【窓越しの掃除屋】

4

 


 「なんか眠たそうねェ…。ま、アンタはいっつも眠そうだけどね」
 「…うっせェ…」
 空島建設最大級の一大プロジェクト。
 晴海オーシャンシティ。
  四十階建、二棟式、百三十五メートルの高さを誇る、超高層マンションだ。
 現場の引き渡しを三ヶ月後に控え、現場内は急ピッチの作業が続いている。
 最上階の棟屋も完成し、足場のバラシも始まった。
 同じ鳶仲間のルフィと組んで、今は三日で一フロアーのペースで解体の作業が進んでいる。
 この、相方のルフィとは。俺は昔少年院にいた時に、知り合った。
 無実の罪を着せられた俺を唯一信じてくれた男だ。
 仕組みは良く分からなねェが、身体がゴムみてぇにどこまでも伸びる能力者だ。
 普通、一現場にいても精々一人ぐらいしかいない能力者だが、不思議なことにこの現場は履いて捨てる程能力者がウロウロしていやがる。
 ルフィの兄貴のエースは溶接屋。
 なぜかいつも半裸の電気屋、エネル。
 何屋か良く分からねェ面白トナカイ。
 警備員のチャカとペルは、時折妙な生き物に変身しているし、『親方』じゃなくて『オヤビン』だって言って聞かないデカい顔の男は、ノロノロと家具を設置している。
 クロコダイル率いる、バッファロー・D(土工)・ワークス社に至っては、会社のトップクラス全員が能力者じゃねェかって勢いだ。
 クロコダイルの助手のロビンに至っては、すました顔して現場の実体を誰よりも掌握しているって話だ。
 壁に(ロビンの)耳あり、障子に(ロビンの)目あり…
ってところだ。
 設備屋のウソップの鼻は……能力っつーか、体質だ。
 飯場の料理長にして、本業は測量士ってとんでもない合わせ技を使って来るナミは、能力っつーよりは暴力だ。
 まぁ、とにかく。あそこまで低姿勢の現場監督は知らねェってぐらい、腰が低いパガヤのところに、よくもここまで集まったモンだと内心驚いてはいる。
 「…バカねぇ。そんな、ウロウロしないで大人しく新宿駅に出てれば良かったのに」
 「金がなかったんだよ」
 「結局コンビニで下ろしたんでしょ?」
 「…まぁな」
 「だからバカって言うのよ。そもそもアンタが知らない場所で一人で歩いて帰れる訳がないじゃない」
 「ンなことねェよ」
 ナミがびしっ、と、菜箸で俺の鼻を刺す。
 「ンなことなかったらっ」一言一言区切るようにナミが続ける。「一時間も歩けば、道間違えてるのぐらい気が付くでしょッ。まーったくっ。新宿と高円寺だったら大した距離じゃないでしょうがっ」
 お金の無駄よーっっ!!…って…あのなー……
 「俺の金なんだからどう使おうが勝手だろうがッ----イテーッッ!!何すんだよっっ!!」
 この女はーっっ!!
 分厚い業務用のまな板を構え、般若の顔でナミが吠える。
 「他人のお金でも無駄に使われるのは嫌なのッッ!!」
 これだから守銭奴って言うのは煩い。
 「説教なら後にしてくれねェか?メシがマズくなる」
 「…………」
 思いっ切り嫌な顔をした後、ナミは黙って料理の仕込みを始めた。
 暫くはズルズルうどんを啜る音と、時折俺の鼻を啜る音だけが飯場の中で聞こえていた。
 「…ねぇ…」
 かき揚げの種を油に落としながら、ナミが声を掛けてきた。
 「……ん?」
 「この前アンタ、サンジ君助けたでしょ?」
 「ああ」
 「あの一件で、左官屋がアンタのこと狙ってるわよ」
 「みてェだな」
 「…なんだ知ってたの?」
 「アレで分からなかったらかなりな鈍感だろう」
 掃除屋のサンジの強姦の話は、水面下でかなりな範囲に広がってしまった。
 パティやカルネ並のデッサンの狂ったヤツ等ばかりがひしめく現場だ。女の数は絶対数が少ない上に、ナミやロビンに手を出せば、逆に自分の命が危ない。
 ナミは鉄パイプの使い手だし、ロビンに至っては、変な能力を使って来る。見たことはねェが手が物凄いらしい。
 二人に掛かれば骨を狙ってくるから、ヤられたら最後、仕事の復帰が危ぶまれるに違い無い。
 その他の女って言ったら、せいぜい昼休みにヤクルトを売りに来る、ナミの友人のビビぐらいだろう。
 警備員のバカ二人が、ビビの熱狂的なファンだから、下手に手を出した日には、冗談抜きでブッ殺されるに違い無い。
 少なくともこの現場で女が被害者になるのは難しいだろうな。
 現場は、一日に大人数が出入りする。
 例えばこの現場のクラスともなると、三百人は軽く超えている筈だ。
 現場内には地方からの労働者が長期滞在出来るようにするために、宿泊施設も充実している。
 野郎ばかりがムサ苦しい所に長居していれば、困窮して来るのは女日照りだ。
 最初は雑誌。その内ヘルス。ナンパで女が手に入れば良いが、結局それも難しい。なんせ現場で働くと、一日中重労働で身体が疲れ果てて訳が分からなくなり、突然発作的に無茶苦茶に激しいセックスがしたくなる。
 それこそ、アソコを突き壊すような勢いだ。
 上手くナンパが出来ても、普通動物じみたセックスばっか強要したら、つかまえた女も逃げること間違い無しだ。 それにホテルでヤっている内は良いが、その内絶対に現場の中に女を連れ込むようになる。
 マス掻きですえた匂いの充満する部屋で、誰かの目にさらされながらセックスなんてマニアな女でも無い限りあり得ない。
 それに、ヤったら最後だ。
 姦されるのは避けられない。
 女ってだけで、危険なこと、このうえないのが現場の実情。最後には警戒されて、そう簡単にまわりでナンパも出来なくなってしまうのだ。
 現場の男にとって、勃起したブツを満足させるのは、冗談抜きで切実な問題なのだ。
