「緑色の制服」
午後4時が近付く。
「栗原君、コレ今日の分です」
「はいっ」
一日分の郵便物を受け取り、1階にある郵便局へ。
4月に今の保険会社に採用になって、今月で7ヶ月目。ようやく仕事に慣れてきた。とは言え、今はほとんど雑用係みたいなもので、営業なんて言うのはまだ全然研修も受けていない。
1年で満期を迎える自動車保険の顧客リストから契約内容と住所氏名を印字して、内容確認し、更新案内のDM発送の準備が唯一仕事らしい仕事くらいで。
郵便局の最終の取りまとめ時間っていうのがあって、このビルの1階にある柳ビル内郵便局は、午後4時20分までに窓口に差し出さないとその日の内に郵便物が出発しない。俺の会社では、最終の取りまとめ時間に合わせて、毎日4時までに社内の郵便物をまとめて持っていくのが日課になっている。
目下のところ、郵便局に出しに行くのは俺の仕事。
皆面倒くさがってやりたがらない仕事の1つでもある。
だが、俺に取っては、楽しみな時間。
理由はとても人には言えない。
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開くと、中から郵便局員の声が一斉に上がる。
思わず軽い会釈をしてしまう。
俺が子供の頃は、やけに暗いイメージだった郵便局だが、ここはやたらと愛想の良いところだ。女性の郵便局員の何人かは、目線まで合わせてニコニコしている。
狭いカウンターの上には、貯金だの国債だの、全国グルメだよりのパンフレットだの、保険のチラシだのと、ジャンルお構い無しにところ狭しと並んでいる。
4時が回ると、一部の窓口は閉まり(貯金・保険って書いてある場所だ)、職員が下を向いて一心不乱に電卓を叩いている。カチャカチャとリズミカルな音が静かな部屋の中で続いている。
前に一度昼間に来た時は、物凄い混みようで、椅子って言う椅子は全部埋まった上に、立って待ってるお客が、不機嫌そうに窓口を睨み付けていた。中には「おい、いつまで待たせてんだよ!」なんて騒いでいるお客までいて、えらい殺伐とした雰囲気だった。
流石にこの時間ともなると、利用客は郵便物や小包を出す奴ばっかりになり、待ち合い室が広く感じるくらい人がいなくなって、心なしか空気も穏やかになる。
うちの会社も、新人とは言っても、たかが郵便物を出しに行くのに1時間も外に出られては困ると、一番空いているこの時間を狙って1日分の郵便物を出すようになった。俺としても、あんな戦場みたいな郵便局で待たされるのは遠慮したい。バタバタと忙しくなる時間帯とは言え、どうせ行かされるなら、俺だって空いてる時間が良い。
それに、チャンスも増える訳だし………。
「栗原さん、こんにちはー」
分厚い計算書を物凄い勢いで計算していた女性職員が、郵便の列に並んでいる俺に向かって横に身を乗り出しながら、人なっこそうに笑ってみせる。
「こんちは」
俺も、反射的に笑顔で返す。
「今日は小包はないんですか?」
「ああ、なかったですね。ラッキーでした」
「たくさんある時は遠慮しないで声かけて下さいねぇ。集荷に行きますから」
「そんな大丈夫ですよ。それにうちのは書類だから重いし」
「平気、平気。うちの若いのに取りに行かせますから」
と、その女性がイタズラっぽく笑って小さく親指で郵便の席を指差した。
「ひょろひょろですけど、力はあれで結構あるみたいですから。使ってやって下さいね」
「…はは…じゃ、そのうち」
ニッ、と、笑って、女性職員は計算に戻っていった。
「はーい、ではお次のお客さまどうぞー」
俺の並んでいる列の先に、まるで幼稚園の先生のように笑う郵便局員。
窓口黒一点。
「はい、では冊子小包ですね。全部中身は同じですか?……では、1通210円になりますので、合計840円になります。1040円お預かり致します。……200円のお返しです。お確かめ下さい。では、4通お預かり致します……え?…えーとですねぇ、こちらは……明日の到着予定です。でも、本日最後の発送になりますので、明後日到着の可能性もございます。もしもお急ぎなら速達をお付けしますか?……あ、大丈夫ですか?では、このままでお預かりしときますね。ありがとうございました−」
緑色の制服を着た郵便局員。
彼もまだ新人で、郵便の窓口しかやらせて貰えないって言っていた。
俺と同じ見習いみたいなもん。
ある意味同期の職員だ。
