【青い制服緑の髪】
8
ようやく風呂から出るとすっかり十二時を超えていた。
「…一体何時間入ってたんだよ…」
間違いなく二時間半は入ってた。
どおりでのぼせる筈だと頭に濡れタオルを乗せて暫く大人しくしていた。
クローゼットの服、全部引っ張り出して散々悩んだ後、結局はジーパンに上はヘンリーネックのTシャツとジャケットっつー当たり障りの無い格好に落ち着いた。
どうせ荷物持ちさせられんだ。何ならジャージでも良いんじゃねェかって気分になりながら服を決めた。
コックの野郎はどこのメーカーの服着てんのかはあんまり良くは分からないが、どことなく高そうなイメージが漂っている。
例えばジャージ姿で来たとしても、いかにもオシャレ小僧的な格好をしてきそうな感じがしてならない。
…ま、人間格好じゃねーし…と、取りあえず自分を慰めることにする。
寝ようかと思ったが、駅での待ち合せまで後二時間。
中途半端で良く無い。
このまま寝たら、昼まで起きなさそうな気がしないでもない。
ここだけの話だが、俺は寝るのがかなり大好きだ。
放っておかれれば一日でも寝てる。
ある程度暖かくて、眠っても必要以上に体温が下がらないような場所だったらどこでも寝れる。
別に寝なくても何とかなる方だが、寝れるんだったら眠るに超したことは無い。
この前なんかは、金曜に仕事が終わって、アパートに帰ってきて床に横になったら二十六時間眠ってたってことがある。
便所に行きたいのを眠気で押さえ込んで根性で寝てたんだが、耐えきれずに起きてトイレに行ったんだよな。
で、何かやたら喉が渇いてて腹が減ってておかしいな…って思ってたら、付けたテレビが土曜の深夜番組だったんだよな…。
結局寝過ぎて逆に眠くなっちまって、そのままビール飲んで日曜の昼まで寝倒したのが…まぁ…一度や二度のことじゃ無い。
寝たら起きないタイプって訳じゃねーんだけど、爆睡するのはかなり得意だ。
この時間に眠るのはかなりヤバい気がする。
築地がパーだ。
「よし。寝るのはやめた」
家から学園の駅まではバスを使って小一時間。
流石に今の時間は終バスも終わってるからタクシーで行くつもりだ。車だったら多分もっと早いだろう。
出掛けるのは二時半前ぐらいで良いんじゃねーかな。
することも無いんで財布の中身を整理したりする。
商店街のスタンブカードが何枚も差し込まれてたり、レシートがグシャグシャになって突っ込んである。
要らないモンを全部捨てたら逆にスカスカになって免許証とか飛び出しそうになってしまった。
出掛け先でなくしたら大変だ。
なんせ俺は前科持ちだからな…。
昔、軽井沢に遊びに行った時、郵貯とカード会社の提携カードを落としたことがある。旅行の前に財布の中身を整理しようってパンパンに膨れ上がっていた財布の中身の要らないモンを整理した結果起きた事故だった。急いで郵便局のカード亡失センターに電話して(ココの電話番号は、局長に語呂合わせで覚えさせられた。『フリーダイヤル・無くしたら早く』0120-794-889 二十四時間いつでも繋がる番号だ)キャッシュカード機能を停止させた。その後直ぐに共用部分も止めたんだが、再発行に一ヶ月半も掛かって、その間金を下ろすのに通帳を持ち歩かなきゃならなくなり、エラく不便な思いをしたことがある。
あんな面倒なのはもうしねェと固く心に誓ったにも関わらず、その後財布の整理をした直後二回カードと果ては免許証まで落としてしまった。
流石に今は反省して、財布の中の要らないものは即捨てる習慣をつけたが、それでもこうやって気が付くと肝心の中身が無いっつーのにパンパンに財布が膨れ上がってしまうことがある。
最近は落としちゃならないカードの類いは、振っても落ちないような場所に仕舞うようにした。
時間が有り余ってるからゆっくり時間を掛けてやったつもりだったが、顔を上げて時計を見たら、財布の整理を始めてから五分しか経っていなかった。
「……ふー………あ、金足りっかな…」
札入れを開いて数を数えた。
仕事場のATMで三万下ろしてきてあるし、タクシー代ようの細かい金も入ってる。
「…ん…大丈夫だな」
もうすることも無くなった。しょうがねェ。財布を閉じてジーンズのケツポケットに捩じ込んだ。
髪はタオルドライで乾いたし、用意した服にもとっくに着替えた。
「…んで…?…後は何をする…?…」
オナニー…は流石にもう良い。
先刻散々ヤッたばっかりだ。
しかも折角汗とザーメン綺麗に流し落としたっつーのにわざわざまた汚すこともない。
テレビでも見るかなと思って付けてみたものの、特に興味の在る番組も無い。
暫くリモコンでチャンネルを変えてたら、教育テレビで剣道入門を放送してたんで暫く眺めて十五分。
「…二時までまだ四十五分…か……」
ソファーでダラダラしながら三分。
水を飲みに行って二分。
ついでにビール…と思いかけて踏みとどまり三分。
「……後三十七分……」
時計の針を睨んで二分。
イライラして一分。
ウトウトしかけて焦って立ち上がる。
「いけね…ェ…」
時計を見ると…
「んーだよっ……全然時計進んでねェじゃねェかっっ」
頭に来た。
早く出掛けてェ。
気持ちだけが焦って暴走する。
ケツの辺りがジリジリしてならねェ。
「……あーっっ……ダメだっ」
パンッ!!