 女を買うのは難しいし。
 そうなってくると、相手がどうとか言ってられない。
 手短な相手を探しちゃ処理をする。
 つまりは、現場の男と、ヤる。
 だ。
 別に珍しいことじゃない。
 男同士の共同生活に慣れてくると、寝床でオナニーぐらいなら隠したりもしなくなる。
 そのうち見せあうようにもなってくるぐらいだ。
 ブツのデカさを競ったり、早打ち、距離打ち、他人に弄られ遅出しの競争…なんて言うのも始まってくる。
 俺?ああ、やったよ。
 んーなの、当たり前だ。
 あのルフィですらやってたしな。
 んな、有り余ってる余力を発散しない方がどうかしている。
 相互オナニーに発展するのはすぐ。
 『おい、前立腺って知ってるか?』
 と、ヘルスで学んだ知識を持ち込む男まで出てくる。
 見よう見まねで肛門にローションで濡らした指を恐る恐る突っ込む。
 『……っ!!っぁああっ!!』
 最初は気持ち悪がっていた男が、突然反応を始める。
 『え?なに?コレ良い?なぁ?』
 『いい…からっ…もっと……んんっっ!!』 
 身体を仰け反らしてイきまくっている、クジで負けた男の反応を固唾を飲んで全員で見守る。
 『…おい…っ…バイブもあるぜ……い、挿れてみるか』
 快感を知った男は怯えながらも期待の眼差しでバイブを凝視したまま小さく頷く。
 『っっっ!!!』
 後は、もう駄々滑り。
 愛がなくてもセックスなんて、幾らでも出来る。
 そんなモンだ。
 両方?
 …ああ。別に嫌いじゃない。
 環境に慣れてしまえば後はこっちのモンだ。
 女はたまに買えば良くなってくる。
 たまにナンパ出来れば良くなってくる。
 現場の行程が終盤に差し掛かる頃、男同士のセックスは華僑を迎える。
 性欲なんていっくらしたって満足出来るモンじゃ無い。身体が満足してくると、今度は段々と贅沢なことを言うようになってくる。
 現場で宿泊していない、通いの職人の品定めが始まる。
 小柄で見た目が良く、少しでも、こ綺麗な男を探しはじめる。
 一旦白羽の矢が立ったら最後。
 どこかの部屋で、襲われるのだ。
 時には、数人の男に組み敷かれ、身動きすらとれないまま、何時間も姦されることもあるぐらいだ。
 男のレイプも、誰に相談出来るモンじゃない。
 嫌なら、自分で自分を守るしかない。
 そんなのは、当たり前だ。
 ……俺があの時左官屋をブッ潰したのは、はっきり言って反則だった。
 無防備なのも悪いし、見目が良いのも悪いし、男を興奮させてしまったのもアイツが悪い。
 本来は俺が手を出すモンじゃなかった。
 「………っ…」
 だが、俺はあの掃除屋を助けずにはいられなかった。
 (………なんでだ………)
 寄ってたかって卑怯だからか?
 ンな訳ねーだろ?
 混ざりてェとか思ったじゃねェか。
 そうさ、俺はあの時確実に半勃ちで暴れていた。
 誰にも気付かれなかったが、ルフィにだけは気付かれていた。
 『なんだ?ゾロ、アイツ気に入ったのか?』
 ルフィにそう言われて、返事が出来なかった。
 乱暴にブチ込まれて、裂けた肛門。
 真っ白な尻に流れていた鮮血。
 強ばった身体。
 震えていた太股。
 「……………ゾロ?」
 …欲情………してたのか…?………俺は……
 快感に歪んだ、不思議な形の眉。
 窓越しで…聞こえなかった……喘ぎ声……
 ………聞きてェ………のか……?……俺は………
 あの左官屋と同じじゃねェか。
 それなのに、どうして止めた?
 襲いたいヤツは襲えば良い。
 弱いんだからヤられちまうのは仕方が無い。
 なのに……なんでだ………?
 「ゾロッ」
 突然現実に引き戻れた。焦点を合わすと、間近にナミの心配そうな顔が見えた。
 「……ん?」
 「大丈夫?」
 「………ああ。大丈夫だ」
 「気を付けてね」
 「……何を?」
 「左官屋の連中よ。何?今そのこと考えてたんじゃ無いの?」
 「………ああ、そうだったな」
 左官屋の雑魚は大したことは無い。
 一人、同じような喧嘩をしたがる、やたらと唇が分厚くて首の太い自称『ナンバーワン』が手強いが、あいつは端からこういったことには首を突っ込んでこないからな。
 衝突したところで、また喧嘩すりゃ良いだけだ。
 負ける気もしねェしな。
 「心配するな」
 「………本当に?」
 ナミがまだ心配そうな顔をしている。
 仕方が無いから言ってやった。
 「俺はそんなに弱い男か?」
 暫くじーっと見つめられた後、ようやく笑顔を見せて、オレンジ色の髪を指で梳いた。
 「…ま、そうね。アンタが勝てないのは、親方さんくらいよね」
 「ああ…でも、もう負けねェぜ。アレが最後だからな」
 ニヤッと、笑って見せる。
 「俺は、ルフィにも誓っちまったしな」
 「………そうね」
 「でも、だから心配なんだからね」と、ちょっと困ったようにナミは笑った。
 「さて…と、んじゃもうじき昼だし昼寝に行くかな」
 「あんたねー」呆れたようにナミが言った。「普通、昼休みって一時間よ」
 「まぁな」
 なんせ、相方のルフィが朝飯食いそびれたって、半泣きで開店の十時を待って、最近出来たばかりのバイキングの店に走ってったからな。
 「のんびりしてんだよ。俺達はさ」
 ごっそうさん。
 パンッと、両手を合わせ頭を下げる。
 「ね、ゾロ」
 立ち上がった俺に、ナミの声が追ってきた。
 「ああ?何だ?」
 「ゾロって、どうしてサンジ君助けたの?」
 それは、俺が知りてェよ。
 「……さぁな。俺にも良く分からなねェよ」
 俺は飯場を後にした。
 
