【meraviglioso】
 ++奇跡++ 

2

 逃げて逃げて。
 緑色の髪した男のところから逃げ出して、逃げる。
 襲われたから。
 アイツが『好きだ』なんて言ったから。
 自分が訳解んなくなりそうだったから。

 
 俺は今『大泉』って町に住んでいる。
 東京の二十三区内って言うのもどうかってぐらいのどかな場所で、駅前から二キロも離れれば、駅前通りって言うのにも関わらず、しっかりデッカイキャベツ畑があったりする。
 何となく大きな百貨店と、その正面に出来た映画館と、その裏の大きな撮影所と、その斜め向かいにある結構有名なアニメの制作会社がメインって言ったらメインの町。
 その側のケーキ屋のシュークリームと、駅前通りのキャベツ畑の正面にあるケーキ屋のタルトはかなり美味い。
 『風致地区』って信号の先にある和菓子屋のスアマもかなりいい感じかな。その側にある創作菓子を売ってる店も、店頭で客を待たせてる間に出してくる非売品の羊羹は
エンドウ豆の味の風味が抜群だ。
 今時ナチュラルに『無人販売所』があるこの町は、近くのスーパが新鮮な販売所のキャベツだの白菜だのに対抗して品揃えにかなり神経を使っている。
 レタスなんかは切り口から白い液体が滲んで来るぐらい新鮮なのを用意するぐらいの頑張りだ。野菜がそんな感じだから、肉も魚も素材は随分しっかりしてる。
 値段も安いし、料理好きが暮らすにはもってこいの場所じゃねーかな。
 住環境も悪くない。
 なんでも『風致地区』って言うのは、良く分かんないけど、『緑がたくさんあるきれいな町』にしとけよ、って、指定された場所らしい。
 家を建てんのも改築すんのも取り壊すのも、色んな取り決めが細かくあるし、あちこちにある結構大きな木も、みんな保護されてて、そう簡単には切れないらしい。
 作り込まれた自然…って感じで、初めはなかなか馴染めないけど、街全体がこざっぱりしてんのは、気分の悪いモンじゃない。
 俺が住んでるアパートも、築年数は古いけど、外壁とかも、ちょっと凝った造りになってて、近くの遊具施設より木の数の方が遥かに多い公園の落ち着いた感じと良く調和している。カメラとか持ってたら、ちょっと撮影したくなるような感じに良かったりする。
 部屋自体は普通のアパートなんかと変わりない普通の間取りなんだけど、鰻の寝床みたいな建物の構造上、俺が住んでる二階の部屋は一世帯しかない。二階に上がる外階段は、言うなれば俺の専用階段みたいなモンだ。
 …俺さ、もう、これだけでこの物件決めたって言っても過言じゃない。
 風呂に追い炊きが無いのと、キッチンが細長過ぎて食器棚とオーブンレンジを自分の部屋に置かなきゃならないってことだけ目を瞑れば、部屋も広いし(ま、これも妙に奥行きのある九帖の洋間で、家具のレイアウトには苦労したけど)満足かな。
 昼間はガキが公園で騒いでるが、俺も仕事に出ちゃってるから気にならないし、夜は随分早い時間帯から静かで助かる。
 夜も十二時を超える頃には静か過ぎて、逆に落ち着かないくらいだ。
 この町は、ひっそりしてて、ホッとする。
 俺みたいな神経質なヤツにも暮らしやすい。
 …引っ越して来たばっかりの頃は、どんなに疲れても寝付けなかったり、どんなに休んでも笑えなかった。
 薬局で買える薬で眠ったり、昔スノボーでケガした背中の古傷が痛んで寝れねーとか言って、病院でレンドルミンとかアモバンとか貰って飲んで無理矢理寝てた。
 
 夢も見ないような眠りは、逆に俺に取ってはありがたかった。

 仕事に没頭して、今の自分の生活に没頭した。
 考えることが出来る『時間』だけは作らないように、出来る限り忙しい毎日を過ごした。
 もう誰とも話さずに、誰の顔も見ないようにして、俯いて毎日を過ごした。
 発見したり、気付いたり、気付かされたり、
 思い知ったり……
 もうそんなのはたくさんだった。
 慎重に、慎重に、顔を上げずに。
 嫌な記憶も全部外に絞り出して。
 毎日を過ごした。
 
