「鎖を持つ家」
7

 篤が山代へと続く道を一人で辿っている頃、擁護は手術の準備を進めていた。

 1年前、先代のハクが亡くなり、山代は次の生け贄である山城の次期当主を名指しした。
 息子のシンである。
 始め、一族の誰もが信じることは出来なかった。
 なぜなら、山城の当主は能力の高い者がなるのが常とされていたからである。
 決して直属の子孫が資格を持つというものではない。
 心理学を学ぶために島から離れ東京で暮すことを許されていたシンは、山代の結界からも遠く離れることが出来る程度の能力しかないのだと考えられていた。
 実際、シンには自覚している能力がほとんど存在しない。
 島の中には、シンに比べて遥かに高度な能力を持つ人間は幾らでも存在していた。
 一族の誰もが次期当主がシンになるとは夢にも思わなかったのだ。
 ごく一部の人間と、山代を除いて。

 「…………」
 「………シン…さ…ま」
 「……ん?どうしたテアイ?」
 「……入って…も、良…です、か?」
 「ん、良いよ」

 山代に繋ぎ止められた、結界中心部護衛のテアイと、

 「水屑、が、用、意…できまし、た…って」

 彼女の姉であり、やはり山代に繋ぎ止められている使用人の水屑。
 この2人だけは、ハクの臨終が近付く前から次期当主にはシンが指名されることを確信していた。
 一族中で、群を抜いて高い能力を保有するこの姉妹には、潜在能力を見分ける力も携わっていたのである。
 確かにシンには現在、表面化している特殊な能力は何一つとして存在していない。
 だが、二人にはシンが時折見せる、強い意志のうねりを感じ取っていた。
 まだ全くコントロールされていない『うねり』は、水に多大なる影響をもたらした。
 拡散する意志の波動が、水の中で形を形成させるのだ。
 時にそれは水紋であり、時にそれは波であり、時にそれは雨にもなった。
 意志を帯びた水は、結界に存在する魑魅魍魎や鬼達に畏敬の念を抱かせた。
 ハク臨終の瞬間には、水は人の形にまで姿を変えようとしたのだ。
 通常、意志を持たない物体に意志を与えて動かすことは人外の能力とされている。
 凄まじい潜在能力をシンは身体の奥底に秘めていたのだ。
 敢て島から離し、東京の高校、大学へと通うことを許していたのは、偏に山代がシンの未熟な能力がもたらす水への影響を懸念しての措置であったに過ぎない。
 継承の儀により潜在という封印を解き放ち、シンが持つ底知れない能力を自分の体内で発揮させ、より一層の力を貯えようと山代はシンの成長を心待ちにしていたのであった。
 逸材。
 シンは間違いなく、逸材であった。

