【魚の檻】
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バラティエは、欠けた部分を満たす場所。 腹を満たして、心も満たす。
海に浮かんだ命の浮き島。 海賊と闘う最強のコックが魚を守る。 いつでもここは戦場だけど それでも客は穏やかに笑う。
理由は一つ。 それは、ここの料理が美味いから。 無敵な海のオアシスは、
七十日間、檻になる。 ジジイの足の代わりになりたくて、貯めた金で俺専用の船を買った。
ストライプ模様の小さな船に、市場から新鮮な食材を山のように積んでバラティエに運び込む。 少しでも変なモノを仕入れてこれば、容赦なく義足のケリが飛んで来たが、日持ちする食材をいつも予定より多く買い込んでしまうのだけは、ジジイも黙って見逃してくれている。
色とりどりの野菜、ピンク色の肉。澄んだ目の魚。 しっかりと固くなった野菜、良い色に仕上げられた薫製に腸詰め。塩漬けやオイル漬けにされた瓶詰めの魚。
どんな形にも変化出来る真っ白な小麦粉。 新鮮な水。熟成した酒。 新鮮な野菜。 新鮮な肉。 新鮮な魚。
新鮮な。 新鮮な、 新鮮。 『新鮮』って、スゴいと思う。 …つーか、スゴいっていうことがよく解った。
食材が『新鮮』でいられるのって、ほんの少しの間だけだ。 食べられるってことと、新鮮である、ってことは全然違う次元のこと。 カビないうちに食べられるってスゴい。
新鮮なモノを新鮮なうちに口にするのっていうのは、何よりも贅沢なことだと思うようになった。 それから、長く品質の変わらない食材もスゴい。
そのままだったらカビて腐ってどうにもならない食材を長い時間保存出来ること。 どこに持って行っても美味しいまま口に出来ること。 保存食を作ることは何よりも大切な技術だと思うようになった。
バラティエに向かう帰り道、タバコを吹かして舵を取りながらぼんやりと新しいメニューを考える。 新鮮で美味しくて、腹も心も満たされるメニュー。
新鮮な食材をいつまでも常に美味しく食べられる保存の方法。 白い皿の上へのディスプレイ。 華やかで鮮やかで鮮明で、美味しくて。
……名前は何てつけようか… メニューを読んだだけで、嬉しくなるような名前が良いな。 ハラを減らしてやってきたお客が、俺達が作ったメシを食って、幸せそうな顔をするのを見るの、俺大好き。
パクッと食って、するっと胃に入って行く幸せ。 温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに口に出来る幸せ。 胃袋にモノが詰まって行く幸せ。
胃袋がどんどん食べたもので重くなっていく幸せ。 『あ〜…っ……おいしかった…っ』 心からの賛辞に、俺の傷は少しずつ癒されてくような気がする。
アレ以来、一度にたくさん食べられなくなった俺の代わりに、一杯美味しいモノを食べて欲しい。 俺の代わりに……いつでも腹を空かせている俺の代わりに、腹一杯に食べて欲しい。
腹苦しくなるくらい食べて欲しい。 残さず全部、差し出した分全部食べ切って 『ごちそうさま』 って言って欲しい。
マナーなんてどうだって良い。何なら手掴みで食べてくれても構わない。それでとやかく悪く言うヤツがいたら、俺が全員ケリ倒してあげるから。 そのかわり、俺の作った料理を俺の代わりに全部食べて欲しい。
俺…ソースの一滴だって…残せないぐらい上手に、美味しく作るから……… ……………。 「………ははっ」 料理バカか。
気が付いて、慌てて考えるのを止める。 全身の神経が痛むような不快感に襲われて、身体をパシパシ叩いて誤魔化す。 いい加減にしろよ……。
アレから何年経ってるんだよ………。 ホント…もういい加減にしろって。 怖がるのも疲れるんだぜ? 一体何が怖いよ? もう何も怖いことなんてないじゃねェか。
嵐が来てももう大丈夫だ。バラティエは、ジジイがどんな嵐にも負けない強さにしてくれたじゃないか。もう波には飲まれない。飲まれても船は壊れない。あの厨房は世界で一番安全な場所だ。そう設計してもらったじゃないか。
飢えも恐怖もバラティエにいる限り…ジジイの側にいる限り、もう絶対に訪れない。 …な、そうだろ?……そうなんだろ?…ちゃんと分かってるはずだよな?
一体何度テメェの胸に言い聞かせてる? もう…いい加減理解しようぜ? 何が怖いよ? 「……怖くねェよ……怖くねェ…」
ジジイは俺を見捨てなかったろ?俺をしっかり抱き締めて、死に行く俺をきっちり守ってくれたじゃねェか。飢えに弱って…目の前に死神が立った時…ジジイはアイツに何て言ってくれた?