物静かな感じで、温和な顔で、笑った感じが、ぽへぇ…としていて物凄く癒し系。
高校生の時、初めてヤッた相手に少し似ている。
強引に押せば落ちるって感じ。
モロ、ストライクゾーンの。
「あ、こんにちは」
「…ども…」
警戒心まるで無しの、可愛い男。
「じゃ、量りますのでお借りして宜しいですか?」
「あ、はい。お願いします」
俺がこの仕事を喜んでやる理由。
別に女がダメって訳じゃない。
ただ、男も平気ってだけ。
側にいて、のんびりした気分になれる感じが好みで、細やかで、子供に好かれるタイプが良い。誰にでも優しく出来るのは最低限の条件で、笑った顔がちょっとトロい感じがすれば尚更良い。デカさはこだわらないけど、出来ればキスは上から出来る方が良い。髪はショートが良いし、手は繊細な感じがする方が良い。
顔はそんなにこだわらないけど、良いに越したことはない。
好みにあてはまれば、積極的にアタックするのが俺のモットー。
この郵便局員はズバリ好みで、出来れば速攻味見がしたい。
……問題は、お互い職場が余りにも近すぎるから、後が色々面倒だって点ぐらいだ。
ところがそれが一番問題だったりする。
「では、ハガキが55枚、封筒で、80円が12通と、90円が5通になります。書留は速達付けますか?」
「あ、いや、付けなくて良いです」
「…では……合計で4670円になります」
「はい。じゃ…5000円で」
出会ったのが郵便局じゃなかったら、とっくに味見してるんだけどね。
「……では、330円のおつりになります。では、お預かり致します。いつもありがとうございます」
「ども…」
ちょっと節くれだった感じの指。でも、形は綺麗でそれなりに繊細な感じ。
チャラ…と、皿の上に釣り銭を並べる指は結構艶かしかったりもする。
(ヤりてぇなぁ……)
最近は相手もいないし、軽い欲求不満だったりして。
「………どうしました?」
「あ…いや。じゃ、宜しくお願いします」
「ありがとうございましたー」
1日せいぜい10分程度の逢瀬。
嬉しいんだか、辛いんだか。
それでも、やっぱり楽しみの一つで。
釣り銭を握って、ちらっと目の前の男を見ると、アノ幼稚園の先生みたいな感じの笑顔をされてしまった。間近で見ると余計に刺激が強くて、気持ちゾクゾクしてくる。
……ああ……マジ、可愛い。
1度だけでも良いんだけどなぁ………。
仕事場に戻り、残りの仕事。
5時30分。
定時になって仕事終了。
今日は週に一度の残業禁止日で、たとえ仕事が残っていたとしても退社しなくちゃならない。上司や先輩達が次々に帰り始めた。どこかで電話が鳴って誰かが受話器を取っている。
「栗原、今日空いてる?」
同僚に声を掛けられて、ああ無いよと返事をしようとした時だった。
「栗原君、郵便局から電話」
専務の斉藤さんが受話器を押さえて左右に振った。
「はい、もしもし……」
『あ、栗原さんですか?私、郵便局の小林と申します』
ホッとしたような声色に思わずケツがゾゾッと、言った。
「あ、先程はどうも…。どうしたんですか?」
なるだけ平静を装いながら声を出すと、電話の向こうで、すまなさそうにあの子が喋る。
『あの、先程お預かりした郵便物なんですが…私計算間違いをしてしまいまして……合計4660円で良かったところ、10円多く貰ってしまったんです。大変申し訳ございません…』
「10円?…ああ、そう。で、どうすれば良いですか?」
『今すぐお返ししたいのですが…あの、差し支えなければ6時頃のお届けになっても宜しいですか?』
「そんな、良いよ。明日取りに行くから」
『いえ、済みませんが、今日中にお返ししなければならなくて……』
「あ…じゃ、ちょっと待ってて」
俺は受話器を手で押さえると、同僚に
「悪ィ。今日ダメだわ俺」
と、声をかけた。
「何?なんかあったのか?」
「や、郵便局でおつり違いだってよ。今日中に返さなきゃならないんだとさ。後30分くらい俺、待ちだわ」
「なんだ、災難だなおい。んじゃ、また今度な」
「悪ぃ」
同僚が退社していく皆の中に飲み込まれ、消えていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺は深呼吸をして、冷静を装おう。
「あ、お待たせしました。…じゃ、6時ですね。分かりました」
何なら行きましょうか?とは言わなかったのは、どうしようもない下心。
