【魚の檻】

2

 「サンジ」
 魚を調理台の上に置いた後、ゼフが久し振りに俺の顔を見て名前を呼んだ。
 「…んん?」
 昔のことを思い出していた俺は間抜けな顔で返事する。
 ゼフは俺の顔をしっかりと見詰めると、机の引き出しの中から大きな包みを取り出して俺の前に置いた。
 「…これ…ジジイの…」
 何よりも大切にしている包丁一式だった。
 「俺は明日からグランドラインに行ってくる。半年間は帰れねェ」
 ゼフはいつも通りの口調でとんでもないことをさらっと言った。
 「グ、グランドライン?」
 思わず声がどもってしまった。
 「ああ」
 「な、何で?」
 「海賊時代の約束を果たしてくる」
 「…んな…なに気軽に言ってんだよ?」
 ジジイは薄く笑って片眉を上げた。
 「勿論覚悟はしていくさ」

 (…オレヲ…ヒトリ…オイテ…イクノ?…)

 抉られるような痛みが走った。
 俺は慌てて言葉を探す。
 「覚悟って…そんな足で行ける訳ねーじゃねーかっっ」
 食い掛かるように身を乗りだして早口で続ける。
 「どうしても行かなきゃならない場所なのかよっっ」
 「ああ。約束があってな」
 ジジイは頑固な口調でゆっくり話す。
 いつもの大料理長の顔じゃない。
 「向こうの海で待っている友人がいるんでな」
 嵐の夜に出逢った時の、海賊の顔だった。
 ゼフがグランドラインに出る……。
 ……冗談じゃない。そんなところに行ったら、何が起こるか分からない。一年間航海出来た実績だって、両足が何よりも強い武器だったからだろう?
 屈強の男だって帰れないかもしれない場所に、大切な人が行くのは嫌だ。一人なるのは嫌だ。
 ゼフが側にいないのは嫌だ…っ。
 俺は慌ててまくしたてた。
 「約束なんかどうだって良いじゃねぇかっっ。もうアレから何年経ってるんだよっっ。行くことねぇよっっ!!テメェが死んだら……っ……このバラティエはどうするんだよっっ!!」
 ゼフの目が優しく細まった。
 「もしもの時には…お前に託す」
 俺から目を逸らさずに、グイッと包丁のセットが入った袋を俺の方に押しやる。
 「バラティエは、海で一番大事な場所だ。俺一代で終わりに出来る店じゃない。俺と、俺の意思を継いで行ける強い男だけが守れる店だ。だがな、サンジ…俺は根っからの海賊なんだ」
 真剣なゼフの表情に、俺は言葉が返せなかった。
 「約束を果たせねェ男にだけはなりたくない。グラントラインの向こうに俺の友人が待っているんだ。アイツもワンピースを探している。俺の航海日誌が必要なんだ」
 バンッッ!!俺は、力一杯机を叩く。叫んだ声は、半分震えた涙声だった。
 嫌だっ!!嫌だっ!!一人になるのは絶対嫌だっっ。
 「ふざけんなっっ!!それでっ!テメェは命落として良いってぇのかよっっ!!んーなの許される訳ねーだろっっが!!このバラティエにっっ!!テメェの仲間が何人いるか分かってんのか?!俺は絶対許さねェッッ!!テメェはもう海賊なんかじゃねぇんだよっっ!!テメェは今っ、バラティエの総料理長だっっ!!!」
 「チビナス、大声を出すな」
 ゼフは有無を言わせないような迫力で俺を見た。でもだからって、ビビってる訳にはいかない。俺は必死でゼフに叫んだ。
 「誰が許してもっっ!!この俺が許さねェっ!!絶対にゆるさねェッッ!!ふっ…ふざけんなっ…っ…俺は、テメェとずっと一緒だっ!!テメェが俺から離れようとしたって…俺は絶対テメェを放さねェっっっ!!!」
 「サンジっっ!!」
 ゼフに鋭く名前を呼ばれて、ビクッと身体が震えて声が出なくなってしまった。
 目を目一杯に見開いて、零れそうな涙を堪える。
 いやだいやだ。もう一人にされるのはいやだ。俺はアンタが必要なんだ。
 なのに、一旦止まってしまったら、どんな頑張っても次の言葉が続かない。
 俺は必死でゼフを睨んだ。
 ゼフは、そんな俺をじっと見詰めながら、俺の指に触れる所にまで道具袋を押し付けた。
 「バラティエを守れるのはお前しかいない」
 目一杯に目を見開いて、ジジイを睨む。
 「………ゼフが行くなら……っ……俺も…行く…っ…」
 鼻の奥がツン…ッ…と、痛んだ。
 ゼフはゆっくりと首を横に振る。
 「バラティエは、お前にしか託せねェ」
 イヤだ…っ。
 たったその一言が言えなかった。
 ジジイは、俺の頭をぎこちなく撫でて、俺を残して部屋を出て行った。
 「……………っく…」
 目をぎゅっと閉じると、涙がボタボタ零れて落ちた。
 「……っ……うっ……」
 空気の塊が喉にせり上がってきて、変な声が何度も漏れた。
 力一杯ゼフの道具袋を握り締める。
 「……うっ……ううっっ……ぅあっ……」
 誰も居ない厨房で、俺は一人で声を上げて、泣いた。





