「大航海時代」
《お立ち読み編》
…その名前を聞いた途端…正直、そのまま倒れてしまうんじゃ無いかと思った。
「岡野君…?どうしたの?」
「……あ、いえ…別に」
「大丈夫?顔色悪いよ」
「や…ホント……大丈夫ですから」
コウイチさんに心配そうに顔を覗き込まれて、慌てて笑顔を捻り出す…けど、自分でも無理をしているのがすごく分かる。滅茶苦茶顔が引き攣ってる。
「…んじゃ、正式に引き受けちゃうけど良いかな?」
携帯電話を右手に持ったまま、確認するようにコウイチさんは俺に尋ねた。
「…は…い」
本当は、首を横に振りたかった。
でも…それだけはどうしてもしたくなかった。
何でって…勝手に俺がそう思っているだけなんだけど…でも、俺にとっては…絶対に負けられない…ライバルが…コウイチさんの隣に立っていたから……。
この二人にだけは、仕事以外で俺の情けないところなんて…どうしても、絶対に、何が何でも…見せたくなかったから…。
「…岡野君?」
「大丈夫です」
引き攣ってはいたものの、精一杯の笑顔を向けた。
…高野電気工事がこの九月から請け負っている新しい現場は、まだまだ基礎工事の真っ最中。
電気屋って言うのは、現場着工と同時に現場入りする数少ない業者の一つ。建築誕生の瞬間から完成までの全ての行程に携わっているんだ。
今は、重機が更地を物凄い勢いで掘り下げている真横でアースの基盤を地中に埋め込んだり、地下の配線工事の作業をしているところ。
って、言っても、流石にこの状態では電気屋の仕事もまだまだ本格的な始動って訳にも行かなくて、ここの現場には、一週間に一回も顔を出せば大丈夫なんだって。
こういう時期って現場終盤の、あの突貫工事はなんだったんだ…ってくらい、ヒマでヒマで。
だから、突発で入る小さな電気工事を請け負ったり、他の現場の手伝い(『応援』って言うんだ)に行ったり色々して、腕が訛らないように経験値を稼ぐ。
勿論、良い臨時収入にもなるしね。
こんな重機のガーガーゴーゴーと騒音しきりの場所で言うのも何だか変なんだけど、今が一番のどかな時かな。 東京のど真ん中で、秋晴れの空をのんびりと堪能しながら仕事なんて…結構贅沢したりしている。
荻窪駅から徒歩十分。駅近くにして緑豊か(に、なる予定)な新未来型(?)マンション。世帯数五十六。広いリビングルームがセールスポイントの4LDK。最多価格は三千八百万円…の、この新しいマンションの電気工事を請け負うのは、高野電気工事有限会社。
二代目親方のコウイチさん、電気工事士見習いの俺、それから、先月アメリカから帰ってきたばっかりの谷田雄太(やた ゆうた)君の三人でやっている、小さな小さな有限会社。
でも、職人さんの腕は確か。
俺…は、さておき、コウイチさんの腕前は下手なベテラン職人さんをも黙らせて唸らせるぐらい物凄い。
俺より二つ年下で、まだ二十代っていうのに。
腕前って年齢なんかじゃないんだなあ…って、つくづく思う。
俺より先輩の谷田君も、『見習い』なんて言うのも失礼なぐらい仕事が出来る。コウイチさんの信頼も絶対で、ここ一番の真剣勝負の仕事の時は、迷わず梃子(てこ 助手のことです)に選んでいる。
他の現場に応援に行く時も、誰からも見習いなんて思われない。慢性的な人手不足の職業だから、スカウトなんて日常茶飯事。
『いえ。俺見習いッスから』
と、いつもの体育界系の丁寧語で、応援の度に断っている。
俺は…ホントまだまだ。
この現場でようやく四つ目。
やっと一連の流れが分かってきたところで、朧げながら次の仕事の予測が立てられるようになってきたかなぁって感じ。
それでも最近仕事が楽しくなってきた。
ドライバーで、ギリギリのところまでネジを締め付ける感覚とか、インパクトの力の抜き加減とか。
『説明だけじゃどうにもならないんだよね』って、言われていた部分が何となくでも体得出来てくると、単純に嬉しい。
あ、それと…些細なことなんだけど、記憶力だけは昔から自信があって、電気屋の詰め所にある電材の保管場所は全部頭の中に入っているから、おかげで探さなくても大丈夫。