 起きてる間の頭の中から追い出して、
 寝てる時の頭の中からも追い出す。

 忘れよう。
 忘れなきゃ。
 忘れろって…。

 アイツの顔も声も。
 身体も、仕草も。
 全部、全部。
 何もかも、全部。
 
 ベッドと壁の間にわざと作った狭い隙間に身体を押し込んで、膝を抱えて丸くなる。
 じーっと動かずに、抱え込んだ膝に顔を埋めて目を閉じる。
 自分の吐き出す息が、膝をじんわりと暖めるのを感じながら、ゆっくりと頭の中を真っ暗にしていく。
 思考が止まって、時間だけが流れていく。
 時間を持て余す時はずっと。
 頭の中の暗闇で記憶が溶ければ良いと思った。
 溶けて、ドロドロと耳から出ちゃえば良いのに。
 そしたらきっと記憶は床に溜まる。
 そしたら掃除が出来るのに。
 生ゴミみたいに記憶も捨ててしまえるのにな……。

 

 俯いて、忘れることばかり考えた二年間だった。

 
 

 

 

 昔のことはあんまり思い出したくない。
 思い出したい記憶も、無いし。
 過去なんて、無くても生きていけるし。
 過去なんて、あるだけ邪魔だし。
 邪魔だし。
 ムダだし。
 いらないんだ。
 だってさ、例えば遭難して餓死しかけたとか、働いてた店に頭のおかしい男がライフル乱射しながら乗り込んで来て、仲間全員射殺した上、俺一人人質にされてレイプされまくったとか、一人で生きていこうと思って頑張っても、皆裏目に出ちゃったりとか。
 信じたヤツに裏切られたりとかさ。
 お世辞にも、思い返して懐かしんだりしたい過去じゃないんだもん。
 特に最後の記憶は最悪だった。
 俺さ、最悪な男に逢ったんだ。
 あんまりソイツが最悪だったから、ヤバいと思って逃げ出したんだ。
 逃げて逃げて逃げて、逃げた。
 だってとにかく怖かったんだ。
 アイツさ……良いとか嫌だとか全然関係ねーんだもん。
 言ってることなんか無茶苦茶なのに、全然理屈で勝てねーの。
 力だったら万に一つも勝ち目ねーし。
 つか、なかったし。
 チンコでけーし。
 セックス上手いし。
 好きとか言うし…。
 
 ホント最悪。

 ソイツがさ、突然襲ってきたんだ。
 俺の誕生日にさ、俺ソイツん家に行ったんだよね。
 俺の料理食わせてやりたくってさ。
 自分の家に呼ぶのはちょっと嫌だったからさ、ソイツの家に俺が行ったんだ。
 料理作って、食わせて、テキトーになんか話して、酒飲んで……
 そしたらさ、突然襲ってきやがったんだ。
 きっかけは…もう良く覚えていない。
 俺、何か言ったのかも知れない。酔ってて…気分良くて…何言ったのか覚えてないんだけど、何か言って…そしたらアイツ急に人変わったみたいになって、襲ってきやがった。
 物騒な表情で睨み付けて、人の弱みに付け込んで、自由奪って…理性奪って……。
 …怖かった。
 バカになりそうな程気持ち良くされて…。
 あんな目で睨まれて……。
 ケツにチンコブッ刺されて…。
 怖かった。
 死ぬ程気持ち良くされて。
 怖かった。
 苦しいのは俺の方だったのに…あんな苦しそうな表情をされて…
 怖かった……。
 アイツの…ゾロとのセックスは…何をされても昔の恐怖を思い出させたから。
 怖かった。とても…怖かった。
 津波みたいな記憶の波に飲み込まれたから。

 

 レイプされんのさ…本当にダメなんだよ…俺。

 
 …俺…バラティエで人質にされた時のこと…未だに忘れらんないんだ。
 すげー怖かったんだ。
 どんなに頑張っても、どうしても忘れられないんだ。
 感情と記憶の中に、真っ黒な場所が出来ちゃったんだ。
 『そこ』には、限界の無い『恐怖』がぎっしり詰まってるんだ。
 『そこ』は、鼓膜が破れるくらい騒々し過ぎて何も聞こえない場所で、静か過ぎて耳鳴りが一時も止まない場所なんだ。
 無限の『そこ』は、もうこれ以上何も詰められそうにないのに、最後に俺を引きずり込もうとしているんだ。
 ぽっかりと真っ黒い『そこ』の淵は、心の中の直ぐ側にあって、ちょっとしたきっかけがあれば、すぐに俺に恐怖を与えるんだ。

