++ 高野電気工事 5 ++

 嫌な予感がした。
 俺は電気屋の休憩所から棟の裏側にある、とんでもない広さの左官屋の資材置き場に向かって走りながら、今朝のコウイチの様子を思い出していた。
 何に怒っているのかも言わず、ただただ黙り続けていたコウイチ。
 いつもみたいに親方さんの言葉に食いかかろうともせず、休憩所から出て行ったコウイチ。
 部屋内で仕事も始めようとしないで座り込んでいたコウイチ。

 『使用後だったとか?』

 小さく揺れたコウイチの肩。

 『違う』
 『何が?』
 『……違う』

 奥歯にものが挟まったような…不器用な返事。
 
 そして岡野さんの言葉。
 ーー俺、今思い出したんですけど…前に他の職人さん達が噂してるの聞いたことあるんですよ。…あの一件以来、左官屋の息子はコウイチさんを逆恨みしてるらしいって…ーー

 昨日の夕方。あの時間だったら。本来ならもう帰っているはずの左官屋。単独で、シャワー室へと歩いて行った茶髪。

 ヒントは、いくらでもあった。
 ただ、それに俺が気が付けなかった。
 ああっっ!!!何でそんなことにも気付けねぇんだよっっ!!!
「………くそっっ!!」
 あの時、コウイチは…何かを言いたくて……言えなかったんだ。
 何に?
 決まっている。
 昨日のシャワー室での出来事だ。
 コウイチは……おそらく力でねじ伏せられた。
 狭いシャワー室の中、突然に身体の自由を奪ってしまえば、いくらコウイチでも反撃すら出来ないだろう。
 例えば……後ろから抱き着かれたり…。
「………っ…」
 元から全裸だったんだから、服を脱がせる手間もない。茶髪がズボンのジッパー下ろして…一物を出せば直ぐだ。


 凌辱。


 嫌な言葉が頭に浮かんだ。
 頭を過る、犯されるコウイチの姿。
「…アノ野郎……っっ!!」
 自分でも怒りで形相が変わっていくのが分かった。よりにもよってそんな形での報復。
「許さねぇっ…!」
 休憩所のプレハブの前を走り抜け、砂利を蹴散らして、駐車場を駆け抜ける。
 もしも…もしも…コウイチに手を出したんだったら…っ…
 茶髪の野郎っっ!!
「ブッ殺してやる…っ…!!!」
 一気に建物の角を回り込んだ。
 その時。
「おりゃゃぁぁぁっっっっ!!!!」 
 茶髪の雄叫びが上がった。
 ドスッ…という鈍い音。ズシャっと何かが倒れたような音。そして俺の目は………信じられない光景を見た。
「コウイチッッ!!!」
 自分でも信じられないぐらいの大声でコウイチの名前を叫んだ。
 目の前には一袋三十キロもあるセメントを両手に掴んだ茶髪と…
 その足下に倒れている、コウイチ…っ。
 「コウイチィッ!!」
 飛び込むようにコウイチの側に走り込み、抱き起こした。
「コウイチッッ!!コウイチッッ!!」
「う………」
 揺さぶる。コウイチは苦しげに呻くばかりで、意識の戻る気配がない。
「コウイチッ!しっかりしろっ!!おいっコウイチッッ!!!」
 必死で名前を呼ぶ。
 コウイチは口を開いたまま、ピクリとも動かない。
「コウイチッッ!!」
 目が開かない。
 ぐったりとした重さだけが腕に伝わる。






