【peep show】

1

 その老人は、心の底から『彼』を愛していた。

 

 

 初めて出逢った日のことは、老い耄れた儂の脳でも忘れはしない。
 
 美しい少年だった。
 
 白い肌。
 しなやかな手足。
 凛とした表情。

 癖の無い美しい髪は。
 日の光にさらさらと輝く。
 振り向く度に、傾げる度に。
 サラサラと小さな音を立てた。

 『よろしくお願いします』

 姿勢を正し、緊張した表情で。
 だが、真っ直ぐに儂の目を見詰め。
 庭に咲く、朝顔にも似た藍色の瞳。

 健康そうな。
 今が一番幸せそうな。
 有り余る時間を所有する、少年の笑顔。

 …正直、目の前に立つ少年がサンジだとは俄に信じることは出来なかった。

 なぜなら儂は。
 サンジという少年は。
 もっと瞳を濁らせた少年だとばかり思っていたからだ。

 幼い時に遭難したと聞いている。
 三ヶ月間、死と隣り合わせに生き続けたと聞いている。
 救助された時には餓死寸前だったと聞いている。
 確かにゼフは『強い子だ』とは言っていた。
 だがしかし。
 幼少の時受けたであろう心の傷は、過剰に己を防衛する原点に成り得るものだ。
 本来与えられるべきでなかった心の傷というものは、如何なるものに対しても、聞こえる耳を塞ぎ、見える目を濁らせてしまう原因にしかならないものだ。
 愛されて当然の年の頃に自然の驚異に脅かされ、命の危険に怯え続け、死を覚悟する思考力さえ奪われてしまう程の極限状態が続いた子供だとすれば、心に受ける傷の深さは計り知れない。
 抉られた心の傷を埋めるため頑に心を閉ざすだろう。
 やがて癒えずに化膿し続ける心の傷を守るため、幾重にも、強固な壁を造り上げてしまうだろう。
 そして、これ以上自分の心を傷付けないようにと、何をされても決して傷付くことのない『偽りの心』を創り上げてしまうのだ。
 自分の本物の心を見失い、聞く耳を失い、思考する脳を失い、感銘を受ける場所を無くし、見る目を無くし、視力を無くす。
 『見る』と言う行為を辞めた目は、どれもやがては濁って行く。
 ゼフの話を聞けば聞く程、儂はサンジという少年は、濁った瞳をしているのだとすっかり思い込んでいた。

 

 「…ゼフから話は聞いている」
 「よろしくお願いします」
 「一ト月だけで良いんだな」
 「はい」

 一週間前、儂はかつての戦友ゼフから頼み事を持ちかけられた。
 期限付きの住み込み料理人として、子供を一人雇って欲しい。名前はサンジ。十七歳の少年だ。
 『…給料は必要ないだと?』
 『ああ』
 『そんなに腕が酷いのか?』
 『いや』
 荒削りだが確かだと誇らしそうにゼフは言う。
 『だったらどうして?』
 『代わりにお前の絵を見せてやってはくれないか』
 『………儂の絵を…?』
 『…ああ頼む』
 儂の仕事を見せる。出来ることなら作品を仕上げる課程を見せてやる。見返りに食事を始め生活全ての世話を提供させる。
 『出来れば一点ものの仕事を見せてやって欲しい』
 何だ絵を教えてやるのかと尋ねたら、特に教えなくとも構わないと返された。
 『いや、あいつの感性を磨いてやりたいだけだ』
 『儂の絵でか?』
 『ああ。頼む』
 必要なのは新しい刺激だと。
 『あいつは料理をして行く上でなら、既に十分な美的感覚を身に付けている』
 『ならば何も儂の側に置かなくとも良いだろう』
 意味が分からず尋ねると、ゼフは儂が見たことも無いような表情で笑った。
 『俺はサンジをどこに出しても恥ずかしく無い料理人にしたい』
 真剣なのは、声だけでも十分伝わってきた。
 『サンジは、本物だ』
 教えてやれるものがあるならば、全て教えてやりたいのだと言っていた。
 『俺が知っている中で、お前は一番の絵師だからな』
 そう言いながらゼフは、また、笑った。
 断る理由は、見付からなかった。

 

 