 『そこ』の『それ』はね…
 無人島で死ななかった代わりに、
 人質になっても、殺されないで済んだ代わりに、
 俺に与えられた代償なんだ。

 ねぇ…
 自分の中で我慢出来る恐怖の限界を超える恐怖って、分かる?
 気が狂うタイミングを外して、正常のまま、恐怖を味わうってどんな気がするか分かる?
 感情が振り切ったままの状態で、レイプされるのって……本当に……怖いんだよ…。
 だから、好きって言われるとかさ…身体が反応するとかさ……自分にとって少しでも恐怖を和らげてくれる要素があると、身体も頭も感情もみんな、そこに逃げ込むんだ。
 でもね……逃げ込んだ先って……俺に恐怖を与える張本人の腕の中…だったんだ……。
 考えないようにすることは出来るようになった。
 でも、未だに忘れることが出来ない。
 ……分かってるんだ。
 俺が男にレイプされ易くなった理由って。
 セックスの最中って、俺、怖くて自分から快感に溺れちゃうんだ。
 だから、すごい…自分でもどうよ?…ってぐらい感じてどうしようもなくなる。
 そうなると最後で…。
 もう、訳解んなくなる。
 気持ち良くて、気持ち悪くて、怖くて、怖くてどうしようもなくて。
 せめて目立たないようにって気をつけてても、この髪の色だ。大抵一発で目ェ付けられる。
 ポーカーフェイスで誤魔化してても、身体はビビって動かなくなりそうになる。
 テメェの身はテメェで守るしかねぇってんで、必死でケンカも覚えたけど、気迫で負ければそこまでだ。
 結局最後は逃げきれねェ恐怖に耐えきれなくなって、快感に逃げようと、自分から足を広げてしまう。
 
 
 …ゾロのセックスは……どれもこれもバラティエでのことを思い出さた…………。
 押さえ付けられた力も、与えられた快感も、あんまりにも激しくて、自分の中に吸収しきれなくて、セックスに没頭することすら出来なかった。

 『うあっっっ!!…ゾロッ!!…っ!!ゾロォッ!!』

 思わず名前を叫んでしまうぐらい。

 『あっ…良い…っ!!…もっと…もっと…っ…』

 思わず懇願してしまうぐらい。
 泣き出すぐらい……それぐらい…自分を見失ってしまうようなセックスだった。
 最後は相手がゾロだったことも分かんなくなって、記憶もグチャグチャになって、昔バラティェに人質にされていた時の俺になってた。
 精神も感情もセックスの感度も……まるっきりアノ時に戻っちまって、俺の中の全てが暴走した。
 ゾロのセックスに翻弄されて、ガキみたいに泣き叫び、イキまくってのたうち回って、しがみついた。もしかしたら、とんでもないことまで言ったかもしれない。
 ゾロのチンコが、俺の中でバラティエを襲った犯人のチンコになって、犯人が構えていたライフルになった。
 ゾロが俺の中でイク度、撃ち出されたザーメンに撃ち殺されると思い、身体を強張らせて悲鳴を上げた。
 目を開けて、ゾロの顔を間近に見ても、誰だか全然分からなくなった。
 セックスが終わったら、殺されるんじゃないかと思った。
 怖くて…怖くて…だから…セックスが終わらないで欲しいって…ずっと願った。
 与えられた快感は、焼き殺されるような熱さだった。

 誰かの温もりが欲しいとか、誰かと一緒に生きたいとか…そういうのって…俺は願っちゃいけない。
 思う度、願う度、必ず相手は俺を裏切るから。

 …裏切らなかったのは……ジジイだけだ。
 …でも、その代わり、俺がジジイの信頼を裏切った。

 ダメだ。ダメだ。本当にダメだ。
 何を期待してんだよ。
 アイツはダメだ。危険すぎる。
 やることなすこと、ライフル男と一緒じゃねーか。
 今度こそ命落とすぞ。
 死にたくねーんだろう?
 夢諦めたって、生きていたいんだろう?
 だったらどうして生きてるだけで満足出来ない?
 それ以上何を望むつもりなんだよ。
 一生分の恐怖を味わったのに、何にも学習出来てねーじゃねーか。
 『誰かと関われば、何かが起きる』
 嫌っていうほど味わったじゃねーか。

 いいか、もうこれ以上怖い思いをしたくないなら、
 俺は、一人で生きていかなきゃならないんだ…。

 

 一人で生きていく決心が出来て、一人で何とか生きて来れたのに。
 ゾロは俺の前に現れた。

 あの日…。
 左官屋のヤツ等が満足するまでレイプされてれば……
 今、こんな思いすることも無かったのにな……
 きっとゾロにも出逢わずに済んだのに…。
 逃げ回らずに済んだのにな…。

 

 

 

 

