【青い制服緑の髪】

16

 

 朝、サンジが俺の家から出勤して行った。
 『行ってきます』
 と、俺に言った。
 『…っ……』
 言葉に詰まって黙っていると、
 『いってらっしゃい。は?』
 と、また、顔を覗き込まれた。
 『……ああ…』
 『ああ、じゃねーだろ?』
 じーっと俺の顔を見るから、
 『…い…いってらっしゃ…い…』
 場が持たなくて口にした。
 誰かに、いってらっしゃい…なんて、ガキの頃にも言った記憶がほとんど無い。慣れなくて、言いにくくて、すげェ口の中がモゴモゴした。
 サンジは、何だかものすごく嬉しそうな顔をして、
 『行ってきます』
 と、言った後、ヤベェ遅刻だっ…とか何とか叫びながら俺の部屋から飛び出して行った。
 タイミング良く通りかかったタクシーを捕まえ、
 『大泉の駅までっ!!大急ぎでっっ!!』
 飛び乗りながらここまで聞こえるような声で行き先を告げていた。
 走り去るタクシーを見えなくなるまで目で追って、見えなくなってからも、たっぷり五分は玄関先でバカみたいに突っ立ったまま眺めていた。
 『………寝直すか…』
 玄関のドアを閉めてベッドのある部屋に歩いて行く。
 途中歯を磨いてないのに気が付いて洗面所に寄ったら、 『……アホか…』
 鏡に、すげェ嬉しそうな顔をしている俺が映っていた。

 

 サンジに耳打ちされたのは、何でも無いような些細な言葉だった。

 

 『今夜また来るから』 

 

 それでも。
 頭ン中が真っ白になるぐらいには衝撃的な言葉だった。
 

 また今夜も一緒にいられるんだと思っただけで、そこら中全速力で走り回りたくなるような気分になった。
 サンジが仕事に行った後、俺は昼間でベッドで寝て過ごした。
 午後になって起き出して、掃除をして、ジョギングをして、シャワーを浴びた。
 昨夜のセックスを思い出しながらオナニーをして、今夜はどう抱こうかと考えながらまたオナニーした。
 バカみたいにサンジのことばかり考えた。
 何をみてもサンジのことを連想し、何をしてもサンジのことを思い出した。
 

 

 

 

 ようやく気付いた。
 つーか、気付けた。

 

 随分道理に反しちゃいるが、別に大した問題じゃない。

 

 俺はサンジが欲しい。
 俺はサンジが好きだ。
 好きだから、欲しい。
 いつから?
 ……知らねェ。
 いつの間にか、だ。
 

 サンジが好きだ。
 苦しいぐらい好きだ。
 好きだ。
 好きだ。
 もう……何だか良く分からないぐらい、好きだ。
 

 身体だけだと思っていたのに。
 セックスだけだと思っていたのに。
 気が付けば、サンジの何もかもが欲しくなっていた。

 (帰って来たら……)

 好きだ、と言おう。
 お前が好きだ。
 サンジはどんな顔をするだろう…?

 …………。
 …………。

 「…………」

 

 考えて気が付いた。
 俺が、サンジを好きだと言ったら、サンジ、お前は一体何て言う?

 「……………」

 サンジ…お前は俺をどう思っている?

 

 「……………」
 ……参ったな…。
 「………考えたことも無かったぜ……」

 

 

 

 一人で時間を潰していたら、思考の雲行きが怪しくなった。
 ぐだぐだと悩みそうになったから、考えるのを一先ず止めようとした。
 だが、どんなに頭の中からサンジのことを切り離そうとしても旨く出来ない。
 
 何だか落ち着かなかった。
 ただ『好き』だと考えるだけで、じっとしていられなくなった。ベッドに横になっても眠くなれず、何だかんだと部屋の中をウロウロ歩き回る。
 あいつのことを考える度、ジリジリ焼け付くように胸が熱い。締め付けられるように胸が痛い。
 ざわざわと身体中の血管が逆流しているような感じがする。毛穴が全部開いたような感覚がする。
 黄色いものを見ただけで、サンジのことを思い出し、黒い何かを見ただけで、サンジのことを思い出す。
 途端に胸が熱くなり、体中がざわざわ言い出す。
 「……チッ……」
 今までのどんな感情よりも強くて、熱い。

 不思議だった。
 単純な身体の痛みだったらどんな痛みでも我慢出来るのに、こんな些細な…しかもただの気のせいかもしれないこの痛みがどうしようもなく辛い。
 好きだと思うだけで、息が止まりそうになる。
 一体何なんだ?
 好きって言うのはこんなに辛いモノなのか?
 ひどく浮かれた気分になるのと同時に、心臓に冷水を掛けられたみたいな緊張感がある。
 コントロール出来ない感覚がずっと続いている。
 「………何なんだよ…っ…」
 昨日まで、こんな感覚、味わったことも無かった。
 『好きだ』って感情がコントロール出来ない。
 こんなの初めてだ。
 『嬉しい』と『苦しい』が同時に身体の奥で暴れ回っているような感じだ。
 たまらなくなってカバンの中から携帯電話を取り出した。
 ボタンを押してメモリーしてあるサンジの電話番号を呼び出す。

