【窓越しの掃除屋】

7


  仕事帰りに捕まえたタクシーの後部座席に身体を預けたまま考える。

 アイツとは関わらない方が良い…。

 理屈でどうこう考えるとかじゃなくて、本能的にヤバい気がする。
 別に、何をされたって訳じゃ無い。
 つーか俺、二度も助けられてるし。


 (………ゾロ…)


 ぼんやりと窓から外の景色を眺めながら頭の中で名前を呼んでみた。
 途端にアイツの姿がリアルに浮かぶ。
 鳶屋のゾロ。
 服の上からでも分かる筋肉質の身体。
 多分身長なんて俺と大して変わらないはずなのに、妙にデカく見える。
 太い首、デカい手。
 軍手、ラジェット。
 鍛えた身体。特に背筋。
 無理矢理一言で言うんだったら…物騒な身体。
 短く刈り込んだ…え?それ、どう注文すりゃそんな髪型になるんだよ?ってぐらい普通過ぎて誰もしないような短髪。滅多に見ない緑色。
 それから……そう…あの顔。
 一度見たら忘れられないような印象的な感じがした。
 怒った顔と笑った顔と…それ以外は上手く出来ないような不器用な感じ。
 頑固そうな無表情。
 アイツ、きっとツラ構えで随分損してるに違い無い。
 感情的にも不器用そうだし。
 我慢出来ないぐらい激しい感情をひた隠しに隠しているうちに、表現出来なくなったガキみてぇな感じがする。
 きっとアイツも消化不良のトラウマ抱えて生きてるんだな。普通のヤツ等みたいに、心のマイナス部分と上手く付合うことが出来ないタイプに違いねェ。
 だって、あの抱き締め方は尋常じゃ無かった。

 「お客さん…取りあえず左で良いですか?」
 「あ、うん。…んで、そのまま練馬の方まで行っちゃって」
 「分かりました」

 …あの抱き締め方は尋常じゃ無かった……。


 左官屋の若手バカ連中にナミさんが連れ去られたのを追い掛けて、返り打ちに遭った時。
 俺、昔喧嘩でアバラ骨折ったことあるから、普通の人より折れ易いんだ。でもって、困ったことに自分の弱点だって分かっているから、無意識に庇ってしまうクセがある。
 若手バカも、喧嘩だけはギリギリなんとか頭を使えるらしく、俺が胸を必要以上にガートしているのに気が付きやがった。
 集中攻撃食らって、嫌な音と共に骨が折れたのが分かった。
 息が出来なくて、悪い汗が一気に吹き出る。
 ぴくりとも身体を動かせなくなる。
 『っ…くっ……』
 歯を食いしばっても呻き声が漏れてしまう。
 本当はもう戦える状態じゃなかった。
 でも。
 あの時、俺はどうしても守ってあげなきゃならない人がいた。
 『サンジ君っっ!!』 
 …まるで自分の骨が折れてしまったみたいな悲痛な叫び声。
 『放してっ!放してよっ!!』
 馬鹿デカい左官屋二人に羽交い締めされたままの姿でナミさんは暴れた。
 『動かないで…っ…くっ………大丈夫…だから』
 ケガするから、って続けたら、ナミさんは大きな目一杯に溜めていた涙をボロボロ溢して泣いてしまった。
 嫌がる女の子にとんでもねェことしようとするヤツは最低だ。ましてナミさんに手を出すなんざ百万年早い。
 『いーからもうヤッちまえよ』
 雑魚がニヤニヤと笑いながらナミさんを羽交い締めにしている男二人に声を掛ける。
 『おう、そーだな』
 今にも口から涎を垂らしそうな顔で、一人がナミさんのシャツを引き千切ろうと手を掛けた。
 『ウグッッ!!』
 男の顔面目掛けて、自分の体重全部掛けて横蹴る。
 靴の踵が上手い具合に男の鼻にヒットした。
 ミシッッ!!…と、アバラが嫌な音を立てる。
 『……っ……』
 肩で息をしようにも肺に空気も入れられない。
 激痛の中で、最悪のことを想像しながら。
 でも、ナミさんだけは絶対に守り通す覚悟で。
 『……汚ねぇ手で…ナミさんに触んな…』
 痛みに崩れそうになる身体を気力だけで立たせ、必死の普通顔で、震えて仕方が無い声に出来る限り力を持たせて言った。
 こんな俺でも、いつも笑顔で飯場に迎え入れてくれるナミさんをどうしても守りたかった。
 自分に限界が近いのが分かっていたからこそ、ナミさんには少しも傷付いて欲しく無かった。
 後一度か二度しか出せないかもしれない攻撃だけで、ナミさんを男達から解放させて、全力で走って逃げてもらいたかったから。
 あの時の俺は一緒に逃げる力はもう残っていなかった。
 痛みに挫けそうになりながらも、ナミさんを逃がす最後のチャンスを探っていた時、
 『ナミーーーーッッッ!!!!』
 ……アイツの声が耳に届いた。