 「六曲一双の肉筆屏風の依頼を受けた。邪魔をするのは許さないが、製作過程は何を見ても構わない。ただし、描く最中には決して儂に声を掛けるな。良いな」
 「はい」
 神妙な顔をしてサンジは頷く。
 「厨房は突き当たりの左手だ。風呂と便所は離れの隣にある。薪風呂だが、焚き方は分かるか?」
 「はい」
 「部屋は離れを好きに使ってくれ。音を出すのは構わんが、儂が筆を持つ時間は静かにしてくれ」
 「はい」
 「それから」
 懐から財布を取り出しそのまま渡す。
 「…これは?」
 両手で壊れ物でも扱うように財布を受け取ったサンジが、随分と不思議そうな顔をして尋ねてきた。
 些細な表情も美しいものだな、と、内心感心しながら言葉を続けた。
 「一ト月の生活費だ。お前に預ける」
 「…こんなに?」
 「好きに使ってくれて構わない。ただ、食事は夕食分だけは三人分を用意してくれ」
 「三人分?誰か他にいるんですか?」
 「ああ…」
 説明しかけて、止めた。「余計な詮索はしなくて良い」
 「……はい」
 大人しく、賢そうに、少年は頷いた。
 ひとしきり屋敷の中の案内と、儂との間の幾つかの約束事を決めた後、
 「何か聞いておきたいことはあるか?」
 と尋ねると、質問されるのを待っていたのか、サンジはすぐさま形の良い口を開いた。
 「あの」
 「ん?なんだ?」
 「俺は、あなたを何と呼べば良いですか?」
 サンジは真っ直ぐに儂を見詰めながら尋ねてきた。
 「………」
 しん、と静まり返った部屋の中に、庭で鳴く雀の声がのどかに聞こえる。
 儂は二、三度瞬きをすると、そのまま考え込んでしまった。
 ゼフと共に乗った船から降りた後、儂は絵筆を握り始めた。駆け出しの頃は名前を売ろうと躍起になった時代もあったが、今ではもう同じ世界の者ならば名前を名乗ることも無い。
 誰もが儂を『先生』と呼び、儂も『先生』と呼ばれることに慣れきっていた。
 『何と呼べば良いですか』
 まさかこんなことを聞かれるとは思わなかった。
 そうだな、じゃあ『先生』と呼んでくれ、とは流石にずうずうしい儂でも言うのは憚られた。
 さて…何と呼ばせようか……。
 弟子でもない。孫でもない。使用人…と言うのが一番しっくりするのだろうが、『ご主人様』と呼ばせるのも、どうにも抵抗があっていけない。
 サンジを眺め、目を逸らして庭に視線を移し、暫く考えてまたのろのろとサンジの顔に視線を戻す。
 飲み掛けの煎茶を一口啜り喉を湿らせる。
 大人しく待つサンジの姿に妙に気ばかりが焦り、ふと…儂の名前で呼ばせようかとも思ったが…思った自分に驚き(…いやそれは駄目だ)と、慌てて打ち消し……。
 「……好きなように呼べば良い」
 結局気の効いた言葉も見付からず、苦し紛れにまるでどうでも良いことのようなフリをしてぶっきらぼうに言ってしまった。
 「別に儂は何でも構わん」
 「そうですか」サンジは困った風も無く儂の言葉を受け取ると「では夕食までに考えておきます」と、まるで拾った子犬に名前を付ける権利を貰った子供のような表情をしながら頭を下げた。

 

 

 

 

 我ながら随分と見栄を張ってしまったものだ。
 一点ものの仕事であれば、おそらく何でも良かっただろうに、よりにもよって屏風絵の仕事を引き受けるとは…。
 まだ真っ白の本紙に向かってみるものの、今はまだ全く描き上げられる気がしない。
 「…画狂老人のようにとは……いかんもんだな…」
 描く形が浮かぶまで今暫くは悩みそうだ。
 久しく版画ばかりを出掛けていた儂に取っては、十二面から作られる六曲一双の屏風ともなると、手に余る程の大作だ。
 ましてや肉筆ともなれば、彫師、摺師の手も借りず、全てを儂が一人で手掛ける。出来上がる頃にはすっかり寿命も削れるだろう。
 何もかも捨ててきたかと思っていたが、いやいやまだまだ業は深い。未だ誰かを驚かせたいのだ。
 受けた依頼は鳳凰飛翔図。中国伝来の瑞鳥だ。
 鳳凰とは三百六十種いるとされる鳥属の長だ。平和の象徴であり、その卵は食すると不老不死となると言う。鴻であり、麟であり、鸛であり燕でもある。首は蛇。尾は魚。龍にも見え、背は亀にも見えるそうだ。
 想像するだけでも不気味でならない。
 実に優美な鳥だと言うから、儂の頭の中にある、このどうにも珍妙な大鳥は、おそらく鳳凰とは似ても似つかぬものなのだろう。
 正しい姿を見る為に、背景を知り、歴史を学び、思考を巡らせ、感性を研ぎすませる。じき儂の頭の中にいる瑞鳥も、本来の優美な姿を現す筈だ。
 今はまだ身体のどこかで見え隠れする真の姿を捉えられずに、さてどの器官で感じようかと五感を研ぎ澄ましているところだ。