 『ピッ』

 ダイヤルボタンを押して、
 耐え切れずに直ぐ切った。
 「……ったく…何してんだよ…っ」
 携帯電話を部屋の隅に投げつける。

 『トゥルルルル…トゥルルルルル……』

 床に転がった携帯電話が着信音を出した。
 「っっ!!」
 神経が逆立った状態で携帯電話を睨み付ける。
 
 『トゥルルルル…トゥルルルルル……』

 サンジ専用の着信音だった。

 『トゥルルルル…トゥルルルルル……』

 無言で携帯を睨み付ける。
 近寄ることも手を伸ばすことも出来なかった。

 『トゥルルル…』

 電話が切れた。
 静かになった部屋の中で携帯の赤い着信ランプだけがゆっくりと点滅していた。
 「…………」
 重症だ。

 俺は部屋から逃げ出した。

 

 

 

 

 家の側の駅に向かって歩く。
 一先ずどこに行けば良いのか分からないから通勤経路を歩いてみる。
 頭を冷やそう。
 とにかく何も考えずに歩く。
 信号の黄色を見てもサンジのことを考えそうになったから、足下だけを見て歩く。途中何度も車にクラクッションを鳴らされたが、関係ねェ。周りのことは完全に無視して足下だけを見て歩く。
 俯くと、アスファルトと自分の足ぐらいしか見るモンが無くて、しょうがないから自分の靴の爪先をひたすら見詰め続けてた。
 右左右左右左………いつまでいつまでも靴の爪先を見詰めて歩く。
 駅に着いて、そのまま大泉学園行きのバス停まで行ったら、条件反射的に到着していたバスに乗ってしまった。
 いつも通り、運転席側の前から数えて五番目の席に座る。バスが走り始めて暫くしたら、バスの振動で眠くなり、いつの間にかに爆睡していた。
 「お客さん…お客さん」
 いつも通り、運転手に声を掛けられる。
 「終点ですよ」
 「あ…ああ…」
 半分眠ったままバスを降りた。
 そのままぼんやり歩いて足を止め、ふと見上げたら俺の仕事場の前に立っていた。
 習慣って言うのは恐ろしい。
 局の外側から自動ドアのガラス戸の向こうを眺める。
 相変わらず局の中は客でごった返している。
 「……」
 局の中では全員が忙しそうに走り回って仕事をしていた。
 突発で俺が休んだのも影響しているんだろう。局長までが窓口に座って仕事をしていた。
 「……」
 郵便局はもうじき民営化を迎える。
 細胞レベルで業務内容が激変する。
 通帳の再発行一つとってもすることが以上に増える。
 休みを返上して、民営化後の局の一日をリアルに再現する『業務リハーサル』って訓練まで受けさせられた。
 印紙税の導入。顧客管理の手続きの変更。新しい業務内容。廃止される業務内容。
 毎日山のように届くメールの処理。文書の整理。
 新しく取得しなきゃならねェ資格。資格。資格。
 日々の業務にプラスされて職員全員に課せられた仕事は既にパンク状態だ。
 精神的にも体力的にも限界まで追い詰められている。
 「……」
 とんでもない職場なのだ。
 間に合うとは思えないような課題を恐ろしい程抱えたまま、俺達は民営化に向かう。
 定時始まり定時終り?
 んなことある訳が無い。
 朝は一時間前倒しで出勤し、夜は帰れる時間のメドも立たない。
 信じられないような状態の中、九時になれば窓口が始まり、津波のように客が押し寄せてくる。
 金利上昇による定額定期の預け換え。小銭の受け入れ。相続。委任。正当権利者の確認。相互牽制……。
 怒る客もいれば、ゴネね客もいる。
 我侭な客もゴマンといる。
 最悪の仕事だ…。
 ずっと俺は思っていた。
 「………」
 皆、必死で働いていた。
 あの高飛車なナミでさえ、こうしてカウンター越しから見れば、終始笑顔で対応している。
 身を乗り出して何かをずっと説明している。
 時に身振りを交え、一生懸命に何かをしているのが伝わってくる。
 出口に向かい、もう振り向きもしない客の後ろから、声をかけて頭を下げる。
 流石に外には聞こえてこないが、何を言っているかは分かる。
 『ありがとうございました。またお越し下さいませ』
 だ。
 立ち上がり、しっかりと頭を下げ、上げた顔は満面の笑顔だ。
 仕事が終われば客に言われた文句に傷付き、般若の形相で怒っているナミも、しっかり接客していたことに気が付いた。
 ウソップもそうだ。自分の前に来る客だけじゃない。気が付けば自分から客に声をかけて頭を下げる。話を切り出す。目の前の客は優先し、しっかり目を合わせて両手で丁寧に郵便物を取り扱う。
 ルフィも例外じゃない。見てないようでフロアー全体を掌握して動いているし、局長のロビンにいたっては、後方の仕事をしながら窓口の支援もやって、あげくの果てには客のクレームにも対応する。ある意味三面六臂の活躍ぶりだ。
 「………」
 客はいつでも引っ切りなしで、捌いても捌いても客は減らない。
 だがそれでも全員が全員、一人一人の客に対して接客サービスまでやっていたのを初めて知った。
 ドアの外で中を覗いたまま動けなかった。
 局の仲間の『サービス』をいつまでもいつまでも眺めていた。

