【青い制服緑の髪】
19
九月三十日。
俺はサンジにメールを送信した。
『待たせるかもしれないが、明日郵便局で
渡したいものがある。 ゾロ』
決心した。
覚悟も決めた。
失いたくねェと、思っていたが。
よくよく考えてみれば、
まだ何も手にも入れていねェじゃねぇか。
失うものなんて、最初から何も無かった。
気付いて俺は、
ハラ括った。
なかなか寝付けなかった。
いつもより缶ビールを二本多く飲んで寝た。
そして、朝になって郵便局に行って……
俺は、とんでもないタイミングでサンジにメールを送ってしまったことに気が付いた。
「…参ったな……」
マズい……この状況を考えてなかった……。
郵便局が開店して十分。
自分でも信じられない話なんだが、俺は今だ一人目の客の用件が処理出来ずに悩んでいる。
先刻からずっと緑色の分厚いマニュアル本を捲っているんだが、一向に探している内容が見付からない。
「…終る気がしねェ……」
仕方がないナミに聞くか…と、隣りの窓口に座っているナミを見ると、あいつも何やら限界まで眉をしかめた表情で印紙税一覧表をじっと見詰めたまま動かない。
(…ダメだ…こりゃ聞けそうにねェな……)
端末の入力実行を躊躇しているうちに、客はどんどん増えて行く。
「あの…まだですか?」
朝一番に俺に通帳の無余白再発行を依頼した客が、他の客のピリピリとした空気に耐えきれず声をかけてくる。
「申し訳ございません。今暫くお待ち下さいませ」
顔を上げれば目の前の客の肩越しにずらりと並んだ順番待ちの客の鋭い視線と嫌でもかち合う。
参った。これじゃ埒があかない。
なんだよこの混み具合は…っ。
いつもの表情をしているのが精一杯だ。
思った以上の業務手続きの厄介さに、ブチ切れる一歩手前の状態だ。
ったく…一人の客にこんなに時間を掛けてる場合じゃねェんだよ……っ……。
「クソ…っ…」
こんなことなら昨日メールを送るんじゃなかった……。
俺は心底昨夜サンジにメールを送ったことを後悔していた。
「……タイミングが悪過ぎた……」
平成十九年十月一日(月)。
デザインが一新された真新しい制服を身に付け、起立。
「「いらっしゃいませ!」」
開店と同時に全員が最敬礼で客を迎え入れた。
………しまった。
頭を下げながら心の中で舌打ちを繰り返す。
…マズい…今日から郵政民営化スタートだった。
どう考えたって、今日が忙しくない訳が無い。
(待たせるにも…限度ってモンがあるだろう……)
覚悟を決めてメール送って…で、窓口が忙し過ぎるから仕切り直し…つーのはあまりにもアホすぎる。
いつも通りに客捌けば良いって?