 絵というものは目に見えるものだけを描く訳ではない。 降る雨の姿を描き、夜の闇を描き、朝の空気を描く。
 想う心を目に描き、ほとばしる感情を指先に描き、押し殺した感情を唇に描けなければならない。
 ゼフと共に『偉大なる航路』を渡った昔から、世の中には『見えるもの』と『見えないもの』が存在することを漠然と感じていた。
 やがて感じたことを形として残したいと思うようになった。
 航海が終盤に差し掛かる頃、私は絵筆を握り始めた。
 いつしか儂は全てを絵筆に注ぎ始めた。
 年を取り、腰が曲がり、老い先短くなってようやく、自分は絵師だと心の底から言えるようになっていたのに気が付いた。
 見えるものを描き、見えないものをも描く。
 両方を同等に表現出来るのが絵師であり、残すことが出来るのが絵師なのだ。
 果たして儂はどこまで描けるようになっただろうか。
 生きる程、見えないものが見えてくる。
 だから人生というものは面白い。

 「…さて…少し描いてみようか」
 とっておきの墨でも使おうか。

 

 

 

 

 

 
 煮物を口に運び、飯を一口頬張る。
 「………」
 サンジはひたすらに儂を見詰めている。
 「…旨い」
 「よかった」
 ほう…っ…と、安堵したように息を吐く。
 「何が食べたいのか聞くのを忘れてて、聞こうと思ったらもう絵を描き始めてたから」
 仕方が無いから棚に並んだ皿を見て料理を決めたのだと言った。
 「皿で儂の好みが分かるのか?」
 「全部って訳じゃないけど、大体は」
 「どうやって分かる?」
 「デザインです」
 「でざいん?」
 「その深皿、一番気に入ってるヤツですよね?」
 「あ、ああ」
 儂の友人が、特別に作った深皿だ。
 「食器って、料理を入れるためのものだから、何を入れようかってある程度は考えて作られてるモンなんです。その深皿、一番取り出し易い場所にあって一番使い込まれてたから、じゃ深皿に合う料理をメインにしようと思ったんです。で、考えて。一番似合う料理って言ったら煮物かなって。あとの分は有り合わせです。そっちの小鉢の方はメインの煮物と調和するように作ってみました」
 「…これは驚いた」
 ん?と、小首を傾げるサンジに呟くように答える。
 「…確かにこの皿は儂を良く知る友人が煮物を入れる為にと特別に作ったものだ…しかし…凄いな……なぁサンジ、料理人というのは皆、皿を見ただけでこんなに好みが分かるものなのか?」
 「少なくともゼフの弟子なら」
 少し得意げにサンジは笑う。
 「ああ、でも微妙な塩加減は分かんなくて。まずは普通に作ってみました。口には合いますか?」
 「ああ」儂は何度も頷いた。「どれも皆旨い」
 「ありがとうございます」
 ああそれから…と、感心している儂に満足したのか、嬉しそうにサンジは続ける。
 「先生は、かりんとうも好きでしょう?」
 いきなり言い当てられてしまい、口に放り込んだ里イモを喉に詰まらせそうになってしまった。
 「んぐっ…っ……何…そこまで分かるのか?」
 「はい」
 さらりとサンジは頷くと、あんぐりと口を開けて驚いている儂を見て、ぷっ、と、吹き出した。
 「だって戸棚に二袋も入ってましたから」
 そう言って、笑う姿は随分と幼い子供のような屈託の無さだった。
 つられて儂も吹き出した。
 いつもは静かな屋敷の中で暫く二人で声を出して笑っていた。