 「ジージ」
 「…にゃあ…」

 ジージの返事は時間差だ。
 間が抜けてるって言うか、おっとりしてるっていうか。
 おりこうさんって感じじゃないのだけは確かだな。
 「ほらメシだぞ」
 動くにも、ちょっと間があってから、おもむろに動き出すって感じだ。
 脇目もふらずに目標をじーっと見詰めたまま、真っすぐに、のてのてと歩いてくる。
 必要以上に長い手足のネコで、歩きにくいのか、後ろ足の動きにとにかくムダが多い。トイレに行って、ケツを拭きそびれたガキが、ケツ突き出してよたよたとガニ股であるいてる姿とイメージ的にちょっと似てる。
 「……にゃー…」
 まるで腹筋が無いみたいな感じの鳴き声には意外にバリエーションがあって、そのうち何だか喋りそうな勢いだ。
 今日の朝飯は、リゾットにした五穀米に、ニボシと鰹節をトッピング。付け合わせにササミとチーズ。それから、暖かくしたミルク。
 百円ショップで買って来た、白いサラダボウルに盛り付ける。
 見た目はフランス料理っぽい感じにしたけど、ネコだから関係ねーか。
 ジージは、へたっ…っと皿の前に座り込むと、いつものように何やら考え事でもしてるような顔をした後、おもむろに皿に顔を突っ込んで、食事を始めた。
 「良く噛んで食えよ」
 コイツは食うのが遅いクセに、メシを丸呑みしやがる。
 味わって食うとかっつーのは無理だとしても、噛むぐらいしろよって感じだ。
 食い過ぎて、たまに吐き戻すとき、ほとんど原型のままでメシが出てくる。
 ガリガリ言う固形のネコのエサは、まだまだ先になりそうだ。
 まぁ…俺、誰かにメシ作ってやるのは嫌いじゃねーけどさ。
 「…うまいか?」
 皿に頭全部突っ込んで、食い続けてるジージの背中をそっと撫でる。ジージはピクピクと背中の皮を動かすが、大人しくそのまま撫でられてる。
 「んじゃ、俺仕事に行ってくるから。大人しくしてるんだぞ」
 立ち上がると、つられたようにジージが皿から顔を上げ、俺を見上げて小さく鳴いた。
 「あー」
 飯粒が付いた口をカーッと開けて小さな声を出すと、取って付けたようなミニサイズの牙と、ぺらぺらのピンク色した薄くて小さな舌が覗いた。
 ガリガリの身体は相変わらずで、小さな頭に不釣り合いなデカイ目ばっかりがギョロギョロしてる。お世辞にも可愛いっつー感じからはほど遠い。
 ぼんやり生きてる感じも相変わらずで、虚ろな表情で、ぼーっと外を眺めている。
 生きてる強さの無さも相変わらずで、踞って眠っている姿なんて(おい…息してんのか?)って心配になって、顔を近付けて呼吸を確認してしまうぐらいだ。
 懐かねーし、買って来たボールにも戯れたりしない。
 飼ってるっつー楽しさとかも全然ない。
 
 「…んなー…ぁー…」

 ……でも、ま、良いか。
 死なずに生きてるって、多分スゲー良いことだ。
 「さ…おい、ジージ、行ってくるぞ」
 立ったまま身体を折り曲げるように前屈させて、右手を伸ばし、ジージの頭を優しく撫でた。
 「…んにゃぁ」
 「……ジージ」
 ジージが掌の下で目を瞑る。それから、ほんの少しだけ、自分から頭を擦り付けて来た。
 「…お前」
 初めて、ジージが俺に甘えた。

 

 『ジージ』
 自分の名前が分かるようになって来た。
 にゃむにゃむと独り言を言ったり、俺に何か訴えて来たりと、随分おしゃべりになって来た。
 頭の悪さは相変わらずで、タンスの上歩いてて普通に足踏み外して落っこちてみたり、寝相も悪くて、ふと見ると行き倒れてるみたいな格好で爆睡してて、人を平気で焦らせたりしてくれる。
 いい加減な顔の洗い方だし、毛づくろいするとすぐ疲れてるし、相変わらずメシはちゃんと噛まずに食っちまう。
 『んにゃー…』
 もの凄い甘えん坊で、家にいる時は片時も側から離れない。風呂に入る時まで一緒にいる。
 同じ部屋で生活して、同じベッドで眠った。
 いつしか夜に眠れるようになった。
 町の景色が見えて来た。
 ジージが部屋の中を元気に走り回るようになった。
 ジージが俺のことを『んなー』と、呼んでいるのに気が付いた。
 自分が、笑っているのに気が付いた。
 ジージが可愛いと思う自分に気が付いた。
 警戒した。
 でも、ジージの愛情は真っすぐで俺を絶対に裏切らなかった。
 ちょっとずつ、ジージか愛しいと思うようになってきた。
 警戒しながらも、段々家族と思えるようになって来た。
 ゆっくり記憶が薄れて行くのが嬉しかった。
 


 

 続く

 top 3