 今朝方聞いたサンジの言葉を思い出す。

 『サービスも大事な戦略の一つだ』

 

 …確かにその通りかもしれない。
 俺は、分かっていたつもりで何も分かっていなかった。
 ただ目の前の仕事を捌けば充分なんだと思っていた。
 嫌々仕事をしていることを隠そうともしていなかった。
 自分に合う仕事かどうだか分からないからと、仕事をいい加減に考えていた。
 皆、当たり前のように出来ているって言うのに、俺はずっと『サービス』なんてしていなかった。しなくて良いと思い込んでいた。

 サンジのことを考える。
 俺と同い年の男なのに誰に雇われることも無く、自分の力で自分の店を経営している。
 教わるでも無く、客の大切さを理解している。
 自分の店に来る客の大切さを十分理解している。
 だから、誰に教えられるでもなくサービスの大切さを理解している。
 客のニーズ合わせて働くことを知っているから実戦出来る。
 客の欲しいものが分かり、客に欲しいものを与えられるスキルを持っている。
 欲しいものを。

 ……欲しいものを……?

 

 思考が引っかかって止まった。

 ……客が欲しいものを与えるスキル。
 ……俺が欲しいものを与える……?
 ……サンジが俺に俺の欲しいものを与えてくれる。
 ……サンジが自分を俺に与える……
 ……客の欲しがるものを…
 ……相手が自分の客だから……?………
 ……俺はサンジの…客…だから……?

 

 

 「………だから…なのか…?」

 

 

 俺がバラティエの客だから。
 だから抱かせてくれている…だけなのか?

 

 弾かれたように後ろを振り向く。
 郵便局の局舎から道路を挟んで直ぐ向かいにある小さな洋食屋。店長はサラサラとした金髪の、綺麗な顔した華奢な男だ。

 「……サンジ……」

 店の入り口のイーゼルには、白いチョークで書かれたイタリア語のメニューと、直ぐ隣に読み易い字で日本語の訳が書き込まれている。
 

 (俺はお前が好きなのに……)

 お前にとっては俺はただの客なのか?
 ただ、欲しがるものがメニューじゃ無くて、お前だからお前は俺に抱かれるのか?
 家に来たのも、家に誘ったのも。
 築地のデートも。
 あの日の、キスも。
 皆……皆……俺がお前の店の客だから、しただけのことなのか?
 これも『サービス戦略』なのか?

 欲しがるヤツがいるのなら。
 サンジ、お前は俺じゃなくてもセックスするのか?

 自分でもバカなことを考えているんじゃないかとは思った。だが、一度疑い出したらキリが無くなった。
 確かめたい。
 サンジ、お前は俺をどう思っているんだ?
 腕時計を見たら時間は二時半を表示していた。
 ランチタイムの終わった時間。
 丁度良い。
 俺はサンジのいる洋食屋バラティエに向かって歩き始めた。

 

 

 

 『カランコロン』
 「申し訳有りません。今準備中なんですよ…」
 扉を開けると調理場の方からサンジが済まなさそうな声で話しかけて来た。
 構わず俺は中に入って後ろ手で扉を閉めた。
 「や、あの、今営業してなくて…って…ゾロ?!」
 顔を上げたサンジが俺の顔を見て固まった。
 白いシャツを第二ボタンまで外し、袖を肘まで捲り上げて流しに溜まった皿をたっぷりとアワの付いたスポンジで洗っていたままの姿勢で、目をまん丸にして俺の顔を見詰めている。
 「ど、どうしたよ?家にいるんじゃなかったのか?」
 俺は答えずカウンター越し真正面に立って睨み付ける。
 「怖い顔してどうしたよ?」
 カチャリ、と、皿を置いて破顔する。
 「どうした?腹減ったか?」
 優しい口調にジリジリと胸が焼ける。
 「……なぁ…どうしたよ?」
 一向に口をきかない俺を変に感じたのか、サンジは流しで両手のアワを落とし、水気を切ってカウンターから俺のいるフロアーの方に回って来た。
 「ゾ…っ!!」
 目の前に立たれ、名前を呼ばれる前に俺はサンジの腕を掴み抱き寄せ、抱き込む。
 「なっ!!んんっ…」
 そのまま乱暴に唇を奪った。
 状況が分からずに、ジタバタと暴れるサンジの背骨を折るような勢いで抱きめ、それから言った。

 「サンジ」
 「なっ…なんだよっ」
 「お前は俺をどう思っているんだ?」
 「…え…っ…?」
 腕の中で、明らかに動揺して身体を固くするのがわかった。
 「…おっ……俺は………」
 自分から聞いたって言うのに、続きを聞くのが厭だと思った。

 続く

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