俺は両膝を叩いて立ち上がった。
コックとの待ち合せの時間まで後一時間二十分。
俺はアパートを後にした。
「…寒ィ…」
首を竦めて空を見上げる。
空の高いところに月がある。
星が光っているのが幾つか見えた。
「…良い天気になりそうだな…」
冷たい空気が気持ち良かった。
「しょうがねぇ……デートに付き合ってやるとするか」
人通りの無い道路で口に出して言ってみた。
「……へへっ…」
言ったら、自然に口元がニヤけた。
暫くバス通りを歩いていると、空車のタクシーを捕まえられた。
「学園の駅まで」
「え?終電終わっちゃうよ?」
「ああ、構いませんよ」
走り出すタクシーの中で少しだけ目を瞑った。
「お客さん、着きましたよ」
「……んん……ああ……」
タクシーの運転手に起こされて眠い目をこじ開ける。
料金を払って外に出ると、また少し気温が下がっていた。
吐く息が少し白い。
携帯の時計を見ると二時十五分。
「……予想以上に早く着き過ぎたな…」
ぼやきながら辺りを見回す。
当たり前だがコックはまだ来ていない。
終電が終わった駅は当たり前だが真っ暗で、営業している感じは無い。
駅前の本屋も電気が消えているし、その二階にある喫茶店も電気が消えている。
マクドナルドも営業終了していたし、駅の階段を下りて直ぐにあるカステラの店とカメラ屋も、シャッターがしっかりと閉まっていた。
「…へー…夜中だとこーなってんのか…」
ちょっと珍しい景色でも見ているような気分で駅前の眺めた。駅前でも夜中になるとこんなに暗くて静かになるんだなと、少し感心してしまった。
「はは…っ…流石に吉野家は二十四時間か」
駅の下の狭いスペースを利用して作られた吉野家がだけがオレンジ色の光を光らせている。
時間もあるし何か食っておくかな……と、店屋の方に歩いて行った。
「いらっしゃいませーっっ!!」
「いらっしゃいませーっっ!!」
威勢の良い挨拶にちょっとだけ引きながら手近な席に着く。
「あ…豚丼。並で」
青くてデカい湯のみをゴトリと置いた店員に声を掛けた。
「はいかしこまりましたーっ。豚丼並一丁っ!!」
「はいかしこまりましたーっっ」
待ってる間、見るものが無いから店員を眺める。
寒いのに半袖のTシャツだ。
オレンジ色のエプロンを付けて急がしそうにくるくると鍋のまわりで何やらやっている。
見慣れたどんぶりにメシを入れて秤で計る。
足りなかったのかシャモジに小指の先程度のメシを乗っけてどんぶりに足してまた重さを量る。
(へー厳密なんだな…)
感心して見ていると、今度は穴の空いたオタマみたいなのに具を乗せて器用に汁気を切り、どんぶりに入れた。
また重さを計って、今度は一発でオッケーだったのか、俺のところに持ってきた。
「はいっお待たせいたしましたっっ」
勢い良くゴトンッと、どんぶりが目の前に置かれた。
暖かそうな湯気を出している豚丼の良い匂いが鼻の奥をくすぐった。
「いただきます」
癖になっている挨拶をした後、四角い容器の中から紅ショウガをトング一掴み分どんぶりの中に放り込んで割り箸を取り出す。
そのまま左手でどんぶりを持ち上げると、ガーッッと流し込むように口一杯にメシを頬張った。
うん。うまい。
コックのメシとはまたジャンルが随分違うような気がするが、これはこれでかなりうまい。何だか食ってると現場仕事でも出来そうな気分になってくる。
勢い良く食ってて、
あ、いけね。時間潰すんでメシ食ってんだった。
って思い出し、茶を一口飲んで気分を落ち着かせて今度はゆっくりと一口箸で運んだ。
単調な味のどんぶりで、いつもと変わらない味がする。
きっとこういうチェーン店の料理はしっかりした作り方って言うのがそれこそ分量単位で数学的に決まっていて、マニュアルに乗っ取って作ればきっと誰でも同じ味になる。
