【窓越しの掃除屋】

16

 ずっと…もうずっと長いこと忘れていた男の顔が…記憶の底からもの凄い早さでせり上がってくる……っ…… 
 「………うう…っ…」
 思わずうめき声が漏れる。
 一気に吐き気がこみ上げてくる。
 咄嗟に両手で口を押さえて頭の血管が切れそうな程全身に力を入れて、まるで衝撃みたいな記憶に耐えた。
 温かいシャワーに打たれてるのに全身がガタガタ震え出す。怖くて、寒くて、怖くて…こわくて。
 そうだよ。そうだ…。
 キスってスゲー怖いモンだったんだ。
 ……俺……こんなことも忘れてた。
 ずっとしてなかったから忘れてた。
 キスなんて、もうずっとしてなかった。
 ずっと…ずっとキスが怖くて……。
 ずっと昔。あの…バラティエでの事件以来。

 「………っ……」

 

 七十日間の魚の檻。

 

 バラティエの襲撃事件。
 ジジイがいない間の。
 人質立て立て籠り事件。
 たった一人生き残されて。
 無理矢理覚えされた、ケツで感じるセックスの快感と。
 片時も止まらない吐き気の中で味あわされたキスの味。
 
 「〜〜〜〜っっっ!!!」
 怖い怖い怖い怖い。
 今更ながら無茶苦茶怖い。
 慌てて顔を上げて辺りを見回す。
 見慣れたタイルが並んだ、見慣れた自分のアパートの風呂場だって言うのを納得するまで目で確認する。
 飛びつくように歯ブラシを握って、震えてどうしようもない手でチューブから歯磨き粉を絞り出す。
 足下に何センチも零したけど気に何てしていられない。
 「はぐっ」
 っと、勢い良く口に突っ込んで、口の中を感触を忘れたくって力一杯歯を磨く。
 何度も何度もうがいして、それからまた歯磨き粉を目一杯つけて、口の中が辛くなるまで歯を磨く。
 舌がヒリヒリするまで歯ブラシで擦って、またバカみたいに何度も何度も、納得するまでうがいする。
 ガタガタと身体を震わせながら、自分の居場所を確認しながら、頭の芯に叩き込むようにして安心させる。
 だいじょうぶだ。大丈夫だから。…もうだいじょうぶ。 もう……全部終わったから。今はもう…一人だから。
 ………もう誰も俺に乱暴なんてしないから。
 震える喉をこじ開けて、引き攣ったように深呼吸を繰り返して、自分を必死で取り戻す。
 『……大丈夫…だいじょうぶだ……アイツはいないし……あいつもいない……』
 自分の胸と頭にしみ込ませるようにして、何度も呟く。
 どれぐらいしてたか分からないけど、身体の震えが止まるまで、ずっと、ずっと呟いていた。

 「……………ふぅ……」
 今度こそ本当に、落ち着いて、溜め息をつく。
 大丈夫。もう大丈夫だ。ホント大丈夫だ。
 ここは俺以外、誰も入れない俺の家だから。
 ほら、ちゃんと俺はここまで帰って来れた。
 大丈夫だ。
 ……もう、大丈夫だ。
 「大丈夫だ……ここまで帰って来れたじゃねーか……もう大丈夫だ……」
 呟いて、自分がここまで帰って来れたことを改めて実感した。
 ……ああ……監禁されなくて良かった。
 そう思ったらホッとして、不覚にも泣きそうになった。
 ホント…良かった。
 あんないつ終わるか分からないセックスなんて、もう二度と味わいたくない。
 ……帰って来れてホント良かった。
 ここにいれば安心だ。
 暫くこうして一人でいよう。
 「………ああ………」
 やっぱり、俺は一人っきりの方が良い。

 

 色々思い出してると、昔のことまで思い出すから、何だかテキトーにメロディー付けた曲を鼻歌で歌いながら身体を洗った。
 ナイロンタオルにボディーソープ、いつもの三倍ぐらい付けて泡立てて洗った。それでも洗い切れてないような気がして、二度も三度も洗い直した。
 指先がふやけて来るまで風呂に籠り続けて、のぼせて頭がクラクラして来てのに気が付いて、ヤバいと思って風呂から上がった。
 鏡にやつれ果てた自分の顔と、案の定付けられていた首筋のキスマークにショックを受けながら新しいタオルで身体を拭いた。
 冷蔵庫から水を取り出して、飲みたいだけ飲んで、身体がヨロヨロするのを完全に無視して、自分のベッドに倒れ込む。