……な?俺はアレからずっとジジイに守られてるんだ。 怖いことなんて何も無い。 ……たとえ罪悪感に圧し潰されても…俺は、アノ時ジジイのおかげで死なずにすんだ。良かったじゃないか。ラッキーだったろ?
トラウマが何だよ。大事な部下を失ったジジイの方が…俺のせいで右足を失ったジジイの方が……よっぽど辛くて苦しいはずだ。 何ビビりまくってんだよ。
何被害者ヅラしてんだよ。 食えねェ病気は自分の弱さが原因だって、誰よりも一番分かってるはずた。苦しめてるのは誰でも何でもない、自分自身だ。
いつまでも甘えてんな。 アノ事故で一番辛かったのは、俺じゃない。 命すら、大切にしていた包丁すら……俺は何一つ失わなかった。
助かったんだ。死ななかった。もうそれだけで十分だろう…… ……なのに…片時も食いモンのことが頭から離れない。 食えなかったことだけが、心に付いた傷の原因。
未だに残る空腹感が、心の傷をグチャグチャと化膿させている。 「……ったく…しょうがねェなぁ……」 自分の弱さにヘドが出そうだ。
舵を握った指先が、細かく震えているのに気が付いて、誤魔化すように咄嗟に強く握り締めた。抉られた心の部分を埋めるように、肺一杯にタバコの煙を吸い込んだ。
「…あー…腹減った」 声に出して、傷に溜まる膿を絞り出す。目には見えない出来たての若い膿は、いつでもいつでも、押し出す度に心の痛みを呼んでくる。
「……あーっっっっ!!」 俺は、舵を力一杯握り締め、たった一人の船内で出せる限りの大声を出した。 「うわぁぁぁっっっっっ!!!!」
ダメだダメだ。 腹が減ってると、人間ロクなこと考えられない。 何か食おう。食ったら笑おう。 戻ったら、サンドイッチでも摘むかな。
腹減らしてるから変なことを思い出すんだ。 確かまだ昨日の賄い用に作ったパンが残ってるはずだ。 キュウリとエビを挟んで食おう。マヨネーズソース…は…こっそり新しい卵で作るかな。ビネガーも、とっておきのを開けちまおう。
キュウリのスライスをシャリシャリ言わせながら二つは食べるんだ。そしたらハラも随分膨れる。 とっておきの紅茶も開けるかな。 急いで帰れば四十分ぐらいはのんびり出来るし、丁度良い。
のんびり食って、胃に食べ物が溜まる感触を味わって、タバコの煙で肺を満たせば大丈夫。 きっと少しはマシになる。 精神的にも腹的にも。
本当にダメだ。もう三年過ぎた。忘れろ。諦めろ。根を生やせ。 いつまでも、アノ感覚を引き摺るな。 飢えた料理人は、味が濃くなるって、ジジイに怒られたじゃねぇか。
ポンポンポンポンポン…… 船は間抜けな蒸気の音を上げながら、波をかきわけバラティエへと向かう。 俺は力尽くで思考を甲板に積んだ食材に飛ばした。
そうだ…そうだよ。 今日は珍しい魚が手に入った。 白身が引き締まった深海の魚だ。 ジジイの細くなる目が見たい。 『………まぁまぁだな』
ジジイはきっとぶっきらぼうにそう言うはずだ。 でも良く見ると目だけはひどく笑ってるんだ。 料理人として、満足そうに笑ってくれる。
それから言うに違いない。 『少しはマシになったじゃねェか』 ジジイなりの褒め言葉だ。 聞きたい。聞きたい。褒められたい。
俺、料理のことなら褒められるのは大好きだ。 口では上手くは言えないけれど、俺は、ジジイが大好きだ。 ………うん。
もう……それだけで、生きて行ける。 「よう、サンジーっっ早かったなーっっ」
「珍しいな。今日はナンパ無しかー?」 バラティエに戻り、積み荷を移していると、仲間のコック達が声を掛けて来た。 「ん。ハラ減ったから帰って来た」
「んーなの、港で食ってこりゃ良かったじゃねーか」 「まぁな。あ、卵一個貰うぞ」 「ああ、いーぞ。んな、三つでも四つでも好きなだけ使えば良いからな」
「サンキュ」 バラティエで働くコック達は、皆腕は確かだが『色々』あって陸の上ではどこも仕事が貰えなくなってしまったヤツばっかりだ。世界中からジジイがスカウトしてきたコック達だ。
どいつもこいつも顔はスゴいが気の良い奴らだ。 「サンジ、たくさん食ってもっと太れよー」 ひらひらと手を振りながらバラティエの心臓部、メイン厨房に向かって甲板を歩いて行った。
「荷物、手伝おうか?」 手を上げて見送った後荷積みを再開してたら、後ろから見習いコックのオルトが声を掛けて来た。 「すごい量じゃん。手伝うよ」