 

 泣き止んで、顔の腫れが何とか引いた後、オルトは部屋に遊びに来た。
 断る理由も見付からなくて、俺は部屋の中にオルトを通した。
 「へぇっ……へーっっ……あっ…あーあーなるほどねェ…へぇぇぇぇっっっっ」
 熱心にオルトが俺の手書きの料理レシピを読んでいる。
 「……もっと静かに読めよ」
 早番のヤツ等が起きたら殺されるぞ、と、脅すものの、オルトの表情を見ているとそんなに強くも言えなくってしまう。
 「……へぇぇぇぇ……」
 当のオルトはそれどころではないらしい。
 「スッゲー……魚一匹とってもこんなにレシピがあるんだねー」
 「まぁな。客にはいつでも目新しい食べ方を提供したいからな」
 「これ、全部試した?」
 「ん?いや、半分ぐらいかな?ほら…この星マークが付いているのがお客に出した料理。星の数がランク。二重丸は厨房で試しただけで、全然印が無いのはまだ試してないヤツ」
 「絵も字も自分で?」
 頷きながら返事する。
 「ああ」
 オルトは全身で溜め息を吐きながら俺に言った。
 「俺、絵とか全然ダメなんだよねー。字も最悪。絶対サンジみたいなレシピノートとか作れないよ。なんかスゴい不気味なレシピノートになりそうで怖いよ」
 「ぶっ」
 吹かしていた煙草を吹き出して思わず笑ってしまった。
 「んーなの心配することないさ。書いてるうちに上手くなる」
 「ホント?」
 「ホントホント」
 俺だって最初はヒドかったんだぜ、と、続けると、
 「ウソだーっっ」
 目をまん丸にして声を上げた。
 「んじゃ…見る?」
 本棚の奥の奥に隠したノートを取り出してオルトに「ほい」と、渡した。
 オルトはボロボロのノートを開いて、暫く眺めてぽつりと感想を言った。
 「……すっごい…不味そう」
 「ん?オロされたいか?」
 ゴメンゴメンと謝りながら、オルトは興味深そうに古いレシピノートを一枚一枚丁寧にページを捲って眺め続けている。
 「…初めはさ、見よう見まねだったな。そのレシピ本もジジイのマネで始めたんだ。頭で考えるだけじゃ纏まったつもりになってても詰めが甘かったりしてたからさ。、最初はヒドかったな。カレーとシチューの書き分けどころか肉か魚か区別付かない絵しか書けなくってさー。つーか、皿自体書けなかったし。それだけで一度挫折しかけたもんな」
 「えー?サンジが?」
 「そーだよ」
 「信じられない」
 真っすぐオルトが俺を見て言った。
 「なんで?」
 オルトは直ぐに答えを返した。
 「だって、サンジはいつでも料理のことを考えてるもん。料理人以外のサンジなんて、考えられないもん」
 全然意味が違うけど。
 些細な言葉に傷付いた。
 「………そっか」
 なんか、急に心が冷たくなったような気がした。
 「はい、おしまい」
 オルトからノートを取り上げ、元に戻す。
 オルトには、俺の変化は気が付かない。
 ま、そうだよな。別に気付いて欲しい訳でもない。
 まだ見たそうにしているオルトに「また今度な」と、ウソを吐いて、誤魔化すために戸棚に用意しといた夜食を出した。
 「うわーっっ……上手そうだねーっっ。これは?」
 俺の気持ちも気付かずに、鈍感な男は驚いたような歓声を上げた。
 「ん?ライスコロッケ」
 「ライスコロッケ?」
 「美味いよ。食ってみな」
 油でカラリと揚げたピンポン球サイズのチキンライスをオルトの目の前に置いてやった。
 「うわー…頂きます」
 「ん」
 タバコに火を着けて、深呼吸をしながらこっそり気持ちを落ち着ける。
 オルトは、興味深そうにライスコロッケを眺めながら、目の高さまで皿を持ち上げ、慎重にフォークで崩して一口分を口に運んだ。
 「………うわ………」
 オルトの顔が、ぱぁっっっ…と、ほころぶ。
 「…美味しい……っ!!」
 ………んん。コイツ、無神経だけどやっぱ可愛い。
 オルトはパクパクと一気に平らげてしまった。
 「ごちそうさまっ!!」
 「ん」
 「すごいっっ。…チキンライスも油で揚げるだけでこんなに美味しくなるんだねっ。すごい…ホントすごいっ…。サンジ、料理って、完成形って無いんだねっっ」
 思わず苦笑いしてしまった。
 「……そうだな。…ったく、おめでたいな」
 「え?なんで?」
 キョトンとしているオルトに、タバコの煙を吹き付けてやった。
 「ゲホゲホゲホッッ……なんだよーっっ!!」
 「なんでもねーよ」
 ニカッと至近距離で笑ってやった。
 途端、オルトの顔が真っ赤になった。
 「んん?」
 「お、俺、明日早いから…もう寝るわっ。おやすみサンジッ。ごちそうさまっっ」
 ガタタタッッと、辺りの物を散らかしながら、オルトは俺の部屋から飛び出した。
 (………………?……)
 「……………なんだアイツ…?」
 その意味に気が付いたのは明日の夜。