 『ばふ…っ…』

 慣れた自分のベッドは、どこにでも売ってるような安物だけど、それでもどこにいるよりも今は一番安心出来る場所で、ようやく俺は身体の力を抜くことが出来た。
 気持ちも身体も疲れ果てていたせいか、そのまま俺は沈むような眠りに落ちた。
 夢も思い出せないような深い眠りに落ちれたのは、俺に取ってはラッキーだった。

 

 

 次に目が覚めるともう部屋の中は暗くなってた。
 ベッドの側のデジタル時計に目をやると、もう九時過ぎだった。
 「……………」
 ぼーっと緑色の数字を眺めながら、緑って言っても色んな色があるんだな……なんて訳解んないこと考えていた。
 腹が空いてるような気がするけど、何だか動く気にもならない。
 そのまま時計の数字が変わっていくのを三十分ぐらい眺め続けて、そのうちまたウトウトしてきたからテキトーに二度寝して、時計の表示が十一時を過ぎた頃、ようやく頭もしっかりしてきた。
 恐る恐る昨夜のことを思い返してみる。
 「………………うん…」
 あ……うん……多分もう大丈夫だ…。
 朝方のどうしようもないような感覚は無くなってる。
 身体は強張るものの、ゆっくりだったらあいつの顔も思い返せた。
 「…ふー……っ……」
 ブルッと身体を震わせてから、ゆっくりゆっくり力を抜いた。
 寝返りを打ってベッドサイドのテーブルの上に置いてあるタバコとライターを掴んで一服。
 「…フーッ……」
 天井に向かって紫煙を吐き出す。
 ぼんやり一本吸って、今度は味わって一本。
 根本まで吸って、灰皿に擦り付けて火を消して、最後にもう一本。
 「フー…ッ……」
 あー………旨ェ………。
 そー言えば俺真っ裸のままだわ…なんて考えながら肺の隅まで煙を行き渡らせる。
 あ、いけねー。仕事サボっちまった。
 ………ま、良いか…。
 行っても仕事になんねーだろーしな。
 つーか、あいつに会いたくねーし。
 つらつら、つらつら考える。
 考えながら、なんだか自分を取り戻せていくような感じがした。
 やっぱタバコは 大事だよな……。
 ニコチン中毒的思考だなこりゃ……なんて考えて、少し笑う。
 ん。イイ感じだ。
 口の端が上がっているのを感じながら、いつもの自分に戻っていくのを実感する。
 ……ん。大丈夫だ。もうなんてこと…ない。
 男なんてこんなもんだな。
 レイプされても一日あれば何とか立ち直れる。
 俺、男で良かったよ。
 辛いって言ったら、結局ケツぐらいなんだもんな。
 痛みが取れりゃぁそれでオシマイ。
 気楽なもんだ。そーそー。
 「……気楽なもんさ……」
 犬みてぇなのに噛まれたと思えば良いんだ。
 大したことじゃない。

 ………………。

 

 

 『…指の骨…砕くぞテメェ』

 

 

 「……………」
 ふっ…と、あいつの言葉を思い出した。
 「…………あいつ……」
 なんであんなこと言ったんだろう。
 あの時は俺もパニクってて、指守るのに精一杯だったから訳解んなかったけどさ……良く考えたら……
 「俺が料理人だったなんて…言ったことねーし……」
 うんそーだ。話そうと思ったことも無い。
 「………まさか……夕飯食ってて分かったとか?」
 ………まさかな。んな、舌肥えてそうなメシ食ってるような部屋じゃねーし。
 第一、人のこと一々詮索するような細かいヤツには見えない。
 「………………だよな………」
 だから楽だと思ったんだしな。
 まあ、脅しなんて何でも良いもんだしな。
 たまたま目に付いたんだろ。
 指の骨、砕くぞって……脅したのは偶然かもな。

 

 (…でも…あんなまどろっこしい方法で?)