 「……………」
 タクシーのシートに身体を沈めて、流れていく外の景色を眺めながら、こっそりと身体を震わせる。
 …今思い出しても……怖くて身体が震える。

 ドガァァァ!!!!
 一気に蹴破られた、玄関の分厚い頑丈なドア。
 『ナミッ!!』
 一足飛びに部屋の奥まで駆け込んできたゾロ。
 『……テメェら……ナミを放せ……』
 なぜか俺まで一緒にヒク…ッ…と、咽を鳴らしてしまった。
 まるで…一階から三十階まで一気に駆け上がって来たのかよ?って感じに荒々しい呼吸をしながら、ナミと俺を見る。
 『ゾロぉっっ!!……サンジ君がっ…サンジ君が…ぁっ…っ!!』
 緊張の糸が切れたみたいにナミさんが泣叫んだ。
 ああ…ナミさんの彼氏って…ゾロだったんだ……って、ふと思った。
 『大丈夫か?!』
 『…ああ……ナミさんは無事だ』
 『サンジ君…がっ…アタシを庇って…っ…』


 ……こうやって、何日も経った今でも忘れられない。


 『…………テメェら……』
 ゼフだって出さないような、低く、くぐもった憤怒の声で呟くと、ゾロの顔から一切の人間味が無くなった。
 『ナミを……放せ……』
 思わずアバラの痛みも忘れてしまうような張り詰めた空気。
 『うっ……うるせぇっ…っ…』
 ナミを押さえ付けている男の一人が強がってみせる。
 すると、ゾロの気配が全て消えた。
 『………そうか…』
 目がスウッ…と、細められる。
 俺は………指一本……動かすことが出来なかった。
 ゾロの動きは、とても自然だった。
 睨み付けるような強い視線でも何でもなくて。
 逆に…凄く場違いなんだけど…ゼフが新しい料理を完成させる直前の目に…とても似ていて…。
 何かが起きる予兆みたいで。
 ゾロが息を吸う。そして、息を吐く。僅かな時間、呼吸を止めて。
 ゾロが、カッ、と、目を見開いた。

 (------ !!!!! -----)

 その瞬間。
 俺は、ゾロの周りに『何か』を見た。
 闘気とか、殺意とか。
 形にしようっつっても、絶対形に出来ないような『気』をゾロは全身から吹き出させた。


 「……さん……お客さん」
 「……………」
 「お客さん」
 「え…?……ああ…何?」
 「練馬まで来ましたけど。どうしますか?」
 「ああ……そうだね…じゃ、豊玉陸橋で左に曲がって」
 「はい」
 「で、信号二つ先のファミレスの前で止めて」
 「はい」


 見境無しに暴れるゾロは、無茶苦茶強かった。
 何人も同時に飛び掛かって行っても、全員が半殺しになるまで返り打ちに遭った。
 殴ろうとした腕をそのまま掴んで押し曲げ返した時、あれ、多分曲がらない方向に腕曲げてやがった。
 『うぁぁぁぁっっっっ!!……まっ…待ってくれっ!!お、俺が悪かったっ!!悪かったからっ!やめっ!!やめてくれっっ!!』
 顔を血だらけにして謝る声もゾロには聞こえていないようだった。
 ゾロの殴り方は全く容赦がなくて、確実に急所を狙って相手を潰す。
 相手がどうなっても全然気にしちゃいなかった。
 どっかキレてんじゃないかと思った。
 思ったらバラティエでの事件を思い出した。
 ナミさんは、狂ったように相手を潰しているゾロの姿にすっかり怯え、硬く瞑った目を一度も開けることは無かった。
 俺も怖くて怖くて…怖くて身動き一つとれなかった。


 「…あ、じゃ、そこの入り口のところで」
 「はい」
 道路脇にゆっくりとタクシーが横付けされる。
 俺は、金を払ってタクシーから降り、通い慣れた細い路地へと歩き始めた。


 …全てが終わってようやく床に倒れることが出来た時、
ゾロの興味が俺に向いた。
 『大丈夫か?』
 暴れていた時の興奮が身体に残っているのか、静かな口調だったのにも関わらず、酷く荒々しく感じた。