 「………これで良い?サンジ君」
 ナミが大きな冷蔵庫の裏側に声を掛ける。
 「……………うん…」
 ひょこ…と、金色のサラサラとした髪をした小さな頭が顔を出した。
 「こんなに早くゾロが一人にいるチャンスが来るなんて思わなかったわね」
 「…そうだね」
 細い身体の線を少しでも隠すようなパーカーをざっくりと被り、太めのルーズジーンズを上手に履きこなしているサンジが狭い場所から身体を出した。
 「ごめんね。アイツ、忠告あんまり聞かないタイプなんだよね」
 「いいんだよ。情報だけでも流しておけば警戒ぐらい出来るよ。ありがとうナミさん。ごめんね、こんな忙しい時に変なお願いしちゃって」
 くるっと巻いた眉を情けなく下げて、ペコリと頭を下げる。
 一つ一つのサンジの動作は、女性的ではないがどこか可愛い。
 顔を上げたサンジにナミは目を合わせる。
 「それより、そんな情報聞いたんだったら、サンジ君も気を付けてね」
 「うん。分かった。でも大丈夫だよ。今度は油断しないから。あのねナミさん、本当はオレ強いんだよ」
 そう言って、ふんわりとサンジは笑う。
 思わずドキリとしてしまうような笑顔にナミは驚いた。
 (いやだ…この子可愛い…)
 「ね、サンジ君」
 「ん?」
 「本当、気を付けてね。人のこと心配するのも良いけれど、左官屋さん達、危険だから。良く知ってるでしょ?」
 サンジは視線を泳がせそっぽを向くと、小さな声で「うん」と、頷く。耳と頬がほんのり赤い。
 危ない…と、ナミは思った。
 (危ないわこの子…自分が分かってないんじゃないかしら)
 こんな無防備に、現場で笑うこと自体、危険だと言うのに。
 自分のことを知らなさ過ぎる。
 「でもね、報復はするよ」
 こんな細い身体であんな男達に立ち向かえることなど出来る訳もないのに。
 「サンジ君、無理しないで」
 心配そうに忠告するナミに、サンジはもう一度、柔らかくふんわりと笑った。
 「うん。ありがとう。気を付けるよ」
 信憑性の欠片も感じない約束。
 「ナミさん」
 「…え?なぁに?」
 「うどんの汁、煮干しの頭と内臓は取った方が良いよ」
 大きな寸胴を指差して屈託なくサンジは笑う。
 






