「恐い夢」
もう先生は3日も眠っていない。
部屋の中で、ベットから一番離れた場所で、何かをしているフリをして、必死に眠気と戦っている。いつも通りに穏やかな顔で、でも本当はずっとひどく緊張したままで。
「………眠るのが、恐くてね」
いつもより随分悪い顔色で、力なく笑う。
先生は体力に限界が来るのをじっと待つ。
夢見の力を意識したのはまだほんの小さな子供の頃だって、先生は僕に教えてくれた。
群青色の乗用車。海沿いの真直ぐな道路。真っ青な空。波の音。潮の匂い。
自分も行くはずだった海水浴。
最初は一人で寂しそうで。でも海が見えたら笑顔になった先生の妹。
「観月も、連れてきてあげたかっわね」
と、運転手のお父さんにサンドイッチをわたす、先生のお母さん。
「そうだなぁ」
お父さんも残念そうな顔をしてたよ、と、観月先生は教えてくれた。
大きな長距離トラックだった。海からの強い風で積み荷が突然崩れて落ちた。
大きくセンターラインを超えて。
一生懸命急ブレーキを踏んだのに、間に合わなかったんだって。
トラックと、乗用車がぶつかる時、誰も、声すら出せなかっんだよ…と先生は言った。
ぐしゃぐしゃになった車の姿とその中の家族の姿を夢の中で見て、ガソリンの臭いと血の匂いを夢の中で先生は嗅いだ。
「まだ、自分の能力を知らなかったからね。とても、リアルだったよ」
熱の下がらないふらふらする体で、玄関先まで追い掛けて、泣きじゃくって家族を止めた。
でも、お父さんの休みはその日一日だけだったから。皆は海へ行ってしまった。
「おにーちゃん、かながカイ、ひろてきたげるねー」
それが最後に聞いた妹さんの声。
その日見た夢が『予知夢』と呼ばれるって知ったのはそれからもっとずっと後。
でも、あの日、先生は自分の夢見の力に気付いた。
夢は事実だけを突き付けて、どんなに回避しようとしても、必ず現実に実現する。
「…先生、コーヒー入れましたけど飲みますか?」
「うん。貰おうかな」
大きめのマグカップにコーヒーを注ぐ。いつもは入れない砂糖とミルク。今日はほんの少しだけ入れておく。もしかしたら50カロリーぐらいにはなるかもしれない。
「ありがとう」
一口飲むフリをして机の上に。
「うん。おいしい」
…多分、胃も随分弱ってるんだ。
でも、僕は気付かないフリをする。
「じや、おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
力なく、先生が笑う。
僕は先生の部屋を後にした。
先生のことが心配で、心配で。
僕は部屋から逃げ出した。
先生は15歳も年下の僕のことを決して子供扱いしたりはしない。
当たり前のように対等に、一人の人間として接してくれる。
僕の真剣な告白も、僕の精一杯のキスもそれ以上の要求もしっかりと受け止めてくれる。
でも、決して返してはくれない。
告白の返事も、先生からの舌を絡ませてくることも先生から求めてくることも何もない。
だからたまに、ここにていも良いのかどうか不安になる。
先生は、
「いつまでもいてくれて良いんだよ」
と、優しく笑う。
あんまり優しいから、時折とても恐くなる。
どうしてか、自分でも良く分からない。
部屋に戻ってテレビを付けた。
深夜に入る少し前のニュース。明日は関東は雨が降るらしい。
気象衛星からの画像。
雲が流れてくる動きを僕はぼんやり眺めていた。
天気予報は当たらない日だってたくさんある。
だから明日は晴れるかもしれない。
電車の中で傘を忘れて、天気予報のせいにして怒ったり。
『っとに、当たんないよなーっ』
って、怒ってみたりする。気にはするけどあてにはしてない。
例えば正解率が85パーセント以上だと、残りの15パーセントはハズレ。
予報はあくまでも予報だから。
「………………」
予知夢は100パーセントだって先生が言っていた。
『リアルな夢を怖がらなければ、例えばすれ違う誰かの服の柄すら見えるよ』
…見た夢は必ず未来に実現される。
『対向車の運転者の顔?………うん。見えたよ…』
予報と予知。感じはとても似ているくせに…。
僕はテレビの画面をぼんやり見ていた。
先生は時折眠るのが恐いと言う。
理由は夢を見るのが恐いから。
うたた寝みたいな浅い眠りにでも夢は必ずついてくるから、神経を物凄く張り詰めさせて先生は起き続けようとする。ベッドから一番遠い場所で、ずっと一人で眠気と戦う。
食事が咽を通らなくなり、飲み物も受けつけなくなり、頭痛がずっと続くようになって、やっと先生は気を失うように眠りに落ちる。ほっとしたのも束の間で、全身を強ばらせ、時には小さな悲鳴を上げて、目を覚ます。
一週間が過ぎる頃、例えば先生の大切な人が交通事故で死んだりする。
夢見の力なんか、なくなれば良いのに…。
そうやってベッドの上で先生のことを考えていたら、小さなノックの音が聞こえた。
「…入っても、良いかな?」
青白い顔の先生が辛そうに笑う。
「どうぞ」
部屋に入った先生は、少し悩んで、僕のベッドに腰をおろした。
「どうしたんですか?」
「ん?」
暫く悩んで。その間僕は黙って待った。
「………キスしても……良いかな」
ほとんど聞き取れないような声だったけど、先生は確かにそう、僕に言った。
「………はい」
また少し痩せたかもしれない先生は、二・三度不規則な深呼吸をくり返すと、ゆっくり顔を上げて、真直ぐ僕のことを見つめた。
「目を閉じてくれるかい」
僕は先生の目をしっかり見つめてから、目を閉じた。
初めての先生からのキスは、とても冷たい唇だった。
長くて静かなキスだった。
先生は僕をしっかりと抱き締めながら眠りに落ちていった。
何度も何度も目を覚まし、その度僕を更に強く抱き締めた。
僕はできる限り先生の体に自分の体を密着させた。
抱かれているのは僕だったのに、まるで先生は僕にしがみついているようだった。
先生の悪夢は途切れ途切れに朝まで続いた。
僕の体に悪性の腫瘍が発見されたのは、それから一ヶ月経ってから。たまたまインフルエンザにかかってしまって、レントゲンを撮ってもらった時に、真っ黒い病巣がフィルムに写し出されていた。もう随分前からの発症で、その時には既に転移は全身に始まっていた。
先生は、僕の病巣を夢に見ていたんだ。
それから僕は一年かけて弱っていった。
もうこれ以上の手術は出来ない。
後はもう生きていくだけの体力を使い果たすだけになった僕は、あの日の先生よりも細くなってしまったし、顔色も悪くなってしまった。
先生は毎日病院に来てくれて、自分の時間は全て僕にくれた。
弱っていく僕の姿を見守ってくれている。
もうじき僕は意識を失う。失ったらもう二度と戻ってはこれないと思う。
あの時先生が見た恐い夢は、僕を失う夢だった。
多分僕は予知夢の通りに病気を進行させている。
夢で見せて。現実でも見せて。
こんな過程を二度も見せて、ごめんなさい。
僕は先生にとても悪いことをしているかもしれないね。
「……ごめんね。先生」
……謝る僕の姿も、先生は夢に見たのかな……。
不思議と恐怖は感じなかった。
僕を失うことをあんなに怖がってくれたことが嬉しくて。
終
topへ
|