる俺に、心配そうにコウイチさんが声を掛けてくる。
「大丈夫です」
「後少しだよ。頑張って」
「はいっ」
年下なのに年上みたいに声を掛けてくれるコウイチさん。
優しくて頼もしいコウイチさん。
でも、時折むちゃくちゃ可愛いコウイチさん。
……抱かれる時とか…凄く可愛いんだろうな…。
綺麗だしな。
谷田君……いいな……。
先刻どうしようもないくらい沸き上がって来た嫉妬心は、今はもうどこかに消えてしまっていた。多分、なけなしのプライドだったんだろうな。一瞬でも、あの課長に愛されたって…バカみたいなプライド。
谷田君となんて張り合えっこない。顔も身体も、性格も。
別に僻んでいる訳じゃない。だって、2人はお似合いだ。谷田君だったら俺だって諦められる。
でも…。
もしも1度だけでもキス出来ればな…なんて、思ってしまった。
「岡野君、変わろうか?」
「いえっ、大丈夫です」
何度目かのぼんやりに、コウイチさんがまた、身体を半分シャフトの中に入れて来てそう言った。
「だって、ぼんやりしてるよ。幹線はそんな状態じゃ危なくて任せられないよ」
優しいけれど、厳しい言葉。
「すみません。大丈夫です。ぼんやりしてて。もう、大丈夫ですから」
……本当、ぼんやりしてちゃいけないな。失恋のショックなんてこの年で大人気ない。そうだよ。もともと俺とコウイチさんなんて釣り合うはずがないんだから。諦めろって。まして相手が谷田君だって言うんだったら尚更さ。何の取り柄もない俺が、太刀打ち出来るはずなんてないんだから。
辞めよう。
今日で最後にしよう。
この幹線をしっかりやり遂げて、それで終わり。
これ以上傷付くこともないさ。
もういい。
逃げよう。
「大丈夫です。コウイチさん」
自分でも、感心してしまうくらい普通に言えた。
「すみません。もう大丈夫です。頑張れます。休んでて下さい。見てて、下さい」
「本当に、大丈夫?」
「はいっ」
涙が、出そうになった。
必死で飲み込んで、笑ってみせた。
「後少しです。頑張れます」
そう、後少し。
俺の現場生活も終わる。
今までの記憶の中で一番最高の仕事をしたと思う。
吹っ切れてから、自分でも驚くぐらい仕事に集中出来た。
谷田君が送ってくる幹線を慎重に引っ張る。慎重に送る。もう2度と動かされることない電線。1月後にはこの電線に電流が流される。おもちゃとは違う。今やっているこの仕事は、全てが本物。最後だと思ったら気が付いた。
俺が現場から消える。でも、俺がやった仕事はここに残る。
見習いだったけれど、俺も電気工事士。こうして施行した仕事は半永久的にここに残る。こうして作ったこの電線の通ったルートは、誰でもない、俺が決めて俺が通したルート。これからここに住む人達にとってはどうでも良いこと。でも、間違いのない事実。
好きになった人と作り上げたこの現場。
それから、今日のこの大仕事。
辺りが段々と暗くなり、作業終了の5時を知らせるサイレンがなる頃、幹線はとうとう最後の1本を残すのみとなった。
「どうする?後1本。明日の朝イチにするか?」
親方さんが時間を気にしながらそう言った。
「……そうだな…皆も疲れてるしな…ユウはどう思う?」
「俺はどっちでも」
「あたしもどっちでも良いよ。でも、あたしとしては完成が見たいんだけどね」
……俺も、見たい。
「やりましょう…!!」
皆が驚いたように俺を見た。
「やりましょう。後1本じゃないですか。終わらせましょう」
俺も、完成が見たい。
コウイチさんは、ちょっと意外そうに俺を見詰めてから、笑った。
「そうだね。やるか。アネキ、最後1本付き合ってくれる?」
「いいよ。大丈夫」
「ユウ」
「ん。やりましょう岡野さん」
「はいっ」
「おう、岡野、何だか今日1日で随分男前が上がったじゃねぇか」
「いえ、そんな」
済みません。親方さん。俺、最後だから、言ってるんです。
「……じゃ、やりますかっっ」
コウイチさんが顔をパンッと叩きながら言った。
「はいっ」
正直疲れて腕も足もパンパンだった。
でも、どうしてもやり遂げたかった。
これが現場での最後の仕事になるんだと思ったら、どうしても最後までやり遂げたいと思ってしまった。
そう思ってから、気が付いた。
仕事ってものを始めて、最後までやり遂げたいと思ったことが初めてだっていうことに。
コウイチさんのためでもあるし、自分のためでもあるような、そんな気がした。
「さ、じゃ、配置に付いて」
コウイチさんの指示に皆が動き出す。
「さ、岡野君、行こう」
振り返って笑顔を見せるコウイチさんの顔を真直ぐに見詰め返した。
もう会えないのなら、せめてこの目に焼きつけたいと思った。
「…岡野君?」
動かない俺にコウイチさんが不思議そうな顔をした時。
大きく息を吸って。
俺は、伝えた。
「俺、この仕事、辞めます」
突然の言葉に目を丸くするコウイチさんが、目の前に、いた。
続く。 17へもどる TOPへもどる 19へ
|