先代の親方さん(コウイチさんのお父さん)が引退してから一気に平均年齢が引き下がってしまった会社だけど、
現場で誇れる会社だと思っている。
……思っているのに……。
「……ふう…」
ちゃぷん…と、湯舟のお湯が揺れ、小さな音を立てる。
『パチャ…』
両手でゆっくりと顔を擦って、もう一度溜め息。
「……はぁ………」
明日のことを思うと気が重くて重くて。
あんまり嫌だから、途中から考えるのを頭が止めてしまい、ずーっとドロドロと憂鬱な気持ちがとぐろを巻き続けている。
あああ……どうしよう……
本当、マジ…どうしよう……
結局、コウイチさんも谷田君も急変した俺の様子に心配しながらも、俺の『大丈夫です』の一言で、明日の仕事は決定してしまった。
『顔色悪いよ?どうしたの?』
『いえいえ…ホント…何でもないですから』
『でも岡野君、大丈夫って顔してないよ』
『…あ……もしかして、三晃製薬って岡野さんが前に勤めてた所ッスか?』
『……う、うん』
『え?ウソ、あのリスト ---』
『コウイチッ』
谷田君が小さい声で鋭く怒ると、軽くコウイチさんの手を叩く。
『あっ…ごめん……』
『そんな、リストラされたことはもう気にしてませんし…大丈夫ですよ』
だから、そんな顔しないで下さい。あなたらしくないですよ。と、心の中そっと付け足しながら俺は腹を括った。
『本当、気にしないで下さい。ちょっとビックリしただけです。まさかもう一度あの会社の門を通れるなんて思わなかったら、驚いちゃっただけですから。行きましょうコウイチさん。谷田君』
『でも…』
『コウイチさん』
『ん?』
『大丈夫ですから』
本当に…?
と、心配そうな顔をするから。
『大丈夫です』
って、もう一度無理矢理の元気そうな声で、言った。
……………はぁ。
ぬるい湯に浸かりながら、また溜め息。
そう。明日から三日間、高野電気工事は突発の仕事が入る。
三晃製薬本社管理棟、全階の廊下照明の取り替え工事。
そう。正に俺が営業課で働いていた会社だったりする。
随分楽になれたけど、それでもやっぱり、思い出すのは今でも辛い。
大企業の管理棟と言えばその数は膨大なのに、四日後に控えた総会のために工期はたったの三日間。
企業が大きくなればなる程安全基準が厳しくなるから、扱う電線も太くなる。
そうじゃなくても数が多くて大変なのに、扱いにくい電線を使って、その上工期がたったの三日。しかも平日。やりにくいことこの上ない。
一度請け負ったら『間に合わない』なんて言い訳は絶対出来ない。条件悪い仕事なんて、百害あって一利ぐらい。賢い職人さんだったらおよそ受けない内容だ。
いつも仕事を廻してくれる親会社の社長さんも、どこもかしこも断られて、困った挙げ句に最後にコウイチさんに泣きついたんだろう。
じゃなきゃ、いっくら腕が立つって言っても、大企業の施工工事に年の若い職人さんだけの会社を投入するはずないもんな。
『…じゃあ良い?』
ほっとしたように言っていたから、立場的にも断りにくかったんだろうな。
そうだよね。
大変な条件をクリアすれば、次の仕事がやって来るのがこの世界。ある意味コレって営業の一つなわけで。
「……でもなぁ……」
どんどんぬるくなってきたお湯の温度に気付いて少し追い焚き。
チャプチャプと、お湯の表面を叩きながらぼやいてしまう。
「…なんで…よりにもよって……管理棟かなぁ……」
製薬会社でもトップクラスのシェアを誇り、今年の春から、いよいよ本格的に海外進出を始めた、アノ会社。
その会社から、俺は首を切られてしまった。
しかも、あんな形で…。
辞令。
スーツ。
電話。
リスト。
営業。
グラフ。
叱咤。
「……………」
七階。
会議室。
糸井課長…。
「……っ……」
消された電気。
恐怖と……
…………快感。
「……ああっ…もうっ…」
キリ…ッ…と、痛もうとする胃を叱りつけ、俺は小さな真四角の湯舟からバシャッ!!と、外に出ると、力任せに髪と身体を洗い始めた。
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