 左官屋は、水面下で動いていた。
 サンジに気付かれていたのは、氷山のほんの一角。 

 あの一件から二週間。
 骨折した数人を除いて、ようやく面子が集まった。
 『……良いな今度は抜かるなよ』
 『……ああ……』
 左官屋の詰め所で男達が相談をしている。
 『あの上玉をむざむざ諦める理由が見つからねェ』
 『だったら先ずはあの三刀流のゾロから始末だな』
 『三刀流?……ああ、あのラジェットな……』
 『アイツ、口に銜えたラジェットで、降り下ろしたパイプ跳ね返したぜ』
 『ああ……ありゃ、化け物ンだな』
 『あいつもサンジを狙っているに違い無い』
 『そうだな。アイツ尋常じゃなかったもんな』
 『気をつけろ』
 『…先ずはどうする?』
 『…ナミだ』
 『……ナミ?あの飯場のナミか?』
 『バカッ…声がデケェよ…』
 『わ…悪ィ…』
 『でもよ…ナミって言ったら一筋縄じゃ行かねェぜ?』
 『だよな。あの女自身、腕が立つしな』
 『だからよ……俺に良い考えがあるんだよ……』
 ナミを襲え。
 いくら腕が立つと言ったところで相手は女だ。
 なんなら全員で襲えば良い。
 『…まぁ…確かにあの女、胸デケェしな…』
 『ああいう女って言うのは、締まりも抜群だったりするんだよな』
 『女で言えば上等だしな…』
 男達が頭を突き合わせ下品に笑う。
 左官屋達はサンジもナミも両方欲しい。
 『ナミはゾロの昔の女って話だぜ』
 『ああ…なるほど……だからか……』
 『呼び出せば、どこでも来るだろうよ。あのマリモ頭はよ、意外に律儀な男だって言うしな』
 『なぁ…』
 一人、男が不安げな顔を見せた。
 『本当に大丈夫だと思うか?』
 いかにも短絡な男が鼻息を荒くする。
 『当たり前じゃねぇかっ』
 『暴れたら、ナミを盾にすりゃ良いんだよ…』
 その前に、十分味わってからな、と、リーダー格の男は笑った。
 『これから段取りを話すぞ…しっかり頭に叩き込めよ』
 屈強な左官屋達の声は更に潜まった。
 