 サンジは人懐っこい少年だった。
 バラティエではさぞかし可愛がられているのだろうと尋ねたら「そんなことない」と否定された。
 「ケンカしてるか料理してるか分からないモンです」
 二杯目の飯を茶碗に盛りながらバラティエの話をしてくれた。
 「船上って言うより戦場って行った方がむしろ良いっていうか……」
 打ち解けていくと、本来の話し方なのであろう口調が見え始めた。
 「俺がいなきゃ、ほん…っとアイツ等ダメなんだ」
 「ははは…そうなのか」
 「そーですよ。あ、お茶もっと飲む?」
 「そうだな。貰おうか」
 良く気が付いて、気も良く回った。
 サンジは儂にバラティエの話をし、儂はサンジに絵の話をした。
 「鳳凰?……ああ、あの中華料理で野菜とかで飾り切りするヤツ?」
 「飾り切りされてるかどうかは知らんが、確かに中国では一番人気の高い鳥ではあるらしいな」
 「それを描くんだ」
 「ああ。まだ見えてこないがな」
 「見えてこない?」
 「空想だけではものは描けんからな」
 「でも実在しない鳥だったら空想するしか無いかと思うけど?」
 「まぁ確かにそうだがな。だがな、空想すると言っても何でも良いと言う訳ではない。頭の中の鳳凰がな、それこそ生命を持ち質量を持って、動き出すまで姿を形創らねばならないんだ。矛盾を矛盾とも感じさせないような説得力も必要だ。まるで生きてこの場にいるかのように自分の中に見えるようにならんといかん。頭の中で生まれた形が命を宿して自由に動き出すまで対象と向き合わなければ、とてもじゃないが紙には描けん」
 「……へー……」
 「料理の世界もそうじゃないのか?」
 「んー……ああ…そう…かもしれない…かな?創作料理何て言ったらビジュアル的に明確にしておかないと最後にとんでもないことになるからな…。うん。そうかもしれない。でも、料理の場合は俺だったら最初に絵に落とすかな。レシピみたいにしてどこが何で出来てるか、どんな味でどんな名前か、後で誰が目にしても分かるようにしてる。まぁ、それでも通じてなくて、似ても似つかない料理を作るヤツもいるけど」
 「全てと言う訳ではないが、絵も同じだよ」
 儂の言葉に暫く考え、
 「…ああ……何か、分かる」
 目を輝かせて自分の中に吸収していく。
 「ほう、なかなか賢いな。儂の弟子でも理解出来ない奴はたくさんいるぞ」
 「え?ホントに?」
 嬉しそうにニコニコと笑う。
 鳳凰の卵を食うと不老不死になるそうだと教えたら、どんな味がするんだろうと楽しそうに想像していた。
 血は繋がっていないのはゼフから聞いて知ってはいたが、そんなところはゼフにそっくりだと、想像している横顔をこっそりと眺めながら考えていた。

 「良い料理人だな。こんなに旨いと思って食うのは久し振りだ」
 「ありがとうございます」
 食器を手際良く片付けながらサンジは儂に今日一番の笑顔を見せた。

 少し熱めの風呂に入りながら、いつの間にかに『先生』と呼ばれていたのに気が付いた。
 嬉しいような。
 かなしいような。
 風呂場の窓から見える離れの一室を見上げた。
 いつもは真っ暗な窓に明かりが灯っているのを眺めながら、酷く穏やかな気分になっているのに気が付いた。

 

 

 

 

 

 『カチリ…』
 敷地の一番奥にある蔵の前に立ち、頑丈な錠前を外す。
 力を込めて扉を引くと、錆びた音を立てながら扉が開く。
 人一人やっと入れる程の隙間が開くと、身体を滑り込ませるようにして隙間から中に入る。直ぐ目の前には今度は木製の扉が出て来る。鍵の束から別の鍵を取り出しまた開ける。
 明かりを灯し奥に進むと、改築した一角に突き当たる。
 ここは、通いの弟子にも伝えていない秘密の場所だ。
 コトリ…
 部屋の前に一人分の食事を置く。
 「…ゾロ」
 声を掛けると中で返事がした。
 「…側にいる」
 外からの鍵を外すと、ややあって扉が開いた。
 緑色の短い髪。整った造作の顔。
 感情の無い佇まい。
 温度の無い鳶色の瞳。
 しなやかな手足。細身の身体。
 成長期を直前にした少年の体躯。
 身に纏うのは抑制された殺気と精液の匂い。
 「遅くなった」
 「…ああ。別に構わねェ」
 ゾロは空になった膳を儂に渡し、無造作に床に置かれた膳を持ち上げた。
 「……誰か新しい家政婦でも来たのか?」
 「分かるか?」
 「…ああ」
 「知り合いの孫だ。今日から一ト月預かることになった」
 「女か」
 「いや、男だ」
 「そうか」
 抑揚の無い声がぼそりと言った。
 「俺はソイツにも抱かれるのか?」
 「…いや、それは無い」
 「そいつは助かった」
 静かに扉は閉められた。

