【窓越しの掃除屋】
11 朝礼の後、久し振りに掃除屋に声を掛けられた。
「…今夜?……ああ、空いてるぜ」 「そっか。な、お前ン家に飲みに行っても良いか?」 「ああ」 「じゃ、仕事終わったらゲートの所で」
「ああ」 掃除屋は妙にホッとしたような表情を浮かべると、口に銜えていたタバコにようやく火を点けた。 「…んじゃ…」 そのままくるりと踵を返し、歩き始めた背中に思わず声を掛ける。
「おいっ、話って…それだけか?」 掃除屋は振り返らずに右手を上げる。 「おう」 残業すんじゃねーぞ、と紫煙を残し、作業開始直前のエントランスの方へスタスタ歩いて行ってしまった。
「……なんだアイツ……」 細い後ろ姿を目で追いながら呟く。 呟いたら、自分の口元が笑っていたのに気が付いた。 (…ったく…重傷だぜ…)
テメェん家に来るってだけじゃねーか。そんなに喜んでどーするよ。 慌てて頬に力を入れて奥歯を噛み締め体裁を繕う。 男が一人でニヤニヤしてる姿っつーのは、見る方も見られる方も気持ち悪いに違い無い。
両手で頬をバシバシ叩いて気合いを入れて、無理矢理顔を引き締め、まるで何でも無かったような顔をして、ルフィが待っている足場に向かった。 「悪ィ、待たせたな」
「おう、良いぞ。んん?」 ルフィが俺の顔を見た途端に驚いたような声を上げる。 「なんだゾロ、良いことあったのか?」 「別に?何で?」
…コイツは…普段はメシと喧嘩ぐらいしか興味ねェくせに……時折人の急所を突いてきやがる。 ほとんど条件反射的に否定したら、ルフィは不思議そうに首を傾げてとんでもないことを言いやがった。
「だって、すげー嬉しそうな顔してんぞ、お前」 三月二日の朝。 快晴。 足場バラシは軽快に進む。
男が男に惚れる…なんて言うのは、俺に限って言えば、絶対あり得ねェと思っていた。 想うにしても抱くにしても、女に勝るモンが見付からない。
第一、常識ねじ曲げてまで同性に恋愛感情を抱く理由が見付からない。 …まさか、自分が男に惚れるとは夢にも思わなかった。 相手は同じ現場で働く掃除屋だ。
切っ掛けも、野郎共に集団レイプされていた姿を見て…なんつーような、普段だったら気にも留めないようなことだった。 あの時の掃除屋を思い出してみる。
女みたいだったか? 女みたいに喘いでいたか? 女みたいに感じていたか? 掃除屋は散々暴れ、相手を蹴り飛ばし、怯まなかった。
圧倒的な劣勢の中で、睨み付ける目は、最後まで弱まることは無かった。 細いながらも、しっかりと筋肉のついた身体は、『女』を感じさせる部分の欠片も無かった。中心で徐々に勃起してったモノは、明らかに『男』だった。
どうして男の身体を綺麗だと思ったのか…。 どうして感じ始めて行く『男』の姿を…もっと見たいと思ったのか。 どうして、助けたいと思ったのか。
結局今でも分からない。 くいなに似ているところが一つでもあるのかと思った。 探してみた。 見付からなかった。
顔も、身体も、仕種も。 似ているところは、何一つ、無かった。 なら…好きになる理由が無い。 何度も気のせいだと自分を納得させようと試みた。
だが…。 欲しいと思う気持ちばかりが強くなるだけだった。 あり得ねェ。 ……本当にあり得ねェ。 窓越しの掃除屋から目が離せない自分がいる。
たった一人で作業をしている掃除屋が、時折見せる穏やかな表情にホッとさせられる。 時折見せるガキみたいな笑顔に、胸を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
……自分でもおかしいのは十分承知だ。 孤独感に襲われ、眠りに逃げ込もうとしていたあの夜の偶然の出逢い。 思い掛けない時間。 側で笑う掃除屋。
窓越しじゃなく、四畳半しか無い狭い自分の部屋の中で一緒に酒を飲み、話し掛けてくる掃除屋。 まるっきり…子供みてェな掃除屋の寝顔。
俺はどうしてコイツに惹かれた? 顔か? 身体か? セックスか? ただ単に…俺が寂しかっただけだからか…?