 「……………」
 
 砂の中の瞳が細まる。







 大きい現場は就業規則が徹底される。
 「すみません…こんな時間に放送しちゃってすみません…もうじき六時になります…すみませんが、もう帰る時間です…すみません……」
 現場の行程が順調である限りは、残業は基本的に認められない。
 高層建築と言うのは、地域住民に理解して貰えねェようじゃ成功はしない。
 マンション建設反対の横断幕がビラビラ貼っているような現場は、組がしっかりしていないのも理由だと俺は思っている。
 最近は住宅街でのマンション建設だと、着工前に組の監督が近隣住宅に挨拶まわりをして回るぐらいだ。
 早朝、深夜の騒音は最も住民から嫌われる。
 こっそり息を潜めて作業するならまだしも、掘削機であちこち掘り起こしているようじゃ話にならない。
 現場末期で引き渡しが近付いてくると突貫工事も避けられないが、出来る限り残業無しにしたいのは、組の切実な願いでもある。
 大きな現場になればなる程、現場で発生する騒音はデカクなっていく。トラブルを避けるには、時間厳守で作業を終了するのが最も得策なのだ。
 「すみません、もう帰って下さい。生意気言ってすみません」
 しかし、ここの現場監督は謝り方が過剰だ。
 きっとどっかの現場で謝り続けていたんだろう。
 「ゾローっっ!!」
 足場板の向こう側からルフィが叫んだ。
 「時間だってよー」
 「おおーっ」
 キリの良い所まで作業を終わらせて、手摺に張り巡らされているロープに掛けていた案全帯のフックを外し、足場から塀を乗り越え廊下に降り立つ。
 「ふぇーっっ腹減ったー」
 「だな。どうする?メシでも食いに行くか?」
 途端にルフィの目がキラキラと輝き出す。
 「やったぁぁっっっっ!!肉ーっっ!!」
 力一杯両手を天に突き出して、全身で喜んでいる。
 「安楽亭な」
 「おうっっっ!!!」
 んじゃ、オレ、先に行って待ってるからなー、と、返事を待たずに飛び下りて行った。
 「…ったく…しょうがねぇなぁ……」
 さ、早く降りねェと、大騒ぎされるからな。
 「一緒にエレベーターで降りろって…」
 西エレベーターはどっちか悩み、取りあえず右側に歩いて行く。
 無意識にラジェットをギチギチ鳴らしながらエレベーターの到着を待った。
 「すみません…もう時間です…みなさん作業を終了しましょう…すみませーん」
 却って文句を言われそうなしつこさだ。
 コソコソと胸を張って部屋内に消えていくエネルを途中見掛けたが、一先ずは見なかったフリをした。
 どうせアイツのことだから、思い出し笑いの声のデカさで組の見回りに見付かるだろう。
 電気屋って言うのは、大工とボード屋とクロス屋が入れ代わる僅かな時間の中で作業を進める。ま、アイツはアイツなりに、苦労している -----
 「ヤーハハハハハッッッ」
 ----- 気がしない……。