 「……ん。分かった。擁護先生は?この部屋まで来てくれるのかな?」
 「はい。消、毒終たら、呼び、に、いく、て」
 テアイは言語に障害を持つ。これは山代によって潜在能力を引き出された時に払わされた、大きな代償である。
 テアイは多くの能力を内に秘めた子供である。
 引き出されたのは2つ。
 常軌を逸脱する程の武術の能力と、呪術の能力である。
 潜在能力を力ずくで引き出すには、その数と同数の代価を要とする。
 テアイは、4年前に山代に選ばれ能力を引き出されることとなった。
 代価は脳内の言語中枢の破壊と成長である。
 必死の努力はようやく会話を再獲得したものの、成長はあの日の8歳のまま、もうこれ以上成長することは出来ない。
 「シン様…元気、出た、ですか?」
 人見知りが強いものの、素直で優しい少女である。
 「…うん……出たよ」
 素早く辺りを見渡すと、作務衣の懐から小さな包みを取り出して、シンの掌にちょこんと乗せた。
 「……カンロ飴?」
 「元気、出る薬、です。シン様にくれます」
 「…俺に?」
 「水屑にバ、レると、怒るて、怖いか、ら、早く、食え。です」
 「………ありがとう」
 「今食え、です、よ?」
 早く、と、言わんばかりに目を丸くして覗き込んでくるテアイにシンは優しく笑いかけた。
 「うん。ありがとう。じゃ…大きいから半分だけ貰おうかな」
 包みを開いて奥歯で半分に噛み砕くと、
 「はい。一緒に食べよう」
 と、半分はそのまま口の中に入れ、半分をテアイに差し出した。
 「…あ…」
 「はい。これから手術だから。急いで食べたら勿体無いからね。だから半分。テアイも食べな」
 テアイは耳まで真っ赤になって半分に割られた飴を受け取り、僅かに震える指先がバレないように急いで口へと放り込んだ。
 「あ、本当だ。元気が出てきたよ。ありがとう、テアイ」
 「…………それは…良か、たです……」
 子供の淡い、恋愛。
 暫く2人は黙って飴を舐めていたが、ふと上目遣いにシンを見上げたテアイが気付いた。
 「シン様、誰、か、来るですか?」
 「……いや。どうして?」
 「今、人待、つ、目、してたからです」
 ふと、シンの表情が曇る。
 「……ああ」
 「山代に来るですか?」
 「いや。来れないよ」
 妙にきっぱりとした口調が却って不自然だった。
 「どしてですか?」
 「山代のことを知らないからね」
 「なんでですか?」
 「……彼は…」
 無理にいつも通りの口調にしたような、重い言葉。
 「彼は山城の人間じゃないからね」
 山城の人間でなければ山代のことを知らないのは尤もである。だが、テアイはシンの表情の違和感が不思議でならなかった。
 「…でも、来て欲しそな顔、してるです」
 あまりにも不思議そうに言ったから、思わず本音の欠片が溢れた。
 「……会いたいけどね……。でも、もう会わないよ」
 まるで、全てが終ってしまったかのような口調に、テアイは次の言葉が続けられなかった。
 カリリ…と、口の中の飴を齧った。
 「ありがとう。テアイ。おかげて元気が出たよ。さ、テアイも準備が忙しいんじゃないのかい?俺はもう大丈夫だから。ほら、着替えもしなきゃいけないんだろう?」
 「………だいじょ…ぶ、ですか?」
 「うん。大丈夫。ありがとう」
 側にいればいる程、シンの心の落ち込みが感じ取れる。
 しかし、もう後には引き返せない。
 継承の儀はもう始まっている。
 テアイは心を痛めながらも立ち上がり、一礼の後、シンのいる部屋を後にした。
 「………………………」
 自分の言葉が理解出来ずに見開かれたままの瞳。
 捨てられるのだと気付いた時の、純粋な悲しみ。
 性格に邪魔されて、引き止めることも、縋ることも出来なかった、愛しい、あの人。
 やっと手に入れたと思っていたのに。
 最悪な形で裏切る結果となってしまった。
 山代に気付かれた今、自分を憎ませることしか篤を守る術はない。
 山代から篤を守り切る自信は、なかった。
 全ては昨日起こったことで。そして、全ては昨日終ってしまったことで。
 今更もう、取り返しのつくものではない。
 失ったものは余りにも大きく、シンの心は麻痺を起こしていた。
 何を失っても。
 篤を失った今となっては、もう、大した問題ではなかった。
 部屋の中から庭を眺める。
 強い夏の日射しが、手入れの行き届いた庭を隅々まで照らしている。
 蝉の鳴き声。
 「………………今日も暑くなりそうだな……」
 ぽつりと呟く。