俺はまだ、アイツの何も知らないのに。 俺はまだ…くいなを愛しているのに。 ………どうしてアイツが好きだと思った? 自分で自分が……分からない。
自分の中に、また誰かを好きになろうとする力が残っていたとは思わなかった。 普通の恋愛じゃない。 叶う想いじゃない。
そんなことは分かっている。 ……なら……なぜ好きになった? なに浮かれてんだよ。 アイツは俺をただの友人としてしか見てねェんだぞ。
今の状況に満足してねェんだろ? 触りてェんだろ?抱きてェんだろ? 欲しいんだろ? 拒絶されンのがそんなに怖いのか?
………バカじゃねェか? 足場を移動して覗き込める窓が変わると、先ずは部屋の中に掃除屋を探すのが癖になった。
一日の作業の中で、一度か二度は掃除屋を見つけることが出来る。 目が合う回数が増えてきていることに気が付いた。 掃除屋は、手に持った小さな帚を軽く上げて少しだけ笑う。
たったそれだけの仕種に舞い上がっている自分がいる。 相手は友人として。 俺は恋人として。 いつも先に視線を外すのは掃除屋だ。
当たり前だ。 アイツはただの挨拶程度に俺に視線を合わせただけだ。 直ぐに作業に没頭して行く姿を見ると、まるで一人置いて行かれたような気分に陥る。
俺はアイツを見ているのに、アイツは部屋の汚れを見ている。 (顔を上げろよ。俺をもっと見ろよ…) 声に出せない言葉を腹の中で何度も繰り返し、俺は右手に持ったラジェットをきつく…きつく握りしめる。
剥がすように視線を外し、作業に戻る。 それでも頭からは、掃除屋の細い身体だの、白いうなじだの、器用そうな細い指だの、サラサラとした金色の髪や整った顔だのが、こびりついて離れない。
奪い取ることも出来ねェ想いなのに…自分の中に今でも大きく空いている、何だか良く分からない真っ黒で不快な穴を埋めようと…欲しがる。 会えると嬉しい。
なのに辛い。 会えなきゃ辛い。 だから会いたい。 何だか……すげェ……苦しい……。
「…なに?今日で終わり?」 「ええ。もうこの場所も造園の準備に入りたいんだってさ」
残念だけどね、と、付け足しながら、ナミがトングでトンカツを一枚掴んで、俺の前に置かれた湯気の立ち上がる カレーの上にバサッと落とした。 「コレはおまけ」
「珍しいな。今日はヤリでも降るんじゃねェか?」 「ちょっ…!!人の好意をどうしてそう捩じ曲げて取んのよっ」 「こと相手がお前だからな」
言いながら、衣たっぷりのトンカツを大きく齧る。 「ん。ウメェ」 膨れっ面で水の入ったコップを乱暴に置かれた。 少し濃いめで肉のほとんど入っていないナミのカレーはそれでも食い慣れた味で、腹に溜まると下手な定食屋の料理よりも満腹感と満足感が同時に味わえる。
人間の良心を遥かに超えた価格設定さえなければ、飯場でなくても十分やっていけるだろう。 「ルフィが泣くな」 「あたしも悲しいわー」
「お前の場合、金目当てだろう?」 「当ったりまえじゃない。あんなに気持ちよくたくさん食べてくれるお客さんってそうそういないもの」 「まぁ、確かにな。でも、アイツ、お前ンとこのメシ代で、かなり貯金無くしてたぞ」
「あらそう?」 ナミが飲み干した水を追加する。 「ああ、サンキュ。…アイツ、将来船乗りになりたくて金溜めてんだぞ。少しはまけてやれよ…って、今日で終いじゃ、それも無理か」
「船乗り?」 「ああ。何でも海賊になりたいそうだ」 「海賊!!」 ナミの丸くて大きな目が更に丸くなった。 「へーっっ!!凄いじゃないっ」
意外にも、ナミは爆笑せずに、感心したような声を上げた。 「笑わねェのか?」 「笑う訳ないでしょ。良い夢じゃない海賊なんて」 「そうか?何で?」
「夢があって」 「…でも、お前、海賊キライじゃなかったか?」 確か、前付合っていた時に海賊モノの映画を見に行ったら、やたらと機嫌悪くしてたよな?