 

 わざわざ指絡めてくるぐらいなら、顎掴んで、
 『顎の骨、砕くぞ』
 でもいーよな……。
 つーか、折るのは手首だって良かった訳だし。
 ……つーか、どこの骨も砕かれたくねーけど……。
 新しいタバコ銜えて、火付けないで、唇でプラプラ揺らしながら考える。
 途中、間近で睨み付けてきたあいつの顔を思い出して、思考が、うっ、と、止まって。で、また考えて。
 考えた所であいつの本心は分からねーかってことに気付いて苦笑い。
 「………考えるだけムダってことだよな」
 ようやく、結論に辿り着く。
 
 もうあいつに会わなきゃ良いだけだ。

 現場にはもう行かねぇ。
 また新しい現場探せば良いだけだ。
 なんなら新しい職種探せば良いや。
 怖い目に遭いたくなければ、逃げれば良い。
 それだけだ。
 アレ以来、そうやって逃げ回って来たじゃねーか。
 いつも通りにしてれば良いんだ。
 胸の辺りが少し痛んで、情けなさに、
 「…………ハッ…」
 笑ってしまった。
 「やめたやめた」
 ったく、辛気クセーっつーの。
 俺はアノ日、自分にとって一番の仕事場を捨てたんだ。
 今更何捨てたって大したことじゃねーだろう。
 もー帰る所も留まる所もねーんだから。
 一人。
 そ、一人で十分。
 誰にも何にも気兼ねしねーで生きられる。

 『………ン…ジ…』

 「…………ッ…」
 あーっっ、もー思い出してんじゃねーよ。
 ギュッと目を瞑る。
 耳に残った声を力尽くで追い出す。
 だーかーらー……アレは気のせいだっつーのっ。
 名前なんて呼ばれる訳ねーっつーのっ。
 自分で自分に言い聞かす。
 ベッドの中でジタッ…と暴れる。
 シーツの感触が裸の身体にまとわりついた。
 両手を自分の身体を抱き込むように胸の前で交差させて肩を掴み、そのまま二の腕を擦って、二の腕を掴み、指の腹に力を入れる。
 じっと息を殺して、自分の中の感覚に戸惑う。
 何だよ……コレ……
 放っとけば、勝手に思い出そうとしてくるあいつの顔を頭を振って、力尽くで追い出す。
 胸の辺りの不快感に、本気で気持ち悪くなる。
 何で、あいつのことを思い出そうとしてるんだよ。
 胸が……痛ぇよ……。
 「………一体………なんなんだよ……っ……」
 声に出したら、途端に余計意識し出した。

 あいつの顔とか、声とか、手とか。
 真面目な顔とか、アホっぽい顔とか。
 笑った顔とか。
 身体とか。
 「………ヤメロって……っ」
 考えたくないのに。
 止まらねェ………っ。
 変だ。変だよ。おかしーって。
 あいつは俺に何をしたか覚えてんだろ?
 あいつは俺に……手ェ出したんだぜ?

 ドンッ!!

 弾け出した記憶が、一瞬で俺を飲み込んだ。
 「……ッッ!!」

 …脱げよ。
 ………で?
 ……俺の服も脱がせ。

 俺の身体の自由を奪いながら、怖ぇくらいにチンコ勃たせて…でも、そんな興奮してたクセに、妙にドスの聞いた声で。
 フルッ…と身体が震えたら、ゾクッ…と、身体の芯が反応した。
 体中のザワザワした不快感と一気に襲いかかってきた記憶に、俺は自分の身体の変化にも気付かないでいる。
 ベッドの中で身体を丸めながら、昨夜のセックスの記憶を辿る。
 男に感じる身体は今更どうしようもない。
 どんなブサイクにヤられても、チンコさえデカければ、身体はイヤでも反応するようになっちまってる。
 ある程度、技のあるヤツだったら声も出ちまう。
 それでも、最後まで自分は見失わねぇ自信だけは持っていた。
 …そりゃ、一度感じ始めちまったら…ワケ分かんなくなる状態になっちまうことはあるけどさ…それでも相手のこと考えるなんてことだけは絶対しない。
 どんな目に遭っても、最後は向こうが勝手に満足して、限界が来る前には解放されてた。
 あいつのセックスは、全然次元が違ってた。
 チンコのデカさとか、張りとか…今までの一番とは言わねーけど、見た瞬間、パニック起こすぐらいにはスゴかった。
 強さは……段違いで……。
 最初の一回が信じられないぐらい早かったから、ああ早漏かって…どっかでホッとしてたら……とんでもない勘違いで…。しかも再生力が無茶苦茶スゴくて…。
 思い出しながら、無意識に腰の辺りをモゾモゾ動かす。
 ……ホントにアレは……スゴかった。
 悔しいけど………スゲェ……感じた。
 あいつのセックスは…なんだか…本気のケンカみたいで…ちょっとでも気を抜いたら…それこそ…そのまま…仕留められちまうんじゃないかって……他のどんな男より…本気にさせられた…セックスで………。だから…ホント…。
 ガツガツ突き上げられてた時、何かの拍子で固く瞑っていた目が開いた。
 俺を睨み付けている目と合った。
 思い詰めた表情はそのままだったのに……なんだか…もう何にも考えられなくなるような……凶暴な……エロさが……あいつの表情の上に…静かに…覆い被さってて……
 そんな顔見たら考えるより先に身体が反応しちまって…
 正直………その顔だけで一回イかされた。
 他のヤツ等と同じような乱暴しながら、時折思い出したように髪をそっと触るのは………ホント、反則だ。
 他のヤツ等と同じことをしてんのに……何かが決定的に違っていた。
 でも、俺にはそれが何だか分からなかった。
 分からないまま…何もかも…分からなくなった。
 