 ゼフのグランドライン行きは、コック達にとっては正に寝耳に水だった。
 ゴツいコックもムサいコックも普通のコックも、クルードもオルトも、皆号泣していた。
 「なんだよ…テメェ等。今生の別れって訳じゃねーだろうが」
 「そんなこといってもオーナーっっ!!」
 「そーですよっオーナーっっ!!」
 「グランドラインって言ったらとんでもない所じゃないですかっっ」
 「航海日誌は郵送じゃ送れないんスか?」
 「届くかアホウ」
 「オーナーッッ!!」
 「オーナーッッ!!」
 「オーナーァァ……ッッ!!」
 デッキの上でゼフが困ったように皆を見回す。
 「おいおい……泣くなっ…闘うコックが…みっともねぇ…」
 そう言うジジイの目は優しい。
 ゼフは大きく息を吸い込むと、空気を震わせるような大声で皆に言った。
 「テメェ等良く聞けっっ!!!今日からサンジがこのバラティエの副料理長だ!!俺がいない間、サンジの言葉は俺の言葉だと思え!良いなテメェ等共っ!!このバラティエを頼んだぞっっ!!!」
 オーナーーーッッッ!!!
 俺以外の全員が、突き上げるように両手を上げて、吠えるようにジジイを呼んだ。
 「サンジ」
 割れるような雄叫びの中でゼフは俺に向かって唇を使って俺を呼んだ。
 俺は黙ってゼフをはっきりと見上げる。
 『しっかりやれよ』
 俺は黙って二ー三度軽く頷いてみせた。
 海賊の衣装を身に纏い、バラティエの中でも指折りの屈強のコックを数人従えたゼフは、ジジイのクセに…どんな海賊よりも強く見えた。

 「オーナーっっ!!」
 「お元気でーっっ!!」
 「必ず帰って来て下さいよーっっ!!」
 「コラーッッ!!そんな片側ばっかりに集まったら、船傾くじゃねーかっっ!!」

 ゼフが乗った海賊船を見送ろうと、皆片側の甲板にスズナリになって、ハンカチだのレードルだのフライパンだの菜箸だの包丁だのと好き勝手に振り回してて、最後の最後でゼフに怒鳴られていた。
 俺は、異常に傾いた船体に、バラティエの明日を見るような気分がして気が気じゃなかった。
 「………タバコ、増えそうだな……」
 バラティエとジジイはこの俺が守る。
 とうとう一人でこの俺が、このバラティエを守る日が来た。
 俺はかつてジジイの夢を潰してしまった。
 だから、もう後は、ない。
 俺は、このバラティエを守る。
 たとえ、この命と引き換えにしても。
 不安に圧し潰されそうになりながら、俺は、腹に力を入れて厨房に立つ。
 「さ、テメェ等、開店の準備だ。クゾジジイがいねぇからって、客にいい加減なモン出すんじゃねェぞ」
 気を抜けば、不安に震えそうになる声に、力を持たせて言い放った。
 さぁ、これからジジイが帰って来る日まで、一瞬だって気は抜けない。
 俺が、このバラティエを守らなきゃならないんだから。
 小刻みに震える足は、ズボンに隠した。