 

 

 儂は充実した時間を過ごしていた。
 サンジの食事は元から旨かったが、日を追うごとに儂の好みに修正されて行った。
 早めの朝食の後は、もっと身体を動かすべきだとここ何年もしたことも無かったような散歩を日課にさせられ、道端の雑草の緑の鮮やかさや、空の碧さを再認識し、戻って来れば綺麗に片付けられた部屋で気分良く一日分の墨をすることが出来た。
 十時にもなると丁寧に煎れられた茶が言われなくても運ばれるし、三時には簡単な茶菓子も添えられる。
 昼飯は儂の都合に合わせて手軽に摘めるものが多く、逆に夕食は時間を掛けてゆっくり話をしたり楽しんだり出来る献立が多く出されてきた。
 最初の数日こそサンジが家の中のことに手が行き渡らずに、儂が絵筆を握る時に側にいれないことがほとんどだったが、やがて屋敷中の掃除も行き届き、暇を見つけては儂の傍らに静かに座って絵を眺める時間が増えてきた。
 サンジは儂の言いつけ通りにじっと黙って儂の仕事を眺めていた。
 音を立てず、質問もせず。
 だが、真剣に、全てを吸収するかのように儂の動きの全てを見続ける。
 途中面白いと感じたのは、弟子達とは決定的に違う視線だった。
 学ぼうとしているのは技術ではなく感性。
 絵師とは違う料理人の視線は、儂の描く課程では無く、描いた作品の構図であり、色彩であり、余白であった。
 ならば描いている最中は側にいなくても良いのではないかと思いもしたが、なぜか言うのは躊躇われ、結局側に座らせている。
 悪戯にサンジに似せた鳥を描いてみせた。
 子供の様な家鴨の姿だ。
 どこもかしこも丸く描き、目を青く塗り、ついでにまゆげの形も似せてみた。
 紙の余白に『くわくわ』と、鳴き声も添えてサンジに渡してやると、むう…と、口をそれこそ家鴨のように突き出しながら、
 「話し掛けても良い?」
 と尋ねた。
 「ああ」
 小筆を置いて身体を向ける。
 「このアヒル、俺?」
 と、サンジは怒ったように眉をしかめた。
 「バラティエでもたまにアヒル呼ばわりされるんだよな…ねぇねぇ、俺のどこがアヒルに見える?」
 「全部だな」
 「えーっ?!なんでだよー……もーっっ……」
 不満の声を上げるものの、仕方が無いなと本気で怒っているようでも無いらしい。
 その証拠にその日の三時には家鴨の形の練切菓子。
 「おお、共食いだな」
 からかってやるとサンジは済ました顔で言ってきた。
 「そー。共食い。うまいうまい」
 がぶかぶと平らげ、『くわくわ』と家鴨の声のまねをする。
 そして屈託なく笑う。
 声を立てて笑うサンジにつられるように儂も笑った。
 不思議なもので笑う程、心がほぐれていくのを感じた。
 老いて久しく使わなかった部分の脳が動くような気がしてきた。
 目が良く見えるような気がしてこれば、耳の聞こえも良くなったような気がした。
 身体の中の鳳凰が速度を上げて形作ってくのを感じた。
 儂の中にはあるとは思えないような若さと力が湧いて来るのを感じるようになってきた。
 些細なことにも感動するようになった。
 そして何より、側にサンジがいることが楽しく嬉しい。
 老いたからと諦めていた感覚が自分の中にまだしっかりと残っていたのに気が付いた。
 ゼフが羨ましいと心底思った。
 サンジのような孫が欲しい。
 「…………」
 いや…違う。
 サンジのような………
 サンジの……ような……

 ………サンジが……欲しい…
 ……なぜ……欲しい?

 

 手元にいるのは感情と温度を持たない『あれ』だけだ。
 サンジのいない間に描いて直ぐに丸めて捨てた絵を取り出してじっと眺める。
 鳶色の目をした獰猛な鮫がじっと儂を睨んでいる。


 続く

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