「シャッターチャンス」
《お立ち読み編》
アメリカアリゾナ州。
州の五分の二はコロラド高原が占めている。
その高原を西北に分断するように流れているコロラド川が作り出したのがグランドキャニオン。
流石にここは観光客でごった返していたが、それでも大渓谷の眺めは雄大で、ファインダーの中に全てを納めることは難しい。
谷底まで降りると、ロッジがあって一泊出来る。
谷底から見上げる夜明けの景色は、日本では見られないような色をしていた。
真っ暗な谷が、徐々に色付いて行く姿は、ファインダー越しに見ても全身に鳥肌が立った。
聳え立つ岩肌の遥か先に見える断崖は、まるで地上のようにも見えた。
イーストリムのライパンポイントから見た広大な景色とは全然違った表情を見せつけた。
押しつぶされそうな程の原風景に圧倒され続けた二日間だった。
『観光…じゃないようですね』
何枚も、何時間もシャッターを切り続ける俺にガイドは不思議そうに声を掛けてきた。
『ファインダー越しのキャニオンも壮大ですか?』
『…………ええ…』
『君は写真家ですか?』
『…の卵にもなれません』
何度も渓谷を昇り降りする屈強のガイドは『谷に抱かれると、その大きさは見えなくなりますよ』と、微笑って言った。
『谷底の記憶は感覚に刻むと良いです。いつかこの景色の本当の偉大さに気付きますから。今のあなたにはまだ若すぎて、いにしえの姿は捕らえられないかもしれません』
『…そうですね。俺もそう思います』
『でも、君もここまで辿り着けたから、必ずいつか何かを捕らえることが出来るでしょう。ここに来た人間は皆必ず何かを見つけることが出来ます。…ああそうだ。今度写真が出来たら僕にも見せて下さい、将来の芸術家の若き日の写真を手に入れるのも悪くはありませんからね』
そう続けて、小さなメモを俺に渡した 。
『そう言えばユウ、昨夜のチョコは美味しかったですか?』
「…っ……」
いきなり聞かれて思わず動きが止まってしまった。
『…見てたんですか?』
『随分幸せそうに頬張っていましたからね』
ヤバい…見られている。
ガイドはアメリカ人らしいキザな仕種を普通にしながら人懐っこく笑ってみせた。
『まるで、あのチョコをここで食べるために下りてきたのかと思ったぐらいです』
『…はは…そうかもしれないですね』
『だから、そうやって真剣にファインダーを覗いているから驚きました。なんだ、この人は、チョコのためだけにここに来た訳ではないのか?!ってね』
アメリカ行きが決まった時から、この谷に来るのは決めていた。だから、コウイチも俺がここに来るのだけは分かっていた。
ここだけは宿を押さえてくれ、と、言った言葉通りに宿に予約を入れている時に、俺の隣に座ってメモをメモしていたコウイチ。
宿に着いて理由を知った。
先回りして届けられていた小さな郵便物。
笑ってしまうぐらい短い手紙とハートの形のチョコレート。
…おいおいまさかバレンタインか?…と、ホテルのベッドの上で呟いてしまったら、どうしてもコウイチに会いたくなってしまった。
勿体無くて食べられなくて、丸一日カバンの中に持ち歩いていた。
大したことない、コンビニで売ってる、百円もしないピーナッツ入りのハート形のチョコレート。
昔、高校の側のコンビニみたいなパン屋で、好きだからと言って毎日のように食ってたチョコだった。
『なに?そのチョコ、そんなに旨いの?』
『旨いよ。一口食うか?』
思い出して買ってくれたのかもしれない。
「……また懐かしいヤツ買ったもんだな…」
嬉しくて、暫く眺めていたら気が付いた。
チョコから、コウイチの気配が…する。
自分でも何してんだよと思いながらも、ベッドの上に置いたチョコをファインダー越しに覗いてシャッターを切ってしまった。
「…………」
やったらやったで、今度はどうしようもないくらいセックスがしたくなって、久し振りに自分で扱いた。 溶けない距離にチョコを並べてその夜は眠った。