 「……さて、シン君、体調はどうかな?」
 「…擁護先生…はい。大丈夫です」
 準備の終った擁護がシンの待つ部屋へとやってきた。いつも通りの表情をしてくれているのがシンにとっては何よりもありがたかった。
 「そうか。で、何時くらいから始めれば間に合うのかな?」
 「『清めの儀』の前までにお願いします」
 「そっかー。じゃあ、後一時間くらいで始めるようだね」
 「  宜しくお願いします。角膜は水屑に渡して下さい。入れる容器は後で持ってこさせますので」
 医者は、気丈に振る舞う人間の必死で隠す恐怖が見える。
 務めて明るい口調で言葉を探した。
 「…しかし、シン君も大変だねぇ」
 「昔から決められていることですから」
 「良い目なのにねぇ。……まぁ、でも、せめて他の誰でもなくこの僕にやらせて貰えて嬉しいよ」
 「……済みません」
 「コラコラ、シン君、こういう時は文句の一つも言って良いもんだよ」
 「……………いえ。辛いのは俺だけじゃないです。…それに、眼球ごと奉納していた昔に比べれば、視力を奪われるだけで済むんですから、俺はまだ幸せな方ですよ」
 抉りとられた父親ハクの左の目。
 綺麗でとても良い目だった。
 「……そういうもんなのかねぇ…」
 「それに、手足にしても今回は麻酔を使ってもらえるんですから。多分俺が一番楽な継承者ですよ。擁護先生が説得してくれたんですってね。ありがとうございます」
 「いや。私にはそれぐらいしか出来なかったよ。結局は君に何もしてやれない」
 「もう十分です」
 シンは、笑った。
 「もう、十分です」
 継承の儀は視力と引き換えに、霊視の力を与えられる清めの儀と、斧により手足の切断を行い、山代に永遠の忠誠を誓う奉納の儀の2つの儀式から構成されている。どちらも命の危険が伴い、実際、儀式の最中に命を落とす継承者も少なくない。
 今回は、決してシンに危険がないようにとの特別処置が認められたのだ。
 それでも、切断は死と隣り合わせであることには変わりない。
 素人の止血技術のみで、切断から儀式の終了までの時間を生き延びなければならないのだ。
 「『奉納の儀』には、やっぱりどうしても立ち会えないのかねぇ」
 「はい」
 「そっか…」
 「大丈夫です。俺、大丈夫ですから」
 本心ではない、偽りの言葉。

 繰り返す止血法法。
 とにかく意識を失ってはいけないよ。
 貧血とショックでダメージは大きいだろうけど、気を失ったら状態は一層危険なものになってしまう。血は見ても血と思わないことが大切だからね。特に男性は血を見なれていないから、驚いて負けてしまうことが良くあるんだ。血と思ってはいけないよ。出来れば下には緑色の物を敷いて貰った方が良い。緑は赤のキツさを和らげてくれる効果があるんだ。出来れば視線は遠くをぼんやり眺めなさい。
 …出来る限り何か他のことを考えていた方が良い。数を数えるのも一つの方法だよ。
 それからね、願うんだ。
 …そう。願うんだよ。
 『自分は絶対に生きるんだ』ってね。強く願うんだよ。大切な誰かのことを考えても良い。それが一番かもしれない。とにかく、何でも良いから。考えることや、思うことや、願うことを続けるんだよ。僕が『もう良いよ』って言うまで。それまで君は1人きりで頑張らなければいけない。絶対に僕が助けるまで、頑張るんだよ。
 僕は、結局…君の父さんにも、君にも何もしてやれない。…せめて僕に君を救うチャンスをくれよ。そうしたら、絶対に君の命だけは救ってあげるから。
 ……そんなお礼なんて言わないでくれよ。僕はまだ何もしていないんだから。
 さぁ、じゃあ、一時間後にまた迎えに来るよ。僕は最後の準備に掛かるから。