 死ヌ。





 突然、そう思った。
 死ぬ。コウイチが死ぬ。現場で、喧嘩で。 俺のコウイチが死ぬっっ。
「おぁぁぁぁっっっっ!!!」 
 目の前が真っ赤になる。
 理性?
 そんなもん知らねぇっ!!
 俺は、立ち上がる勢いを利用して茶髪の顎めがけてアッパーをかました。
 ガラガラガラッッ!!
 足場用の鉄パイプの上に茶髪が吹っ飛び、辺りにパイプが散乱する。
「んだよっ!コラァッッ!!」
「テメェ!!コウイチに何したッッ!!」
 プッ、と、血の混ざった唾を吐き出し、茶髪が俺を睨み付ける。
「オメェに関係ねぇだろうがよっっ」
 一足飛びに茶髪に飛びかかる。切れた口端を気にする茶髪の胸倉を掴み上げる。
「言えッッ!!何したっ!!!」
 首を締め上げるように自分に引き寄せた。
 崩れた鉄パイプを背中に、首を締め上げられた茶髪が薄気味悪く俺を見て笑う。
「何熱くなってんだよ。何?お前、コウイチのナニか?」
 ニヤニヤ笑いながら奴の両手が俺を掴む。 力が資本の左官屋ならではの握力だ。
 ギシッッ!と手首の骨が砕けそうな音を上げる。同時に、思わず頭が仰け反りそうになるような激しい痛みが手首に走る。
「……なるほどなぁ。この狂犬てなずけるには、頭じゃなくてチンコ撫でろってか」
 挑発するような即物的な言い方に、思わず言葉を失う。こんな時だっていうのに、コウイチとのセックスを思い出す。
「…………」
 その一瞬のスキを突かれて、今度は逆に胸倉を掴まれた。
「…その通りですってか?ケッ、気色悪りーんだよっ」
 ブワァッッっと、熱気のように怒りが新たに沸き上がってくる。こいつだけはマジ、許せねぇっ。
 俺は真直ぐ睨み返して言い返す。
「…テメェに言われる筋合いねぇよ」
 自分の声とは思えないような、低く、くぐもった声が出た。
 茶髪が俺を掴んだまま強引に立ち上がり、手首を返しながら物凄い力で顔の間近に引き寄せた。
「鉄筋屋も仮枠の奴らも皆それであいつをてなずけたって訳か。まぁそうだなぁ、…狂犬に噛まれりゃテメェの命が危ねぇもんなぁ。…へへっ…やっぱ俺もそうしなくっちゃヤバいよなぁ」
「コウイチに何したっっ」
「さあな…」
「言えっっ!!!」
「あーあームキになって可愛いねぇ」
 ニヤニヤと笑いながら更に顔を寄せる。ニイッ…と笑って見せた歯は血で真っ赤だ。
「…可愛いって言うとよぉ……オメェの犬は良く見りゃエラく可愛いんだよなぁ。昨日…へへっ…良かったぜぇ」
 涎でも垂らしそうな笑いを浮かべて茶髪は続ける。
「あの裸見せられちゃ…誰かさんじゃなくてもその気にさせられるよなぁっっ!!」
 ゴツッッ!!!
「!!っっ………うう………っっ……」
 至近距離にいた茶髪の顔が大きく後ろに仰け反った直後、思いっ切り俺にめがけて頭突きを食らわせてきた。
 頭に重く激しい衝撃が来る。
 目の前に火花が散って、フッ…と意識が遠のきかけた。
 手を離されて支えを失い、不様にもその場に倒れ込んだ。息も吸えないほどの痛みに、暫く動きが取れなくなった。
 頭の上から茶髪のバカ笑いが聞こえる。
「あの犬は今日から俺が貰ったっ!オメェみてぇな小物にゃ役不足なんだよっ。ああいう上玉はよぉっ、俺みてぇな奴が鎖付けて飼ってやらねぇとなぁっ。…アン時かかされたハジ、きっちり精算させて貰うぜっ。暴れたところで先刻みてェにセメント袋で頭殴りャアいっくらバカでも、ちったぁ静かにするだろうよっ!!」
「……テメェみてぇに腐った奴に……コウイチは渡さねぇ……っ…」
 言った直後腹を思い切り踏み付けられた。
「グゥッッ…」
 立て続けに頭を蹴られ顔を殴られる。
「ざけんなっっ!!ザコがナメタ口きいてンじゃねぇよッッ!!」
 口の中に血の味が広がる。痛みが辛うじて意識を繋いでくれたが、畳み掛けるような攻撃に正直手も足も出ない。
「電気屋が左官屋にたてつくなんざっ!!百年早ぇんだよっ!!」
 腹の上にセメント袋を叩き付けられた。
 食った昼飯が逆流する。耐えきれずに身体を折り曲げて胃の中のモノを吐き出すと、
「クセェんだよっ」
 笑いながら更に腹を蹴り付けてきた。
 隙を突いたら止めを刺すまで攻撃を止めないのが喧嘩の鉄則とばかりに、茶髪の攻撃は容赦なくいつまでも続く。血の味もゲロの味も、途中で何だか分からなくなった。
 顔を蹴られて瞼を切ったのか、目に血が入り視界がぼやける。
 意識が遠のき始めた時、興奮気味の声で茶髪が吠えた。