「ん?ああ、いーよ、これぐらい。そっちも仕込みで忙しいんじゃねーの?」 「や、十分ぐらいなら平気だよ」 「んなこと言って、またクルードにどなられるぞ」
「ゴルァーッッ!!!オルトーーーッッッ!!!どごだーっっっ!!!」 言い終わらないうちに、厨房からクルードの大声が甲板中に響いた。オルトが弾けるように背筋を伸ばす。
「あっ、はーいっっっ!!ここでーすっっ!!!」 変声期に入ったばっかりの少し高めの声でオルトは厨房に向かって声を返した。 「……な?」
「だね」 二人で顔を見合わせクスクス笑う。 それでも俺と一緒にいたくて、手伝いたそうにしているオルトに別の提案をしてやった。
「後で俺の部屋に来いよ。新しい料理のレシピ、見せてやるから」 「えっ?!ホント?!行く行くっっ。んじゃ、夜に」 「おう」 「何時でも良い?」
「オルトーッッ!!!」 「は、はーいっっ!!直ぐ行きまーすっっ!!」 時間にウルサいクルードに初めて弟子入りを許された十五才のオルトは、笑っちゃうぐらい背筋をぴんっっ!!と伸ばして、声のした方に向かって返事を返した。
「サンジっ、遅くなるけど、絶対行くからねっ」 ニパッと笑って、バラティエ一番のチビは、全速力で厨房の方に走っていった。 何となく後ろ姿を見送る。
元気なオルトは、この直ぐ側の島で広大な農園を営んでいる農家の一人息子だそうだ。俺より一つ年下だけど、見た目は三つ、しゃべり方に至っては下手すると五つは下に見える男だ。
とにかく人懐っこくて、可愛い。 イーストブルーの島に『芝犬』って言うのがいるんだけど……知ってる? オルトってまさに柴犬。とにかく似てる。ちっちゃくって目なんかまん丸で、すばしっこくて、ちょっとアホっぽくて。でも、すっごく忠誠心とか強そうで。
なんとなく放っておけないタイプのガキだ。 俺とは全然違う意味で、料理のことしか考えてない。 すっごく前向きに料理のことを考えてて、情熱だけなら一流シェフだ。
まぁ、腕は今三つ……ってところで、この前食わせてもらった賄いメシは、お世辞にも美味いとは言えなかった。 でも、素朴で力強い味は、いつかオルトの魅力になると思う。
さすが農園の一人息子だけのことはあって、野菜を見分ける能力はかなりなモンがあある。 俺も市場での見分け方は幾つか教えてもらったこともあるぐらいだ。
あ、ジャガイモの蒸かし方だけは最高。 俺、アイツの蒸かしイモ、大好き。 年が近いせいもあって、俺にすっごく懐いてる。 俺さ、犬とか欲しかったから。懐いてくれるとちょっと嬉しい。
こいつにだったら、レシピノート見せても良いかなって思うんだ。 厨房から大音響でクルードの怒号とオルトの返事が聞こえてくるのを笑いながら聞く。
一生懸命なオルトのことは、コックは皆、勿論クルードは一番良く知っている。 後二ー三年したら、客に皿を出せるようにはなるんじゃないかな。
「…あ、いけね。のんびりしている場合じゃねーな」 何だか温かいポタージュを飲んだみたいな気分になっているのに気付いて笑った。 オルトは、スゴいヤツだと思う。
遅れた分を取り戻す勢いで荷物を運び入れながら、腹がグーっと音を立てた。 「…うん…っ。ハラへった」 深く膿んだ心の傷も、オルトの前では不思議と痛みを感じない。
「……まぁまぁだな」 ジジイが魚を見てからぼそりと言った。
「だろ?」 舞い上がる程嬉しい気分を隠して、出来るだけ素っ気なく返事をする。 「チビナスにしちゃ面白いのを仕入れて来たな」 「チビナスって言うなっ」
取りあえず怒ってみせる。 ジジイは鼻でフンッと笑ってみせると、デカイ魚のエラに指を突っ込んで持ち上げた。 「百人…アラも使えば百二十人分ってところだな」
鼻を近付けて匂いを嗅ぐ。 「骨はスープにしても良さそうだ。…良いダシが取れそうだな。エビのすり身を入れてみるか…」 「頭は焼いたらどうだ?首の肉も発達してるぜ」
「…ああ、そうだな」 「半身はローズマリーで蒸し焼きにして、それから残りはカルパッチョとグリッリャーレで」 「…ん」 ジジイが鱗を一枚爪で弾いて独り言のように
「…柔らかいな。これなら皮を一気に揚げても良いな」 と言った。 「揚げる?」 「ああ。一気に水分を飛ばしてやるとこう、バリバリっと鱗が逆立って、独特の歯触りが楽しめる」