 ようやく上がってきたエレベーターに乗り、一階のボタンを押す。
 「ふぅ…」
 歌舞伎町に行くか行かないか……。
 昨日の女のことを考える。
 行っても良いし、行かなくても良い。
 ただ、人肌は恋しい…ような気がする。
 不思議なモンで、俺はセックスを覚えてから誰かと身体を密着させるのが好きになった。
 裸で抱き合うと、自分の体温が相手の身体に流れていくような気がするからだ。
 冷たい肌が、自分の体温で温かくなっていくのが無性に好きだった。
 しっかりと胸に抱き込み両手でがっしりと自由を奪う。
 大抵は俺の方が体温が高い。
 『温かいね…』
 安心したように言われると、ひどくホッとする自分がいることに気が付く。
 理由はやがて分かった。


 あの日、二度と温かくならない肌を知ったからだ。


 手に触れる全てを暖めたいとどこかで思う。
 仕事場で手に触れる鉄パイプですら暖めたい。
 寒い冬に、小柄な身体を抱き締めるのが好きだ。
 相手は大抵身体を冷え切らせている。
 わざと約束の時間に遅れて行った。
 待たせれば待たせる程、相手の肌は冷たくなるからだ。
 無言で相手を抱き寄せる。
 冷えた身体に自分の体温が流れ込んでいくのを密かに味わいながら、
 『待たせたな…』
 罪の意識に怯えながら。
 「……どうするかな……」
 行っても良い。
 …今日も……行くかな……。
 ぼんやりとそんなことを考えていた時だった。
 『鳶屋さん…』
 背後からロビンの声が聞こえた。
 驚いて振り返ると、壁から形の良い唇が現れていた。
 『こんばんは。お仕事お疲れ様』
 ルフィ以外の能力を見るのは初めてだ。
 壁から唇だけ飛び出しているのは気持ちの良いモンじゃねェな。
 「ロビン…だな」
 『ええ。驚かないのね…』
 「ルフィがいるからな」
 『フフ…そうね』
 「これ、お前の唇か?」
 『ええ、そうよ』
 「…じゃ、本体は口無しか?」
 『まさか…』
 直後、思わず声を上げてしまった。
 ほんの一瞬だったが、エレベーター中にびっしりと無数の唇が出現した。
 『数は望むだけ出せるけど?』
 「……イヤ…一つで十分だ。で、何の用だ?まさかコレを見せるために来たって訳じゃねェよな」
 『ええ…そうそう。ちょっと嫌な噂を耳にしたから、鳶屋さんには教えておこうかと思って』
 ゆったりとした口調からとんでもない情報が流れる。
 「……おい、本当か?」
 『ええ…直接見聞きしたから間違いないわ』
 「どこにナミを?」
 目の前に何の前触れもなく手が突き出される。
 『はい』
 握られた手を開き、ロビンは俺に一つのカギを渡した。
 『マスターキーよ。監督さんから借りてきたわ。どこの部屋かは今探しているわ。分かり次第教えてあげる』
 一階に辿り着いたエレベータから降りると、建物全体から奇妙な音が聞こえてきた。
 パチパチパチパチ………ッッ
 何かが開いて閉じる音のような感じがした。
 無数の数が重なり合ったような音だった。
 『…見付けたわ』
 手の甲の違和感に目を向けると、そこにはロビンの口があった。
 反射的に沸き上がる気持ち悪さを咄嗟に飲み込む。
 『気持ち悪くてごめんなさいね…』
 しっとりとしたロビンの声がどことなく傷付いているんじゃないかと思った。
 「いや…こっちこそすまない」
 『……優しいのね。さ、鳶屋さん、測量士さんは三十階のFタイプの部屋よ。そこに掃除屋さんもいるわ。…彼、彼女を必死で守っているわ』
 「掃除屋が?」
 どうして?と、聞こうとする前にロビンの鋭い声が制した。
 『さ、急いで。時間がないわ』
 俺は頷くと、ロビンの唇にそっと触れた。
 「ありがとう」
 俺一人では気付けなかった。
 『いいから急いで。私はこれからルフィを呼んでくるから』
 「ああ、頼む」
 『…鳶屋さん』
 ロビンは言った。
 『腑甲斐無い社員達のせいで…本当に許してね』
 ロビンはクッ…と、唇を堅く引き締めると、俺の手の甲から消えてしまった。
 「…こうしちゃいられねェ」
 急いで振り返りエレベーターのボタンを押そうとして、
 「………チッ…」
 既に電源が切られていることに気が付く。
 迷っているヒマはない。
 俺は階段の入り口を睨み付けると、大きく息を吸って、全速力で走り始めた。