「そうね。意味も無く、相手のことも何も考えないで強奪するような海賊は大ッ嫌い。でも、こんな時代に会社勤めだのなんだのって道を選ばないで、海に出たいって気持ち、あたしは好きよ」
「そうか?」 「だって、普通じゃ考えても叶えようとはしない夢じゃない」 「………ああ…そうだな」 考えても叶えようとはしない夢…か。
何気に言ったナミの言葉に打ちのめされた。 「…どうしたの?変な顔して」 感の鋭いナミは、俺の変化に直ぐに気が付く。 「あたし、何か変なこと言った?」
「…いや、言ってねェ」 頭に浮かびかけた掃除屋の姿を急いでかき込んだカレーと一緒に飲み込む。無表情のまま、慌てて何か言葉を探して口にする。
「お前、確か一級船舶の免許、持ってるって言ってたよな?アイツに勉強教えてやってくれよ」 「そうね」 意外にもナミは真面目に頷いた「そうしようかしら」それからチョロっと舌を出して笑った「もしも本当に海賊になったら、あたしついて行こうかな?」
「お前、強奪だの略奪だの嫌だって言ったじゃねーか」 「別に相手のモノを狙わなきゃ良いのよ。そーねー…例えば『お宝探し』とか?」 「…徳川埋蔵金とかか?」
「アンタ…ソレ、すっごい陸地思考。違うわよ。海で探すの海で。色々あるわよー……例えば航海の難しい海域で沈没した海賊船の宝とか、そうね…あとは宝島とか?」
「航海の難しい海なんていったら、自分も沈没するだろう」 ナミがトングを左右に振りながら『チッチッチッ…』と舌を鳴らした。 「そこで航海術の技術が生かされるって訳よ。そーいうの、きっと得意だと思うのよね、あたし」
想像以上の食い付きに内心驚きながらも話を続ける。こんな会話も久し振りだ。付合っていた頃よりも話が盛り上がったような気もする。案外、人って言うのは距離を置いた方が笑って話も出来るのかもしれないな。
そう思ったら、また掃除屋のことが頭に浮かびかけて、俺はまた慌てて水を一気に飲み干した。 「ごっそうさん」 いつものように両手をパンッ!!と大きく音を立てながら合わせて頭を下げる。
「はい。ありがとうございました」 ナミが、戯けて丁寧に頭を下げる。 「当料理店を長い間ご利用頂きましてありがとうございました。また、どこかで会いましたら何卒宜しくお願い致します」
ふざけながら、だが、本当は真剣にそう言っているのが分かった。 「次はどこの現場だ?」 「ん?次は横浜の方」 「そうか。元気でな」
「ゾロもね」 そうか、もう終わりなのか……と、ようやく頭が理解した。深く考えたらまたいつもの病気が出るかと思って、そのまま考えるのを止めた。
「ね、ゾロ。…もしも本当に海賊なったら、一緒の船に乗りましょうよ」 ナミが俺に声を掛けた。 「…ああ、本当になったらな」 万に一つの可能性。
ルフィの夢が叶えば良いと、初めて俺は本気で思った。
続く。 top
12 |