何でもなさそうに言っているが、長い付き合いの中で、ジジイが嬉しそうにしているのが分かる。 思わず口の端がニヤけそうになるのを内心必死で隠しながら「んじゃ、今夜のメインはそれで良いか?」なるだけ自然に言ってみる。
「………ん…お前も少しはマシになったじゃねぇか」 「………まぁな」 ぎこちないが、それでも最近は随分マシになった俺達の会話。
そう。俺達はそれなりに上手くやっている。 俺とジジイ…バラティエ総料理長ゼフとの血の繋がりは少しも無い。
説明するのも面倒くさくて、表向きは俺はゼフの子供ってことになっている。 ゼフはかつてグランドラインって危険な海域を一年間に渡って航海し、生還したっていう伝説の海賊のキャプテンだった。
俺は、たまたまゼフに狙われた客船の見習いコック。 あの日まで、俺達の接点は何も無かった。 あの日の出逢いは忘れたくても忘れられない。
忘れられるはずもない、嵐の夜の出逢いだった。 いつかオールブルーに行く。 それまでに一流のコックになるのが目標だった。
どんな食材でも自由に料理にしてみたかった。 コックなら一度は夢見る理想の海で、コックになるのが夢だった。 料理だけでは辿り着けない。
力だけでは料理は出来ない。 それでも夢を叶えたかった。 俺なら夢を叶えられると…本気で…本気で思っていた。 なのに、嵐に乗じてゼフは船を襲って来た。
俺みたいなガキは、殺されるんだと思った。 夢を絶対叶えたい。叶えるためには絶対死ねない。生き延びたくて、震える手で包丁を構えた。 その時だった。
ドガァァッッ!!!! 波の衝撃が船を襲った。 『うわぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!』 俺は、夜の海へと放り出された。
海中で、波があらゆる方向から叩き付けてきた。骨が折れるんじゃないかと思って、咄嗟に膝を抱えて丸まった。 波の下まで落ち込んでから水面を探す。あまりの遠さにパニックを起こした。
暴れるように水を掻いて水面を目指したけれど、また激しい波の流れに叩き付けられた。 ゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボッッ……… 口から空気の泡が逃げて行った。
苦しくて心の中で悲鳴を上げた。 苦しい苦しいっ苦しい苦しい……っっ…… 泳ぎは自信があったのに、変な泳ぎしか出来なかった。 ザザンッッ!!!
直ぐ側で、突き刺さるようにして、とんでもない長さの丸太が海に突き刺さって来た。 人がバラバラと海の中に落ちて来た。 死ヌ……ッ……
稲妻みたいに、恐怖が身体を突き抜けた。 (……っっぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!!!!)
言葉も何も無かった。自分の身体を突き破るようにして心の中で叫び声が後から後から爆発していた。 耐えきれない恐怖が俺を飲み込み、俺は意識を失った。
水中でこれ以上はないくらい激しく叩き付けられながら俺は、誰かに手首を強く掴まれたような…気がした……。 目が覚めると……そこは小さな岩場だった。
……そこでのことは……… ……辛くて今も…口には出来ない………。
ゼフはあの時、一体何を考えてたのか……今でも俺には分からない。 俺なんて、ただの足手まといでしかなかったのに。 なぁゼフ…。
どうして俺を生かしてくれた? 分からないから、未だに生きてる実感がしないんだ…。 記憶の隣にあの島での全ての時間がリアルにあって、今でもそこで死にかけてるんだ。
子供の時の心の一部があの地獄から抜け出せないんだ。 …行くあても無かった俺をゼフは黙っておいてくれた。
コックを目指しているのを知って、料理をするのを黙って見ている。 俺達は、方法が分からないまま親子を演じる。 愚息な俺は、なかなかゼフを喜ばせることは出来ないが、お互いさまだ。
ゼフも息子の扱い方が分かっていない。 不器用な親子だと思う。 それでも、俺にはゼフしかいない。 …血の繋がりなんて関係ない。
俺が、ゼフとバラティエを守るんだ。 守られた分、守りたいんだ。 たとえ、夢を捨てることになっても。
続く。 top
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