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「……んん?…」
先刻まで調子良く進んでいたゼータ関数の計算が止まってしまった。
どこで理論が行き詰まったのか検証するもレポート用紙十数枚にも渡る計算式のどこにミスがあったのか、じっくりと三回見返しても発見出来ない。
「……チッ…」
途中で使ったアペリーの定理で感じた矛盾点まで戻り、じっくり検証したが決定的なミスの発見には至らない。
ボリボリと右手で頭を掻きながら、そのままサイドテーブルの上に一切れだけ残していたタマゴサンドを掴んで口に頬張った。
昼に食べた時と比べると(はっきりとした分率は不明だが)…幾分干涸びた食感を感じるものの「旨ェ…」好物のタマゴサンドは十分に旨かった。
「…まだあるか…?」
コーヒーポットを掴んで耳元で揺する。
注ぎボタンを押しながら昼に使ってそのままのコーヒーカップの上でほぼ八十七度位にまでポットを傾けると『チョロチョロ…』っとカップ五分の二程度の量のコーヒーが出て来た。
口を付けてゴクゴクと二度嚥下したら無くなってしまった。
「………腹減ったな…」
それに喉も乾いた。
またボリボリと頭を掻くと大きな欠伸が出た。
壁に掛けられた電子時計に目をやると午後四時十六分。
「………」
徐に決心して部屋を出た。
話し好きの学者に掴まるのは面倒だが、少なくともラウンジで毎日四時から開催される『ティータイム』に顔さえ出せば、上手くすれば差し入れや土産物にありつける。たとえ何も無くともコーヒーとクッキーだけは手に入る。
研究所の外に出て何か食料を調達してくるよりは手間も時間も費用もかからない。
計算も行き詰まってたんで丁度良い気分転換だ。
スーツに合っていないと不評だが愛用しているブーツをゴトゴト鳴らしながら俺はラウンジへと歩いて行った。
グランドライン研究所。
研究者に取っては余程の変わり者でなければ入りたいと思う研究所の一つだ。
グランドライン大学に併設され、広大な敷地内の中、特に鬱蒼と木々が生い茂った小道(つーかもはや獣道)の奥に建っているのがグランドライン研究所だ。
数年前、大学サイドの方から声が掛かり、一日に二単位分の講義と大学院生を対象にゼミナールを開講することを条件に『11号室』の研究室を与えられた。
分野は解析学。専門は微分積分。研究分野は積分だ。
大学の講義では微分積分学を担当し、ゼミでは積分のみを演習している
因に同じ解析学の研究者のロビンは確率論のエキスパートだ。
研究室では専ら関数を探求している毎日だ。
浅く広くでも良ければある程度の関数は理解しているつもりだ。
だが研究となれば探求するのはたった一つだ。
ゼータ関数。
あのリーマン予想のベースとなる数式だ。
ζ(s)
…これを見て直ぐに読み方が分からないなら、出来れば『ゼータ関数って何?』とか、説明に苦しむような質問はしないでもらいたい。
関数もココまで来ると説明するのは難しいんだ。
特に関数は視覚から取り入れる数式のスタイルを理解していくモノなんで、言葉で伝えるのは非常に難しい領域だからだ。
それでも学者の中でさえ質問して来るヤツはいる。
……噛み砕いて…噛み砕いて…噛み砕いてゼータ関数を説明すれば、定積分的に考えればごく普通のxy座標(座標平面)に置かれたxとyの数値においてx≠0の時にはyは0、x=0ならばyは無限に展開して行くことを表した関数なんだが……………………………………………………………………………………更に解釈を進めて行けば…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………素数の個数を特定するため………の…手段になりうる…数式……の一つだ…。
可能な限りムダな数式を削ぎ落とされたシンプルな計算式ではある。
見るだけならインターネットで幾らでも閲覧出来る。
もしも数式の羅列による説明を仮に感覚的にでも追うことが出来、尚かつゼータ関数を座標として表現するのにx軸やy軸の交わる点の集合で出現する波形だけではなく、面積や色も単位として用いられていることと、なにより数を『量』として捉えて行くことに違和感無く受け入れられるのならば、完全な理解はともかく研究してみる資格は十分にある。
あの座標に驚いているようじゃ数学の理解を深めて行くのは至難の業だ。
ただ、眺めれば眺める程、踏み込めば踏み込む程、果ては無限に繋がってしまうのだという事実を無視することが出来なくなり、探求して行くことに躊躇いや苦痛や恐怖、絶望を感じるようになっていくけどな。
俺か?
……そうだな…昔はもっと色々感じることもあったが……今はもうそんな不快な感覚は無い。
ただ……数に没頭していると。
……ふとした瞬間に…孤独を感じるようになった。
理由は…考えたことも無い。
興味があれば春と秋の学会の準備をしている頃に俺の講義を聞きにくると良い。
論文の発表のプレステージとしてゼータ関数の特別講座を不定期に開いている。
講堂の空席なら、ある。
ただし、予習は絶対だ。
最低でも数式ぐらいは頭に叩き込んでから来てくれ。
雇われの研究者としての義務を果たせば、残りの勤務時間の大半は自分の研究室に籠って過ごす。
学問問わず。
この研究所内では様々な事象の全てが研究対象だ。
新しい世界基準となる研究成果も数多く排出され続けている。
充分な設備の下、恵まれた環境で思う存分研究に没頭出来るとなれば、志のある輩がグランドライン研究所を目指すのも無理は無い。
結果、各分野共々トップクラスの実力者が集まった。
無論いつでも俺達はトップクラスであり続けることが要求される。
最低でも四年に一本は価値のある研究成果を発表することが義務付けられ、厳しいノルマに苦慮しているのだ。
常にモノゴトに対して興味と探究心を持って対峙出来るヤツだけが、このグランドライン研究所に属することを許されるのだ。
全員が皆、猛者なのだ。
続く
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