「テメェ殺して、あの狂犬に俺のデカマラぶち込んでやらぁっっ。ザコはなぁっっ!ションベン漏らして家帰って寝てろっっ!!!」
 ギャハハッッッ!と笑い声が遠くに聞こえた。
 「………イ…チ…」
 …途切れかける意識が完全に失われそうになった直前、俺はぼやける視界の向こうに、茶髪に乱暴に抱き上げられ、シャツの下から手を突っ込まれているコウイチの姿を見た。
 「………っ……」
 苦しそうな表情をしているものの、ぐったりと、コウイチはされるがままで……。
 茶髪はギラギラと興奮させた目をさせながらコウイチにキスをしようと唇を尖らせた。
 「…コ…ウ…イチ…ッッ」
 俺のコウイチがあんな野郎に…っっっ!!
 一瞬で体中の痛みが消えた。
 耐えきれないような衝動に飲み込まれる。
 自分でもヤバいと思った。
 沸き上がった衝動は…殺意だった。
 だが、もう押さえようにも……
 「お前なんかに…っ…俺のコウイチは…絶対に……渡さねぇっっっ!!!」
 押さえきれない…っ!!!
 頭の奥で何かが音を立てて切れた。
「うあぁぁぁっっっっっ!!!!!」
 俺は茶髪に掴み掛かった。視界がぐらつき目測を過ったが、何とか両足に飛び突き、引き倒す。
「うわっ!」
 必死で茶髪の腕からコウイチをもぎ取り、遠くに押しやる。
「テメェッッ!!何しや…うわぁっっ!!」
 最後まで言わせず、茶髪の髪の毛を両手で掴み引き千切った。
「コウイチに触んなぁぁっっ!!!」
 そのままがむしゃらに殴り掛かる。
 殴るフォームも何もあったもんじゃなかった。
 よろけながらも立ち上がり、全体重をかけて拳ごと飛び込む。唇を狙った。コウイチにキスしようした唇がとにかくムカついた。手応えと共に、拳が奴の口の中に必要以上にめり込む。
「ウグッッ!!」
 茶髪が口から血を吹き出し、慌てて両手で口を押さえる。その仕種が余計腹立たしくて続けざまに殴り掛かっていっ た。途中蹴り返されて、また胃の中のモノが逆流する。咄嗟に口を押さえようとして、止めた。構うもんかっ!!俺はそのまま奴の顔めがけてゲロを吐き出してやった。
 ゲロの下に覗く目が、怯えたように俺を見上げる。
「…う……わぁぁっっ!!」
 茶髪が逃げ出す。
「…逃げんじゃ…ねぇよ…っ!」
 四つん這いで逃げていこうとする茶髪の肩を掴んで引き向かせる。口からダラダラと血を流しながら、何かを言おうとしていたが、そのまま俺は顔めがけて倒れ込みながら右手の拳を突き出した。
 『ボキッッッ!!』
 拳に響く、何か堅い部分曲がる感触。
「うがぁぁぁっっっっっ」
 悲鳴が上がる。
「あがっ…あがっ!…あぐっ……っっ……」
 不様に転げ回る茶髪。
 何かが起こったのは遠く頭に感じていた。
 だが、それが何かは、その時の俺には分からなかった。理性も何も吹き飛んで、俺は何も考えられなかったのだ。
「コウイチは渡さねぇっっ!!!」
 怒りなんてそんな生易しいもんじゃなかった。
 純粋な殺意。 
 茶髪の死体が見たかった。
 そうしなければ、元の自分に戻れないような気までした。
 こんなに誰かに殺意を持つのは初めてだった。
 本気で殺してやろうと思った。
 顔面を血まみれにして転げ回る茶髪をよろけながらも引き立たせ、殴る。蹴る。頭が振られる度にクラクラした。足がふらついて、殴ると自分まで一緒に倒れてしまった。蹴られた腹がムカついて、途中何度も何度も吐き戻した。それでも殺意が俺の身体を起こさせた。
 握った指の間にヌルヌルと血が粘り着く。茶髪の血かと思うと、余計逆上してしまい、もう殴るのを止めることが出来なくなった。
 この辺りから記憶も怪しい。
「谷田君ッ!!わぁぁっっ!!わっ!わっ!落ち着いてっっ!!死んじゃうからっっ!!谷田くーんっっ!!それ以上やったら本当に死んじゃうってっっっ!!!痛いたいたっっ………おっ、落ち着いて…落ち着いてっ!コラ谷田君ッッ!!落ち着けってばっ!!!」
 突然始まった喧嘩に、左官屋の他の職人達が逃げ出していたのも、慌てた左官屋の親方がうちの親方さんを呼びに行ったのも、周りには騒ぎを聞き付けた職人達が黒山の人集りを作っていたのも。
 怒り狂った俺を果敢にも止めようと背中から飛び付き、ブンブン振り回されてた男が、実はアノ小心者の岡野さんだったことも…何も。
 その時の俺は…本当に何も…分からなかった。

 

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や・・・谷田君がキレましたっっ。