 一気に階段を掛け昇る。
 心臓が信じられねェ早さでドクドク騒いでいるが、そんなことなん気にしちゃいられねェ。
 ひたすら上を見上げて走る。
 走る。
 走るっ。
 「っ…はあっ…はあっ…はあっ…」
 空気が足りねェっ。
 咽を全開にして酸素を取り込む。
 足の重みも気にしちゃいられなかった。
 ナミッ!
 ナミッ!
 何度も心の中で叫びながら階段を掛け昇る。
 テメェ等っ!!ナミに何かしたらその場でブッ殺してやるっっ!!
 二十二階
 二十三階
 二十…四階…っ。
 頼むっ掃除屋っ…ナミを守ってくれ…っ!!
 二十五…階…っ
 二十…六……階……っ
 二十七階……
 お前は……俺が守ってやるから……っ…
 二十八階。
 二十九階。
 「きゃぁっっっっ!!」
 「ナミッッ!!!」
 最後の階は昇ったことすら分からなかった。
 「ナミーーーーっっっ!!!」
 声の限りにナミの名前を叫んだ。
 「ゾローーーっっ!!」
 悲鳴のようなナミの声が、重なるように帰って来た。
 「待ってろっ!!今行くっっ!!」
 声のする方に一足飛びに駆け寄った。
 ドアに掛けられたカギに理性がキレる。
 「ナミーーーっっっ!!!」
 力の限りにドアを蹴り破った。
 マスターキー?
 そんなモン知らねェッッ。
 掃除の終わった直線の廊下を走り抜け、リビングに飛び出す。左側の和室の畳の上にナミが男達に羽交い締めにされていた。
 「ゾロおッッ!!!」
 普段絶対に泣かないナミが、泣き叫ぶ。
 「サンジ君がっ!!」
 ナミが顔を振って指し示した先には、胸を押さえ、苦しそうに息をしながらも次の攻撃をくり出そうとしている掃除屋の姿があった。
 「大丈夫かっ?!」
 掃除屋はチラッと俺に視線を向けると、顔を少し歪めるような笑顔を見せた。
 「…ああ…ナミさんは無事だ」
 「サンジ君…がっ…アタシを庇って…っ…」
 背中にナミの悲痛な声が縋り付いてくる。
 「……テメェら……ナミを離せ…」
 殺されたくなかったらな……っ!!
 
 自分の中からうねるような感覚が沸き上がって来るのを遠くに感じた。
 それが、自分の中に自然に存在していたモノだったのが分かった。

 何か武器が欲しい。

 何でも良い……いや…違う。
 
 ナミを羽交い締めにしている男を睨んだ。
 「………ヒッ…」
 男が怯えたように身体を竦ませる。
 「………ナミを……離せ……」
 感覚の深いところからうねり上がる感覚に理性が焼かれていく。
 武器が……欲しい……。
 俺は今なら…この感覚で……人も殺せる……。
 気付いたら、自分の中のこの感覚が殺意なんだと本能が理解した。
 殴り殺す。
 蹴り殺す。
 噛み殺す。

 …………いや……どれも違う……。

 …殺す………。
 ……コロス……
 ……キリ…コロス………

 (…………ああ………そうか………)
 