 ……あの抱き締め方は尋常じゃ無かった……



 ……そう……尋常じゃ無かった。



 『ああ…大丈夫だ……』
 やっとの思いでそう言ったのは、側に来られるのが何よりも怖いと思ったからだ。
 血まみれになってたり、どう見たっておかしな方向に曲がっている足や腕に苦痛の呻き声を上げている左官屋達が忘れられない恐怖を増幅させる。
 ナミさんが部屋から連れ出された後、状況は完全に『あの日』とリンクしてしまった。
 部屋の中の血の匂いが、余計に記憶を鮮明にさせた。
 ゆっくりと近付いて来るゾロを怖くて見ることが出来なかった。
 三年前のバラティエでの事件は、想像以上に俺に恐怖心を残していた。
 『く……来る…な……』
 俺の声はヤツには届かない。
 手を取られた時は思わず悲鳴を上げそうになってしまった。
 ハッとしたようにゾロが息を飲み、次の瞬間には物凄い勢いで抱き締められた。
 アバラの痛みと襲い掛かって来た恐怖に、正直、パニック状態だった。
 何で抱き締められたのか全然分からない。
 とにかく咄嗟に逃げようと暴れた。
 なのにもがけばもがく程きつく抱き締められる。
 尋常じゃない力で。
 がっしりとした腕に巻き込まれ、胸に押し付けられ、昔のレイプの記憶に一気に飲み込まれた。

 嫌だっ!!
 怖い
 怖いっ
 ……怖いよ…ぉ……

 ゾロの熱い肌がどうしようもなく怖かった。

 殺されるっ
 …嫌だっ
 嫌だ
 死にたく無い……っ…
 
 本当に怖かったんだ。
 あんな喧嘩をするような男だ。何されるか分からない。
 本気で殺されるんじゃ無いかと思った。
 それか、前みたいにレイプされんじゃないかって、思った。
 どっちも嫌だった。
 だから、痛みに襲われながらも必死で俺はゾロの腕の中から逃げ出そうともがいていた。
 その時だった。
 
『…………死ヌナ……』

 身体を小刻みに震わせながら、ゾロが怯えたように俺に言った。
 『……死ぬな…死ぬな……』
 何度も何度も繰り返す。
 『……死ぬ訳ねェだろ……クソバカ……』
 ヤツは俺の言葉に耳も貸さない。

 変な男だ。どっかおかしいに違い無い。
 傷付いた子供みたいな声を出しながら、とんでもない力で俺を抱き締める。
 腕の中の存在が死んでしまうかもしれないと、心底怯えながら。
 普通、たった二度しか会ったことのない男をこんな風に抱き締めたりはしないだろう。
 こいつの過去もきっとロクなモンじゃなかったに違い無い。

 死ヌナ…

 アイツの声が今でも耳に残っている。
 他人の過去なんてどうだって良い。
 出来れば何にも関わりたく無い。
 深入りしそうな相手なら尚更だ。
 あんな苦しそうな声を出す男の過去なんて、知りたく無いし、関わりたく無い。
 だから、暖かかったなんて思っちゃいけない。
 強く抱き締められることを心地良いなんて思っちゃいけない。
 まして、もっと抱き締めて欲しいなんて思っちゃいけない。
 あんな抱かれ方、知らない方が良いに決まってる。
 そうだ。そうだよ…。


 …………なんか……俺……変だ………


 関わりたくねぇって言うのに、考えるって言ったらアイツのことばっかりだ。
 ったく…もー忘れろって。
 考えたくねーし、関わりたくもねーから、ここに来たんだろう?
 なのに、道すがら考えるのはアイツのことってどーいうことだよ。
 恋い焦がれてる相手って訳でもねぇだろうが。
 放っとくといつまでもぐだぐた考え続けそうで、俺は無理矢理これから会う相手のことを考えることに集中した。






 「若…取込み中すみません」
 「…ん?」
 「サンジさんがいらっしゃいました」
 「あれ?俺、会う約束なんてしてたか?」
 「さあ…」
 「んー…ま、自分から会いに来るのも珍しいし…通してやれ」
 「畏まりました」
 音も無く麸が閉められる。
 「…ねぇ…サンジって……?」
 「ん?俺の大事な友人」
 「あらそう…」
 「妬ける?」
 赤龍会(せきりゅうかい)若頭の、細身ながら逞しい身体に組み敷かれた女が嫣然と笑う。
 「一々ヤキモチ焼いてたら、キリが無いもの」
 それよりも…と、男の赤い髪に細い指を絡めながら続きをねだる。
 「今はアタシだけを見て頂戴……」
 折れそうな程に細い腰からは想像も出来ないような凶悪に大きな胸の谷間に、女はゆっくりとシャンクスの顔を抱き込んだ。




 続く。

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