 最悪に……最高で……。
 怖くて。
 気持ち良くて。
 苦しくて。
 無限で。
 地獄で。
 辛いのに。

 ……もっと…もっと…………。

 

 

 ……俺はあいつを…欲しいと………思った。 

 

 

 

 気が付いたら、右手が自分のチンコを握ってた。
 まだ何にもしてないのに半勃ちだった。
 ヤメる理由も見付からなくてそのまま数回上下に扱く。
 「…………ん……」
 怖い。怖いよ。やっぱり怖い。
 ……でも……ただそれだけで片付けられない……自分でもよく解らない気持ちがあるのはなんでだよ…。
 なんなんだよ……。
 感じたことも無いような感覚なんだ。
 どうしようもないくらい怖いのに、あいつのことを考えている。
 ざわざわするし、どきどきしている。
 一体なんだよ。
 自分のことだっつーのに、分からねぇ。
 忘れりゃ良いのに、思い出そうとしてるしさ。
 逃げりゃぁ良いのに、頭が昨夜の場所に踏みとどまってる。
 俺は何を考えてんだ?
 ……つーか…コレは………一体何だ…?

 例えばコレが……

 

 恋とか言ったら……
 ………スゲー怖い。

 

 仰向けの姿勢で膝を少しだけ上げて、気持ち顎を仰け反らせる。
 曝け出すように足を開いて、勃ったチンコを柔らかく擦る。
 「…ふっ……ん…っ……」
 ジリ…ジリ…ッ…と痺れるような快感を焦らしながら時間掛けてゆっくり引き出し、身体に合わせて刺激を強くしていく。
 「うっ………あっ……」
 左手は、身体の届く範囲全部をユルユル指先だけで撫でていく。
 乳首とか、耳の後ろとか…腰骨辺りや太腿の内側なんかは特に念入りに摩っていく。
 「…っ!…ああ………」
 袋とケツの穴は少し強めに。入り口の周りを指で揉みほぐして、中指の根本まで抜き差ししながら埋めていく。
 身体が興奮していくに任せて、腰を振って腰を回す。

 『…それがいつもの姿勢か』

 「ううっ!…んっ!」
 低く腹の底に響いてきたあいつの声。
 「…は…っ……」
 乾いた唇を舌で濡らしながら、自分の吐息が一気に熱くなるのを感じる。

 『良い眺めじゃねェか…』

 「あうっ!!」
 腰まで響くチンコの痺れに身体が仰け反る。
 あいつの声が……
 ゾロの声が頭の中に残ってる……
 「うああっっ………っっ………」
 思い出す度、突き上げるような快感の波に飲み込まれる……っ……。
 「あっ…っ…はあっ…はっ……はっ……ううっ!ん…」
 人前で初めてオナニーさせられて…興奮していた自分を思い出しながらオナニーをするのは……信じられないくらい気持ちが良かった。
 ゾロの裸やゾロのチンコを思い出す。
 「クッ!」
 イッちまうのが勿体なくて、咄嗟に根本を固く握った。
 「はあ…はぁ…はぁっ…ん……ゾ………ウンッ!!」
 言いかけた瞬間、今までにオナニーしてて感じたことないくらいデカイ快感の衝撃が襲って来た。
 言いかけて、そんなのおかしーって我慢して…直ぐ…我慢出来なくなって俺はベッドの上で激しく自分のチンコを擦りながらあいつの名前を……口にした。
 「…ゾ……ゾロ……っ……!!!!」
 ドクンッッ!!!
 思わず全身がバウンドしてしまうような快感に飲まれながら。
 俺は…イった。

 荒い息の中、まだ足りなくて手を伸ばす。
 誰かを考えながらオナニーするのは生まれて初めてのことだった。
 「うっ……ああっ……ゾ…ロッ……ゾロ…ッ……」
 何度も何度も俺はあいつの名前を呼んだ。

 

 17

 top