俺もそう思っていたが、どうやら無理だ。
現に俺は一人目の客に嵌まったきり先に進めずにいる。
郵便局の業務は想像以上に内容が変わってしまった。
取り扱い手続きから、窓口で使用する式紙の類いから、端末の入力方法…果ては掲示しているポスターの類いまで。
とにかくほぼ全部が一新してのスタートだ。
おかげで今までは何の気無しに取り扱っていた業務のどれ一つを取っても未知の世界だ。
『くわしくは窓口でお聞き下さい』
とかリーフレットに書かれても困る。
業務の詳細を聞きたいのはこっちの方だ。
間違いなく今日から暫くの間、窓口は大混雑する。
よりにもよってこんな状況の中で、俺は考え無しにサンジを局に呼び出すメールを送ってしまった。
何でもなくてもいつも忙しそうにしている洋食屋バラティエの店長兼コックには、我慢ならない待ち時間になるのは火を見るよりも明らかだ。
…参ったな…
最悪のタイミングでメールを送っちまった。
何とか仕事のペースを軌道に乗せようと足掻きまくる。
だが、全然上手く行かない。
窓口で混乱を起こさないようにゴールデンウィークの辺りからみっちり訓練を受けたんだが、訓練と実戦は全く別の世界のモンだった。習った知識はほとんどが使い物にならない。
今自分の目の前にある用件の手続きの方法が合っているのか間違っているのか確認する術すら無い。
「…おい…ナミ」
「ん?何?」
「オート定額の無余白再発行、分かるか?」
「…変わらないと思うけど…」
「旧勘定の再発行で新勘定の通帳使えると思うか?」
「え?…あーダメかも…あ、そっか。もう(旧勘定の通帳)無いもんね。……多分使えないと思うけど…うーん……でも、調べてみなきゃ分かんないわ』
「分かった。悪かった」
「ごめんね」
「いや大丈夫だ」
前はこうだったからとか、系列は同じだからとか、多分こうすれば大丈夫だ…何て言うのは俺達の職種じゃ御法度だ。ただ端末で通りゃ良いって仕事じゃない。
ほんの些細なミスでも即命取りになる。
使い物にならない通帳やら証書を渡すことは絶対に許されない。
地味な仕事だが、俺達は命も身体も精神も張ってやっているのだ。
「チッ…調べるしかねぇか……」
業務の支援を担当しているヘルプデスクは回線がパンク。データの整備のために必須でやれと散々指示を受けていた顧客情報システムはサーバーダウン。
全ての手続き以外にも、様々な情報が掲載されているイントラネットも朝からひどく不安定だ。
他の局に電話をした所で、解決出来る望みは少ない。
頼みの綱のマニュアル本も、肝心の所は説明無しで痒い場所には全く手が届いていない。
仕方がねェ…と、事情を説明し、手続きは責任持って調べるから後日にしては貰えないかと頭を下げて頼んでも、
「今日しか会社の休み取れないから…」
と、断られてしまう。
「ったく…八方塞がりだな……」
散々時間を掛けて、何とか手続きを見付ける頃には、客もいい加減怒りが頂点に達している。
「なんでそんなに時間が掛かるんですか?」
「…申し訳ございません」
「時間が無いので急いでくれませんか(怒)」
「はい」
時間が無ぇなら民営化初日に来るな…と、言いたい所をグッと堪えて頭を下げる。
「お待たせ致しまして大変申し訳ございません。急いで手続き致します。お客様のオート定額のお通帳ですが……」
説明をして頭を下げて手続きを終らせ、また頭を下げる。
次に同じ用件が来たら誰でも直ぐに対応出来るように、用意しておいたノートに要点を書き込み、そのまま閉じる間も惜しんで次の客を呼ぶ。
「五番のお客様、一番の窓口へお越し下さい」
立ち上がり、カルトンをカウンターの上に置きながらこっちに向かって歩いてくる客に声を掛ける。
「大変お待たせ致しました。こちらへどうぞ……」
記帳で一杯になった通帳一つ切り替えんのに三十分。
定額貯金の預け入れには一時間。
保険の満期受け取りに二十分。
通常貯金の新規に至ってはヘタすりゃ半日掛かる勢いだ。
慣れればもっと早くなるんだろうが、初日の今日は何をするにも初めてのことばかりで、段取りが上手く取れない。
信じられないような早さで時間ばかりが過ぎて行く。
「定額小為替の手数料が一枚百円?!」
「はい。大変申し訳ございませんが宜しくお願いいたします」
「ちょっと十円から百円なんてどういうこと?」
「申し訳ございません。この度民営化に伴いまして価格の見直しを行いましてーー」