 ゼフが出掛けた初日。
 ベソベソ泣いてる野郎共のケツを蹴り上げながら店を切り盛りした長い一日がようやく終わった。
 「ふー……っ……」
 日付が変わって、ようやく自分の部屋に帰って来れた。
 ベッドに倒れ込んで目を閉じる。
 「………疲れた…」
 身体全体が石みたいだった。
 「……色々…ありすぎた……」
 なんか、心無しか筋肉が酸欠のような気がする。何だか末端が痺れているような感じ。
 直ぐにでも眠りに落ちてもおかしくないぐらいだるかった。
 まぁ、でも却ってその方がぐだぐだ悩まなくて済むから良い。
 「………………」
 半分寝ぼけながら上着を脱いで、床に落として、ネクタイを緩めてボタンを外した。
 このまま、ジジイがいないのに気が付く前に寝てしまおう。
 意識が沈んで行くままに、身体を預けて力を抜いた。
 どのくらい時間が経っただろうか。

 『コンコン…』

 ためらいがちなノックの後に、
 「……サンジ……サンジ……」
 オルトの小さな声が続いた。
 無視して寝てたらしつこく何度もノックされ、
 「…………チッ……どうぞ」
 最後は根負けしてドアの向こうのオルトに声を掛けた。

 「疲れてるのに…ごめん…」
 ドアの側で小さくなって俺を見る。
 「………分かってんなら来るなよな…」
 「ごめん……」
 しょんぼりしている姿は、叱られた犬と全く同じで、怒ろうにも怒れない。
 「……ま、来ちまったモンはしょうがない。そんなトコに立ってねェで座ったら?」
 ベッドに寝そべったまま声を掛けた。
 オルトは黙ってベットの側の椅子に浅く腰掛けた。
 「…んで、何?」
 あんまり長く黙られて、先に声を掛けたのは俺の方。
 「………」
 オルトは黙って俺を見ている。
 「…なんだよ。夜中に人の部屋に勝手に来といて、黙ってるってのはどーなんだよ?」
 「………」
 オルトはそれでも、黙って口を開かない。
 「…チッ…」
 どれぐらいそうしていただろうか、いつまで経っても口を開かないオルトにキレた。
 「お前、迷惑だぞ。用事無いなら帰れよ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、クッ、と、表情を硬くしたオルトが、ようやく固く結んだ口を開いた。
 「…俺…サンジが…一人で泣いてるんじゃないかと思って……」
 「………はぁ?」
 「…でも…泣いてなかったから」
 「……なら良かったじゃねェか」
 「良くないよ」
 怒ったようにオルトは言った。
 「良くないよっ。どうしてちゃんと泣かないんだよっ」
 「なに訳分かんないこと----」
 「ごまかすなよっ。ちゃんと泣けよっ」
 「……何言ってんだよ」
 「サンジはちゃんと泣けないのか?」
 あんまり的違いな図星を指されて、却ってムカついた。
 「…何言ってんだよ。ふざけんな。ったく人が寝ようって時に訳分かんないこと言ってんだよっ。出てけよっ」
 「イヤだっ」
 オルトは短くはっきりと拒絶した。
 「ふざけんなっ。誰の部屋だと思ってんだよっっ」
 思わず言葉が荒くなる。ベッドから上半身を起こして睨み付けた。
 「蹴り飛ばすぞ」
 「蹴りたかったら蹴れよっ」
 オルトは言い返してきやがった。
 「…良い根性じゃねェか……」
 だったら思い切り蹴飛ばしてやろうとベッドから降り立つと、オルトは飛び上がるように椅子から立ち上がって俺を睨んだ。
 「何で泣かないんだよっっ」
 「………っ」
 動きの止まった俺に、顔を歪めて半ベソをかきながらオルトは言葉を続けた。
 「ゼフがいなくなって一番寂しいのはサンジだろっ。……だったら泣けば良いじゃないかっっ」
 大きな目から、パタパタと涙が零れた。
 「おっ…俺だっ…てっ……こんなに悲しいのに……サンジが…悲しくないなんて…っ……うっ…ウソだ…っ」
 グイィィっと涙と鼻水を拳で拭う。
 「サンジはそうやって…いっつも我慢ばっかりだ。……我慢して我慢して…っ……泣くのも我慢してるんだっ。………なあっ…サンッ…ジッ…誰にも言わないでやるから…泣いちゃえよっ」
 全身を震わせて、『うーっ…』っと嗚咽を漏らして、オルトは俺に泣けと言った。
 「………なんで、俺が泣きゃなきゃなんねーんだよ」
 「サンジはっ…」
 一つ下とは思えないような幼さで、オルトはしゃくり上げながら、俺の気持ちをとうとう言葉にしてしまう。
 「ホントはとっても寂しいくせに……っ」
 オルトの言葉が突き刺さる。
 「…ふ……ふざけんな……ふざけんな……っ……」
 両手を固く握り締めて繰り返すのが精一杯だった。
 「……ふざけんな…っ…」
 そうだよこっちは必死で我慢してんだよっ。気付かせんなよっ。このクソバカっ。
 「寂しいくせに……っ」
 「言うなっ」
 「寂しいくせにっっ!!」
 「言うなぁ…っ……!!」