 ねぇ、シン君。
 最後の一時間。両目でしっかり何でも見ておきなさい。心残りのないようにね。

 左目が最後に見た篤は、今にも泣き出しそうな心細気な…痛々しい姿。
 
 残された1時間の中で、本当に見たいと思うものは、どこにも、なかった。


 「………それじゃぁ、シン君、始めようか」
 「はい。……擁護先生」
 「ん?何かな?」
 「……いえ。宜しくお願いします」

 篤が山代へと続く道を辿る時、シンは永遠に左の視力を奪われる手術を受けていた。
 そして、失う左目の光。
 
 シンが擁護に手術を受けている間、テアイは屋敷の離れで舞の練習をしていた。
 奉納の儀で奉納される舞の一つで、『封印解除』の意味を持つ踊りである。
 ただ形式的に順を追って舞う動きには心も意味も無く、余計にテアイをイライラさせた。床を蹴り、高く飛び上がり、空中で回転をかけながら印を逆手にかけていく。全く音の無い着地。封印の解かれた空間に念を放ち魑魅魍魎の侵入を防ぐ。掌の返し、足の運び、首の捻り一つ取っても意味のある動き。熟知し理解し、儀式の際には忠実に舞わなければ『返し』に命を奪われる危険を伴う舞である。
 分かっているのに、今のテアイには集中すら出来なかったのだった。
 手術に使う消毒用の熱湯を渡した帰りの水屑が、離れにいるテアイに気付き、中へと入った。
 傍目から見ても分かる、乱れた動きを黙って眺めていた。
 「……はぁっ……はぁ…っ……はあっ……」
 「…どうしたの?テアイ」
 テアイの肩が小さく震えた。
 「……はぁ…っ…どう…も…、しない……」
 「奉納の舞をそんな風に踊ってはいけないわ」
 「…………」
 「息まで切らして。舞はそういうものじゃないって言ったのは誰だったっけ?」
 「……テアイ…」
 水屑は優しく続けた。
 「まだ練習しなくちゃダメ?」
 「………ダメ……ない」
 「じゃあ台所においで。白玉あるわよ」
 「……いらない」
 泣き出しそうな拗ねた口調。
 「どうして?白玉好きでしょう?」
 「…………」
 「本当にいらないの?」
 「…………いる」
 「2つしかないから、誰にも内緒ね」
 笑いながら水屑が言うと、ようやくテアイが向きを変えて顔を見せた。
 やはり、今にも泣き出しそうな顔をしている。
 「………水屑………今……何時?」
 「ん?もうすぐ5時よ」
 水屑には、俯いて唇を噛み締め、両手で作務衣の上着の裾を握り締めるテアイの気持ちが良く分かった。水屑もテアイと同じ気持ちだった。しかし2人で悲しむことなど許されない。
 「大丈夫よ。そんなに難しい手術じゃないんだから」
 テアイがキッと、水屑を見詰めた。
 「シン様、左目、もうおしま、い、か?」
 「そうね。もう何も見えなくなるわ。……ダメよテアイ。そんな顔しちゃダメ。一番辛いのは誰?」
 テアイの唇が小さく震える。
 「……シン様」
 「そう。私達は何も失わないの。失うのはシン様なのよ。だから、そんな顔しても見せてもダメ」
 ぎゅっと目を瞑り、涙を堪える。
 「……………うん……」
 じゃあ…と、水屑が立ち去ろうとするまでテアイは黙ったままだった。
 「………じゃあ、後で台所にいらっしゃい」
 「……でも…」
 「ん?なに?」
 「………シン様、の、見えない、左、目、見る、と、テアイ多分泣く」
 「じゃあ、もうシン様に会っちゃダメ」
 「やだっ」
 水屑は無理に怒った口調を作る。
 「だったら泣いちゃダメ。いつも通り普通でいなさい。それしか私達に出来ることなんてなにもないのよ。
 …ね、テアイ、山代は二つあるものしか欲しがらないのよ。心臓とか、脳とか、命とか、そんなものは奉納しないでしょ。目も手も足も、まだ一つ残して貰えるものよ。一つしかないものを欲しがる家はたくさんあるわ。本当に、たくさんあるのよ。でも、山代は違う。山代は当主と共に生きていく家なの。シン様は唯一人、山代と生きていくことを許された人なの。テアイも分かっているでしょう?これはもう決められたことだから、私達にはどうすることも出来ない。いつも通りになにも無かったようにこれから先のシン様にお仕えするのが私達の仕事よ。決められたことでなにを思っても、それはテアイの自由だわ。でも、それを外に出してはダメ。だから、絶対に泣いてはダメ」
 テアイが顔をくしゃくしゃに歪める。必死で涙を堪え、息を整え、水屑を見上げた。
 「…山代は、シン様、の、手と、あ、ししか、いらない、のか?」
 「ええ。テアイの手と足では意味が無いのよ」
 ゆっくりと、テアイは床に視線を落とした。
 「…………そうか……」
 聞き取るのがやっとな程の小さな声で、呟いた。
 水屑は胸が痛むのを無理矢理無視していつもの表情を作り上げた。
 「第一、シン様が自分の代わりにテアイの手足を切らせるなんてしないわよ。さ、ほら、台所に行きましょう。白玉、一緒に食べましょうか?」
 テアイの視線は、床から上がることはなかった。
 「………もすこし、一人で、いる」
 分かった。早くおいでね、と、テアイの頭を軽く撫でて水屑は離れを後にした。
 これ以上テアイの側にいたら、自分まで涙が出るかと怯えたからだ。
 広い板間の離れの中で、テアイは床を見詰めたまま、少しの間我慢した。
 拳を固く握り締め、込み上げる嗚咽を必死で飲み込み、全身に力を込めて、泣くまいと。
 必死に。
 それでも涙は止められなかった。
 「………シン様……」
 押し殺された小さな、小さな啜り泣く声。

 
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今回は別視点で。いよいよ山代内部登場です。