「普通民営化したら安くするもんじゃないの!?」
「…申し訳ございません…」
「時間は掛かるし待たせるし、何なの一体?!!」
窓口で想定されるクレームについての対応書は、ある。 だが、そのまま書いてある通りに言ったら間違いなくケンカを売ることになる。
どう贔屓目に見ても危険な文書だ。
突然手数料が十倍に上がったら、そりゃどんな温和な客だって驚くだろうし怒るだろう。まずは驚かせたことに、次に怒らせたことに詫び入れるのがスジってモンだ。
姿勢を正して頭を下げる。
「本当に…申し訳ございません」
何を言っても言い訳にしかならない。だったら潔く頭を下げて謝るしか無い。
「…まぁ…あなたに言っても仕方がないけどね…。もう良いわ。しょうがないんでしょ。良いから早く用意して」
「はい、かしこまりました」
立ち上がり小為替を用意して日付けを打つ。
「お待たせ致しました。合計で六百五十円です」
カルトンに叩き付けられるように出された金を受け取り釣り銭を用意する。
「三百五十円のお返しです。お確かめ下さいませ」
怒りが収まらないのか、カルトンをガシャンっと乱暴に俺の方に投げつけて帰って行く。
俺は客の背中に向かってもう一度深く頭を下げて礼を言う。
「ありがとうございました」
噛み締めた奥歯がギリ…ッ…と、音を立てた。
(……参ったな……)
客の態度に対してじゃない。
サンジに送ったメールのことだ。
(…ったく…何やってんだよ俺は…)
次の客の用件を聞きながらサンジのことを考える。
端末操作をしながら自分で自分に腹を立てる。
……『待たせるかもしれないが…』って、今来られたらどうすんだよ……どれだけ待たせるつもりだ?
オートキャッシャーから釣り銭を取り出して、カルトンに領収書と釣り銭を並べて客に返す。
「お待たせ致しました。七百円のお返しです。お確かめの上、お受け取り下さいませ。ありがとうございました」
立ち上がり頭を下げる。
「またお越し下さいませ」
言いながら、上着の右ポケットに入れた『モノ』をポケットの上から握り締める。
待合室に視線を巡らせ、まだサンジが来ていないことを確認してホッとしたり、反面ひどくがっかりしながら次の番号を呼ぶ。
「十番の番号札をお持ちのお客様、大変お待たせ致しました……」
サンジのことを考えながら、サンジのことを考える。
たまに我に帰って目の前の仕事に集中しようとしてみるが、どうにも上手くいかない。
「……チッ…」
誰にも気付かれないように舌打ちをして、またサンジのこと考える。
来るか…来ないか……
…そりゃ来てくれりゃ嬉しいけどよ……。
……嬉しいに決まってる。
どんな場所でも、あいつがいれば嬉しいに決まってる。
まして俺の誘いに応じて来たんなら最高だ。
来て欲しい。
結果、無茶な願いだとしても、サンジに来て欲しい。
俺には、あいつにどうしても渡したいモノがあるんだ。
ポケットに手を突っ込み、小さなケースを強く握り締める。
『コレ』は、俺の『けじめ』だ。
「十五番のカードのお客様、こちらの窓口どうぞ」
「十六番の番号札をお持ちのお客様、大変お待たせ致しました。こちらへどうぞ」
なかなか軌道に乗らない仕事のペースに苦しみながら、
目の前の用件を一つ一つ受けて行く。
受けながら、何度も客の中にサンジの姿を探す。
昨夜の夜、突然決心した。
ハラ括って、勢いのままサンジにメールを送った。
何となく、今しかねェと思ったからだった。
俺には、もう随分長い間サンジに伝えられない想いがある。
好きだ。
もう…訳が解らないぐらい好きだ。
自分でもヤバいぐらい好きだ。
どうにかなりそうな程好きだ。
他に言葉が見付からないぐらい好きだ。
こんなに誰かを好きになったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
自分じゃどうにも出来ない。
欲しい。
もう…無茶苦茶欲しい。
身体も心も、何もかもが欲しい。
自分で納得出来るぐらい確実にサンジが欲しい。
本当にヤバい。
このままだと、攫って監禁しちまいそうな程あいつが欲しい。
どうしても欲しい。
絶対に欲しい。
確実に欲しい。
どうしても。
どうしても。
どうしても、欲しい。
『欲しい』って言葉の意味が分からなくなるぐらい、サンジが欲しい。
おかしくねェか?