 自分の中で、長いこと見付からなかった答えを見付けた瞬間だった。

 口元が緩やかに持ち上がるのを感じながら俺は言った。
 「…もう一度だけしか言わねェ……テメェ等…ナミを離せ……」
 そしてそのまま…後から後からうねり沸き上がって来る殺意に意識をダイブさせた。



 そこは、ひどく心地の良い場所だった。





 
 怯え切ったナミを後から来たルフィに運ばせた。
 目を閉じて呼吸を整える。
 ゆっくりと…暴れ狂っていた感覚が、自分の深い場所に隠れていくのを見送った。
 暴力的なセックスをした後の気分と少し似ているのがおかしかった。
 「……大丈夫か?」
 全てが終わり、崩れ落ちるように蹲った掃除屋に声を掛ける。セックスをした後に、女に掛ける言葉と同じだな…と、思った。
 「ああ…大丈夫だ……」
 か細い声で掃除屋は言った。
 近付いて手を取ると、驚く程に冷たかった。

 ……………………死ヌノカ…?

 途端、押さえ切れない不安に押しつぶされそうになる。
 「…っっっ……!!」
 咄嗟に胸の中に掃除屋を抱き込む。
 「離…せっ……ううっっ!!」
 痛みに身体を動かせないのを良いことに、俺はしっかりと掃除屋を抱き締める。
 細い身体は頼りなかった。
 冷たい肌に身体が震えた。
 腕の中で、力無くもがく抵抗感を全身に感じた。
 「…………死ヌナ……」
 言いたくて…言えなかったあの日の言葉を口にする。
 
 (死ぬな…死ぬな……頼むから死なないでくれ……愛しているんだ………)


 くいな……。

 「………死ぬ訳ねェだろ…クソバカ……」
 
 なぜか…ひどく怯えた口調で、掃除屋は悪態をついた。
 「…死ぬな…っ…」
 「……だから…死なねェって」
 電気の落とされた現場の中、殴り倒した左官屋のヤツ等の血の匂いに囲まれて、強ばる掃除屋の身体をしっかりと抱き締める。
 どのくらいそうしてただろうか…掃除屋が、もがき逃げ出すのを諦めた。
 ああもう…っ…しょうがねェなぁ……と、困ったように呟くと、腕の中の掃除屋はぎこちなく、俺の腕の中で身体の力を抜いた。

 長い時間を掛けて、俺は自分の体温が腕の中で大人しくしている掃除屋の方に流れていくのを感じていた。
 「………あったかいな…」
 小さな溜め息と一緒に掃除屋が呟く。
 「………ああ…」
 俺は、顔を埋めるようにしながら更に掃除屋を抱き締める。
 「…っっ……痛ぇよ……」
 「………ああ……」
 「だったら離せって…」
 「………嫌だ……」
 掃除屋からは血と埃の匂いと混ざって、柔らかな、安心させるような匂いがしていた。
 急速に、先刻までの殺意が消える。
 何度も何度も。
 掃除屋の匂いを探して、深く吸う。
 「………良い……匂いだな……」
 「…………オロスぞ…」
 
 やがて、俺達の体温は完全に混ざりあった。

 腕の中の存在が、生きているんだと実感するのはなんだかとても……気分が落ち着く。
 




 ロビンの活躍で俺は罪には問われなかった。
 入院している左官屋の若手連中は、もう二度と現場には戻って来ることはないだろう。 
 そして肋骨を四本骨折した掃除屋は、驚くことに一週間後には現場に戻ってきていた。

 知れば無類の女好きで、ナミに懐いて飯場にしょっちゅう出入りしているって話だ。
 時折料理の味付けを手伝うそうで、
 『サンジ君の手伝ってくれた日って、何だか売り切れが物凄く早くなるのよねっ』
 と、嬉しいんだか悔しいんだか女心に複雑らしい。

 「よお」
 「おう…」
 今の俺達って言ったら、せいぜいこんな会話ぐらいだ。

 歌舞伎町へはあの日以来一度も行っていない。
                   


 続く。

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