誰が作ったって同じ味の料理が出来る。
メシの量だって、グラムできっちり決められている。
凄いことだ。
こんなにうまいものが誰でもマニュアルがあれば出来る。
凄いことだ。
うまいなって思いながら食った。
だが、毎日食ってたら、きっと一週間で他の料理が食いたくなるんだろうな…って考えた。
同じ味は、どんなにうまくたっていつかは飽きる。
だから、色んな料理が食いたくなるんだ。
つらつら考えながらメシを食う。
食いながら、コックの料理は飽きたことがなかったことに気が付いた。
あいつの料理はいつもなにが出るか楽しみで…そんな店のメニューって言ってもそんなにたくさんある訳じゃねーのにバリエーションが多いような気がする。
(コックの野郎、今日は何を食わせてくれるんだ?)
セックスも好きだが、コックの料理も同じぐらい大好きだ。
オムライスにしても、ハンバーグにしても、他では…ああそうだ…他では食えない味がする。
「……………」
ああ……そうか。
どれもこれも皆、サンジが作った味がするんだ。
「………」
食いながら何だか嬉しくなった。
何でだか良く分からないが嬉しくなった。
(…ま、いいや。とにかくそういうことなんだ)
どういうことか、正直なところ説明出来ないんだが、なんか、なんとなく…こう…感覚的に、嬉しかった。
築地。
市場。
空腹を満たす為の材料がたくさんある場所。
サンジはきっと何よりも料理を作るのが好きな男だ。
そのサンジが俺にデートだと言って築地に誘った。
サンジはきっと築地市場で今まで見たことも無いような表情を見せてくれるような気がする。
多分、俺はその顔を見て……。
「………」
多分、何かを感じるだろう。
どんぶりの底の方に残ったメシを丁寧に箸で掻き集めながらまた口元が緩んでいたのに気が付いた。
今日の吉野家の豚丼は、いつもよりもうまく感じた。
時間を潰した気になって吉野家から出たものの、まだ待ち合せの時間までは十五分ある。
「…時間にきっちりって保証もねェしな…」
つっても流石にもうすることも無くなった。
仕方がねェ。後はサンジが来るのを待つだけだ。
俺は改札口のところまで歩いて行き、後は大人しく待つことにした。
最初はぼんやりサンジのことを考えて。
それから後は本当にぼんやりと何にも考えないで。
「なんだなんだ早かったなーっっ」
サンジは約束の時間きっかりに現れた。
いつもの黒いスーツ姿じゃなく、くすんだブルーのジーンズに白いパーカーにジャケットっつーラフな格好をしていた。
(こういう格好も似合うんだな…)
思ったが、口にすることも無いだろうと、俺は黙って右手を上げて合図を送った。
「何時に来たよ?」
「んー…覚えてねェ」
「何だよ。惚けてんなぁ。大丈夫か?」
「ああ」
「今日のデートは体力使うんだぜー」
ああ、やっぱり荷物持ちだな、と、思いながら、やっぱりそれも口にしなかった。
「ああ。まかせておけ」
「おっ、頼もしいなー。じゃ行くか?」
「おう」
二人で並んで歩き出す。
「なんだ、電車じゃねーのか?」
「はぁ?……なんだゾロ、お前築地まで電車で行くと思ってたんだ?」
「ああ」
可笑しそうにサンジが笑いながら俺に言った。
「だったらこんなに早く待ち合わせしねーって」
始発だったら待ち合せは五時だって、と、笑いながら言われた。
「んで?何で行くんだよ」
サンジに聞くと、ジャケットから鍵を取り出しくるくる回した。
「くるま」
「何?お前車持ってんのか?」
「そーだよ」
「すげーな」
素直な感想だった。
サンジの眉が得意げにキュッと、上がるのが何とも言えない。