サンジは男だぞ?
女じゃねェんだぞ?
好きだとか欲しいとか言う前によく考えてみろ。
そもそも相手は恋愛対象か?
男が男を好きになる……本来ありえねェ話だぞ?
何度も何度も自分の中で答えを探した。
好きだと勘違いしているだけかもしれない。
欲しいと思い違いをしているのかもしれない。
自分の身体の中でグルグルと渦巻く『この感情』の正体を探し続ける。
もう、随分と長い時間、ずっと。
眺めていたい。話していたい。笑っていたいし、たまにはケンカをしても良い。
あいつが作った料理を食いたい。
また築地に行きたい。
他の所にも行きたい。
どこかに連れて行ってやりたい。
デート…そうだ。
デートが、したい。
『特別な一日』を何度でも過ごしたい。
抱き締めたい。
キスがしたい。
キスをされたい。
セックスがしたい。
もう…ランチの一時間だけじゃ足りない。
もっとずっと一緒に居たい。
サンジのことを考える度、今まで味わったことの無い感覚にいつも戸惑う。
自分が自分でいられない。
自分の中の感情が押さえきれない。
欲しい。
サンジが欲しい。
そして、サンジにも。
俺のことを欲しがって欲しい。
セックスの度、俺が欲しいと懇願させた。
『欲しい』と言われる度に、自分のどこかが満たされていくのを感じる。
嬉しくて病み付きになる感覚だ。
求めたいし、求められたい。
それは何故だ?
考えて考える。
行き着く答えはいつも同じだ。
サンジが好きだから。
他の言葉じゃ納得出来ない。
他の言葉じゃ説明出来ない。
もう駄目だ。これ以上、黙っていられない。
物騒なことを考えそうになる程、サンジが欲しい。
これ以上、我慢出来ない。
伝えよう。
……断られたら……?
想像するだけでゾッとした。
最悪の結果ばかりが頭に浮かぶ。
当たり前だ。勝算はゼロに等しい。
それでも俺を受け入れて欲しい。
情けない話だが、拒絶されるのが恐ろしい。
あの眉を顰めて後退りされたらどうすれば良い?
俺がメシを食いに行く時間、ドアに鍵が掛けられていたら……
もう、会うことすら出来なくなったら……
想像するだけで全身に不快感が走る。
まるで内臓に鳥肌が立つみてェな……
心臓を握り潰されるみてェな……
だが。
俺はようやく決心した。
考えているうちに気が付いたのだ。
俺はサンジを失うのが怖くて想いを伝えずに今日まで来ていた。
失いたくない。
俺はずっとガキみたいに怯えていた。
でも実際はどうだ?
今、サンジは俺のものなのか?
『…はは…っ…』
これには笑った。
いつの間にか、手にも入れてい無いのに、サンジは俺のものだと勘違いしていた。
『どうしようもねェな』
思い違いも甚だしいぜ。
そもそも俺はサンジを手に入れてなかったんだ。
臆する必要なんて無かった。
俺はサンジの全てが欲しい。
欲しいなら…告白ぐらいしねェとけじめもつかねェだろう。
ここまで来るのに随分時間を掛けてしまった。
答えに行き着き、ハラ括って、メールを送った。
『待たせるかもしれないが、明日郵便局で
渡したいものがある。 ゾロ』
考えて考えて、考え抜いて答えを出して、覚悟してメールを送った。
もしも…拒絶されたら……?
その時は…その時だ。
力尽くで奪ってみるのも一興だ。
絶対に手に入れたい。
きっと俺は何でもするだろう。
こんなに誰かを好きになるのは初めてなんだ。
……………
……………
続く
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