 俺は…あの日から、ずっとジジイと一緒だった。

 「泣いちゃえよっっ!!」
 「うる…せえっっ!!」

 離れるのは、今日が初めてだったんだ。
 心細くない………訳がないんだよ……っ……。

 力一杯歯を食いしばった。そうでないと嗚咽が漏れそうだった。
 「ガマンすることないんだよ、サンジ」
 涙と鼻水でグチャグチャになった顔で、オルトは言う。
 「サンジだって泣いても良いんだっっ」
 もう、限界だった。
 「〜〜〜〜〜〜っっ」
 俺はその場に踞り、膝を抱えて小さくなった。
 「………っ……うっ…ううっ……」
 膝頭に顔を思い切り押し付けて、せめて声だけでも殺して……。

 ゼフッ……ゼフッ……ゼフ…ゼフ……

 引き攣ったような呼吸を繰り返しながら、泣いてしまった。
 オルトは、俺の直ぐ側に寄って来て、静かに何度も背中を優しく撫でてくれた。
 「一杯泣きなよ。その方が良い…」
 直ぐ側でオルトの涙声が聞こえた。

 途中、俺より小さな両手が優しく俺の頭を掴んだ。それから…温かい息を掛けながらオルトが俺のつむじに小さなキスを一回、落とした。
 驚いて、顔を上げると、泣き腫らした目で俺を見詰めるオルトが、
 「…好きだよサンジ……ずっと好きだった…」
 そう言いながら、子供みたいなキスをしてきた。
 合わさるだけの、ぶつかるようなキスだったのに、どんなキスより嬉しかった。
 「…オルト…ぉ…」
 俺は、小柄で犬みたいなオルトの身体に覆い被さるようにしがみついて、唇を重ねた。
 貪るような口付けに、オルトは必死で答えてくれた。






 手探りでセックスをした。
 オルトの身体も俺の身体も笑っちまうぐらい緊張していて、ただペニスだけがガチガチに勃起していて、どうすれば良いのかも分からなかった。
 「…俺、サンジにだったらされても良いよ…」
 決死の表情でそう言ってくれたオルトがとても愛しいと思った。
 とっておきのオリーブオイルを塗りたくって、先っぽだけを差し込んだ。でも全然入らなかった。
 オルトがあんまり辛そうだから、『そのうち』にしようと約束だけして、挿れるのは止めにした。
 口でして、手でした。
 顔を真っ赤にさせて、恥ずかしがりながら上り詰めて行くオルトは、俺の欠けてしまっている『何か』を埋めてくれるようだった。
 結局上手くは出来なくて、熱い身体を抱き締めあった。
 「サンジ…」
 「…ん?」
 「…ごめん…俺……」
 「……何が?」
 「…上手く出来なくて……」
 「……旨かったよ」
 柴犬みたいなバラティエの見習いコックは、耳まで真っ赤になって俺の胸に顔を隠した。






 バラティエは、欠けた部分を満たす場所。
 腹を満たして、心も満たす。
 海に浮かんだ命の浮き島。

 海賊と闘う最強のコックが魚を守る。
 いつでもここは戦場だけど
 それでも客は穏やかに笑う。
 
 理由は一つ。
 それは、ここの料理が美味いから。


 辛くなったらいつでもここに来ると良い。



 オルトとディープキスが出来るようになって、きちんと根元までペニスを入れるセックスが出来るようになった。 ようやく俺は、ジジイの旅の安全を静かに願えるようになった。
 ジジイに託された包丁をやっと穏やかな気分で使えるようになった。





 そして。




 『うあああああっっっ!!!!』
 『……オルトーッッ!!!!』




 無敵な海のオアシスは、
 真の主を欠いたまま
 七十日間、檻になった。








 帰れるところなんてなかった。
 ジジイの包丁だけしか持ってくることが出来なかった。
 皮肉なことに、男を悦ぶ身体だけしか金を作ることが出来なかった。

 ジジイに見付かることがなによりも怖くて。
 託してくれたバラティエを守れなかったことが何よりも辛くて。


 逃げ回って、逃げ回って、最後に現場に辿り着いた。



 ……そして、俺は窓越しにゾロと、出逢う……





                     終わり

 




 top