次の日の朝、保冷のバックに氷とチョコを突っ込んで、予約していた谷底に徒歩で下りる一泊二日のツアーに参加した。ガイドにリムトレイル(注…遊歩道のこと)のポイントポイントで水分補給の指示が出される度に、カバンの中に手を突っ込んでは触って確認して安心していた。
断層の一つ一つが歴史だと教えられ、岩肌に眠る化石に目を奪われた。
現場で鍛えた体力でも谷底までのツアーは厳しい。
歩いて二時間後のチェックポイントでメディカルチェックをパスし、また下へと向かう。
一眼レフのカメラと望遠レンズの入ったケースは肩に重くのしかかり、合計二リットルの水が入った背中のバックは、ずっしりと背中にぶらさがる。
段々と疲れて頭がぼんやりしてきた。それでも地面を踏みしめながら下へと向かう。
不思議な感覚だった。
どこまでも続いていた渓谷の景色は次第に目の前のノースリム(北の壁。コロラド河が作り出した崖の北側の壁のこと)だけになっていく。どんどんと視界は遮られていくのに、それでも下に行けば行く程、渓谷の大きさを肌で感じ取ることが出来た。
『私達は、コロラド河を目指すことによって、数億年の歴史を遡っていくのです』
ガイドの言葉を聞く前から本能的に感じ取れた。
一緒にツアーを組んだ観光客が何人も脱落していく中、俺は絶対に自分は辿り着いてやるんだと、黙って歩き続けた。
楽して下まで下りる方法もあることはあったが、ここまで来たらもう最後まで自分の力で歩き切って谷底に立ちたい。
俺は乾き切った黄土色の道を睨み付けるようにしながら、ゆっくりとゆっくりと最深部を目指した。
谷底に何があるわけでもないのに、辿り着きたかった。
数億年…なんて、想像も出来ないくらい時間を掛けて侵食して巨大な壁を作り出した河の側に行きたかった。
行ったら何か分かるような気がした。
自分で決めて歩き始めたこの道程は、誰の助けも欲しくなかった。
『後もう少しです。さあ頑張って』
中盤のポイントでのメディカルチェックをパスしてきた、最後まで残ったパーティーは皆が皆同じ気持ちだったんだろう。
誰もが黙って頷きながらも、ゆっくりとした足取りは止まらなかった。
やがて…河の流れが次第に耳に届き始めた…。
下に着いたら写真を撮ろう。そう、出来るだけ河の側が良い。
見上げるように空を写そう。河の視点で空を見上げて感じたままを写真に残そう。
叫ぶような、写真を撮ろう。
そうしたら……今度こそ……
それが日本に帰れる一枚になるかもしれない。
『良い写真が撮れたら帰るから』
一体俺はアメリカで何枚の写真を撮ったんだろう。
それでも未だに納得出来る一枚は無い。
プロのカメラマンになるべく、写真を撮るために一人で渡ったアメリカ大陸。
コウイチに寂しい思いをさせてまでも、選んで進んで目指す夢。
だったら。
俺は自分の行けるところまで行きたい。
…会いたい。本当はすごく会いたい。会って、空港だろうがどこだろうが、飛びついてくるだろうコウイチよりも先に抱き締めたい。本音を言えば、今直ぐにでも帰りたい。
だが、納得のいく写真が撮れない今は帰らない。 会いたいだけで自分に妥協するぐらいなら、自分の夢なんて追う資格は無い。
コウイチと一緒にいたいなら、自分を誇れる人間であり続けることは最低限の条件だ。
自分の夢に辿り着く、最短のコースなんて分からない。
だったら、目の前の目標を一つ一つクリアーしていくしかない筈だ。
出発する前から憧れていた場所だったら、行けるところへはどこへでも行きたい。
自分の身体と感情と記憶に叩き込めるような方法で全てのことが体験したい。
何の根拠がある訳でもなかったが、谷底にたどり着ければ、自分の中にある本質的な部分と向かい合えるような気がした。
最後の休憩時間。残った水を全て飲み干し、それから、カバンの中に忍ばせたチョコレートをそっと触った。
(……ああ……そうだ。下に辿り着いたら、お前がくれたチョコ、一気に食おう)
きっと、すごく旨いと思う。
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