誰もいなくなったオフィス。
上司と守衛に経緯を話して一人居残り。
施錠の時間をずらしてもらう。
時間は7時。
用意は周到。
インスタントコーヒーを飲みながら時間を潰していると、ドアのノックの音が聞こえた。
「すみませーん。郵便局の者です」
思わずニヤけかける顔を無理矢理引き締めて返事をした。
「あ、はーい。今開けまーす」
ドアを開けると、制服から普段着に着替えた彼が立っていた。
「すみません…」
心から申し訳なさそうに謝る姿も好みだった。
「立ち話もなんだから、どうぞ?」
ドアを開いて中に誘い込む。
可愛い郵便局員は、緑色の制服も似合うが、暖かそうなセーターと濃紺のジーンズも似合う。細い首が余計に華奢に見える感じが尚更良い。
「さ、狭いけどどうぞ」
黒の皮のソファーに腰掛けるよう勧めた。
「あ…すみません」
まるで言いなり。優越感に鳥肌が立つ。
コーヒーを勧めて、世間話で時間を奪い、優位な時間を堪能した。
10円を返してもらうまでは、拘束出来る。7時まで、1時間もある。いつもはたったの10分しか会えない君と、話がしたい。まずはそこから。
仕事が終ってから来た彼は、そんなに急いでは無いらしく、しきりに恐縮しながらも俺の話に付き合ってくれた。
「そんな、恐縮なんてしないで良いよ。間違いなんて誰にだってあるんだからさ。それより、良く分かったよね」
「はい。郵便の窓口で引き受けしたものは全部機械に入力しているんです。だから入力の間違いがあった場合には、1日の最後に全部調べて探し出すことが出来るんです。今日の場合は、僕が…あ、私が…」
「良いよ、『僕』でも」
「…僕が、受け付けた郵便物を単純に入力ミスしていたから分かったんです。…本当にすみません」
「そんな、気にしなくても良いよ。俺としては逆に嬉しかつたりするしさ」
「え?」
…さぁ、罠を掛けよう。
「いっつも利用してるのに、こんなにゆっくり話する機会もなかったじゃん?俺はこうやって話が出来て結構嬉しいよ。ほら、俺まだこの会社の雑用で、タメに話の出来るヤツってほとんどいないからさ。実は、年が近いし、一度話でも出来ればなぁなんて思ってたんだよね」
「あ、そうですかぁ」
表情が少し和らぐ。
「僕もこの局に異動になってから間も無くて…今年採用されたばっかりだから郵便しか出来なくて…先輩は皆女性だし……実は、僕も栗原さんが局に来てくれるのは嬉しかったりしてるんです」
俺は表情を変えずに、腹の底でニヤリと笑った。
どうやら罠に気付かず、まんまとはまったらしい。
目の前では、のほほんと人懐っこい笑いを見せて、警戒心の欠片も無い獲物が俺を見ている。
……今日のところはここまでだ。
そのうちいつか、喰ってやる。
仕事先までバレバレだから、今回ばかりは慎重に。
先ずは、友達から始めましょうってところだ。
「えっと…、じゃ、お釣貰って良いですか?」
「あ、済みませんっ。……はい、こちらです。あと、新しく領収書切り直しました」
「はい、確かに。…じゃ、こっちの領収証は返した方が良いのかな?」
「あ、はいっ。済みません、頂きます」
紙と金のやり取りの時、皿を使わずやったから、ほんの僅かに手が触れあった。
冷たい指の感触に、途端に先がムクリ…と、頭を上げてきた。
……我慢しろ。今日はここまでで満足しておけ……。
時計を見たら6時50分。
ここ最近に無い時間の早さだ。
可愛い郵便局員は、何度も頭を下げて部屋を後にした。
俺は人の良い男を上手に演じながら、その局員を逃がしてやった。
毎日毎日仕事が楽しい。
内容が、じゃない。
4時が待ち遠しいからだ。
自分の保険更新のDMを用意して、他のデスクの郵便物が出るのを待つ。
「他にないですかー?」
一纏めにして、郵便用の財布を持って立ち上がる。
「じゃ、俺、郵便局に行ってきます」
誰もやりたがらない仕事。
却って都合が良いってことだ。
いつもの通り、ドアを開ける。いつも通りのあいさつの声。
いつも通りの電卓の音。いつも通りの女性職員のあいさつ。
違うのは、郵便の窓口で働く緑色の制服を着た男の反応。
嬉しそうに、笑顔を見せる。
友達と思い込んだ、その笑顔。
罪悪感よりも、征服欲が支配する。
(ああ…早くヤりてぇな……)
きっと抱き心地も好みのはずだ。
慎重に。慎重に。
今は息を潜めて、ただ、郵便物を君に差し出す。
おしまい。 topへもどる
|