「まぁさ、俺仕込みとか自分でやってるしー。車はやっぱ必需品なんだよねー」
まぁねー…みたいな感じでニカッと笑った顔は今まで見たこともないような全開の笑顔だった。
「ゾロは車持ってないのか?」
「ああ。維持費が大変だしな」
「それに」と、俺は言葉を続けた。「使うこともあんまりねェし」
免許証は持ってるんだぜ。と、付け足した。
「いつ取ったよ?」
こっち口の階段を下りて促されるままにコインパーキングの方に向かって並んで歩く。
「あ?……んー…十九の時…だな」
「俺もっ!」
サンジがまた笑った。
「高校卒業して直ぐ取ったんだよねーっ。なーなー、お前の免許書見せろよ」
「あ?見ても面白いもんじゃねーぞ」
「いいからいいから」
笑った顔がもっと見たくて俺はジーンズのケツポケットに捩じ込んである財布を取り出し免許証を見せた。
「ぶっ!!あーはっはっはっ」
「んーだよ大袈裟だな」
腹を抱えてサンジが笑う。
「何だよコレッ!!え?マフィア?」
「うっせー。お前はどうなんだよ」
「バーカッ。見て驚くなよっっ。もーどこの王子様かと思っちゃうぜ?」
ほい、と、渡された免許書には神妙な顔をしたサンジの写真。今より少しだけ若い。
「ブッ…」
「ん?あまりの格好良さに言葉もねーか?」
「…何言ってんだよ。王子様っつーより、どこぞの七五三の写真じゃねェのか?」
「なっ…テメーっ」
怒ったマネをしながら俺の手から自分の免許証を奪う。
「お前のよかマシだもんねー」
言い方がまるで子供で笑えた。
「お前の車、どれだよ?」
駐車場で尋ねると、一台のシルバーのCRVを指した。
「アレ。中古なんだけど、頑張ってくれるんだよねー」
「ふーん」
「一杯入るのが気に入ってんだよね。まぁさ、馬力が無いのが困りモンなんだけどさ。ほら、乗んな」
ロックを外して運転席のドアを開きながら俺に声を掛けてきた。
サンジの運転は、そんなに上手い運転でもなければ、下手でもない。
緊張しないで乗れるのは良かった。
「んでさー……」
車の中でサンジはとにかく良く喋った。
内容は世間話程度のモンばっかりだった。
お互いの住んでる場所のこととか、仕事のこととか。
本当に他愛の無い話ばっかりだった。
「へー…じゃあ2つ星ってそー簡単に取れる資格じゃないんだ」
「ああ。筆記試験があって、八割正解しないと合格出来ない」
「でもさ、名札のところに付けてても、星が一つとか二つとか以前に、何のバッジか分かんねーぜ?」
「だよな。それは俺もそう思う。まず聞かれもしねェしな」
「つーかさ、ゾロが接客レベルが星2つっつーのは…ちょっとな…」
「どー言うことだよ」
「だってお前怖ェし」
「いつ俺が怖かったよ」
サンジが進行方向を向いたまま言った。
「昨日。窓口で番号札呼ばれて、お前に立たれた時。……マジで怖かったぜ」
「…何が?」
俺も進行方向を向いたまま言葉を返した。
「郵便局でヤられるかと思ったし」
「……そうすりゃ良かったか?」
「……まさか…」
車は夜明け前の東京の街を走り抜ける。
サンジの言葉が、ふっ…と、止まった。
「…良い天気になりそうだな…」
「……ああ…」
「酔わねぇか?」
「…ああ大丈夫だ」
「…ん…なぁゾロ」
「……ん?」
真っ直ぐ前を見詰めてハンドルを握るサンジの横顔を眺める。
「…や…何でもない……ああ、ゾロ、着いたら起こしてやるから少し寝てれば?」
「……ああ……」
シートに身体を預け、眠気に意識を飛ばしかけながら、俺は自分の頭の中で、いつのまにか、コックのことをサンジと呼んでいたのに気が付いた。
車は朝の築地市場へと向かう。
続く
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