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 翌日。
 俺は一時限目の講義が終り、研究室に戻って自分の研究に取りかかった。
 ゼータ関数に手を加えた数式で作り上げた数式で計算されたデータを座標上に乗せて行く。
 不本意極まりないが、ここは少しパソコンの情報処理能力を借りることにした。
 実行キーを押下すると、ディスプレイの中に表示された座標の上に様々な色がグラデーションをかけて波線の中に出来た空間を塗りつぶして行く。
 流石にここら辺の作業はパソコンにやらせた方が正確なな描写のモノを書き出してくる。
 本来パソコンはブラックボックス以外の何者でも無いと考えているので、補助として使うことすら抵抗があって仕方が無い。
 だが、単純に計算能力はどう足掻いても太刀打ち出来ない。
 本気で取りかかれば数年と掛かってしまう仕事をものの1ー2時間で完了させてしまうのだ。
 座標もしかり。
 計算の速さもそうだが、複雑な関数の座標は想像を絶する形状を出して来る場合が多い。(関数によっては熊の形やら白の形やら恐ろしく緻密なレース模様状のものやら、とにかく複雑怪奇な座標を示すモノもあるくらいだ)流石に正確に素早く膨大な数値を計算するのもトンデモない形の座標を書き上げるのも時間のムダにしかならない。
 プリンターで出力した座標を手に取り思わず唸る。
 「……チッ…」
 想像以上の出来映えに意味無く腹が立ってしまった。
 不本意ながらも検証を始める。
 直ぐに没頭してしまい、時間が良く分からなくなった所で扉が小さくノックされる。
 合計三回。時間を置いてノックされた後、扉が開いた。
 「ああ、いたんだ」
 中に入って来たのはサンドイッチ屋。
 俺の顔を見て一瞬は驚いたものの、返事が無いのは良くあることだ。コックも既に慣れていて、それ以上は動じる気配も見せなかった。
 「オ・ファーメです。ご注文ありがとうございます」
 「ん…」
 いつも通り定時に配達に来たサンドイッチ屋がいつもとは違う面持ちでいつも通りに頭を下げた。
 「じゃ、ここに置きますね」
 「んん…」
 サンドイッチ屋は扉の直ぐ側のこの部屋の中で唯一スペースが確保出来ているサイドテーブルに、ランチボックスとコーヒーのポットを置き、代わりにテーブルの上に置いてあった代金入りの封筒を手に取った。
 「まいど」
 「ん…」
 いつもだったらこれで用事は終了だ。
 サンドイッチ屋は小さな頭をちょこんと下げてするりと細く開けた扉の隙間から廊下へ出て行く。
 いつも通りの行動を意識のどこかで予測しながらそのまま検証途中の座標に目を戻した。
 「………?」
 なぜかサンドイッチ屋はいつも通りに部屋を出て行かない。
 「…何か用か」
 声を掛けるとなぜか一瞬眉間に皺を寄せ、口の両端が下がった。
 「や…用事ってほど用事じゃないけど…ま…あるって言えばあるんだけど…さ…」
 「…お前…まわりくどいな」
 「ぐ…っ」
 他ではちょっと見たことも無いような形の眉がピクリと動く。
 「や…あのさ…」
 顔色が赤くて目付きが睨み付けるようになっている。
 険しい表情になっていたことに何かの拍子に気が付いたのか、ハッ…と目を見開きながら小さく口を開いて声にならない程度の呼吸を吐いた。
 「あの…ロロノアさんってチキンも食えますか」
 ピクピク動く眉毛が面白い。
 「ああ食える」
 パッと更に目を大きく見開き、サンドイッチ屋が「じゃこれ…っ」と、廊下に出したままのワゴンから別のランチボックスを取り出してくる。
 「ホントは直ぐ食べた方が旨いけど、夕方までなら一応美味しく食べられるから……っ」
 唾を飲み込み一息ついて
 「あのさ、コレ買ってくれない?安くするからさっ」
 言った後、今度はほとんど聞き取れない音量の声で
 「…注文の数…間違えて作っちゃって…さ…余らせるのが勿体無くて…このチキンサンド、特注だから…値段高くて学生さんには売れないんだ……売れ残すのが勿体無くてさ…」
 あ、勿論ダメなら良いんだっ!!俺が食うしっ!!早口で付け足す口調が妙に気に入った。
 「一つで良いのか」
 「え…買ってくれるの?」
 「ああ」
 「ホント…?」
 「ああ」
 「ウソっ?マジで?」
 「ああ。で?幾らだ」
 「あっ…えと…じゃ…四百五十円で…良い?」
 価格を言うのになぜ疑問形の口調なのかが不思議だった。
 上目遣いの表情もアンバランスだった。
 だがコロコロと表情が変わるのは面白い。
 「オ・ファーメのサンドイッチにしちゃ随分高いんだな」
 「そうなんだよ。コレ特別な地鶏使っててもの凄く原価が高いんだ。普段は絶対使えない食材なんで、注文入って初めて肉屋に仕入れに行くくらいでさ。滅多に出来ないメニューだから、作るのは好きなんだけどすげーセレブなサンドイッチなんで店頭に並べられなくって…」
 確かにこいつの店のサンドイッチはとにかく安い。
 百五十円の商品の品数が最も多く、高くても二百円、安い物に至っては百円を切る時すらある。
 その中で安くしたとしても四百五十円は高過ぎる。
 「そりゃ…置けないな」
 「そうなんだ。だから助かるよ」
 (先刻のハッとした顔をもう一度見てェな…)
 「全部売れたのか?」
 「いや…これ高いし…」
 「全部貰う」
 と財布を取り出す。「幾らになる?」
 「えええ?!」
 今度こそ完全に目を丸くしてサンドイッチ屋が驚いた。
 「いいよ。そんな、量多いし食いきれないよっ」
 「幾つある?」
 「えっと…後…六個はあるよ?」
 「分かった。釣り銭あるか?」
 「あるけど…」
 戸惑うサンドイッチ屋に財布から五千円札を渡した。
 「えっ…あっ…ちょっ……」
 両手を揃えた掌の上に乗せる。
 「………」
 「………いいの?」
 「勿論」
 見上げるように俺を見た時の下がった眉毛もまた面白かった。
 「なんか…ロロノアさんスゲー良い人に見えて来た…」
 それからサンドイッチ屋は見たことも無いような笑顔になった。
 「っ…」
 本当に見たこと無いような顔になった。
 「ありがとうございます…っ」
 深々と頭を下げられ逆にこっちが焦った。
 「…で…あの…悪いんだけど…全部で幾らかな?」
 内心(何ぃっ?!)と驚きながらも「…三千百五十円だ」と答える。
 「あ、ホント?じゃあ…五千円だと…えと…二千…じゃなくて…百五十円があるから隣りから千円借りて来て…」
 (隣りから千円借りる…?)
 「で…えっと…わー…難しいなぁ…」
 (…どこがだ?)
 「えー…あれ?どこまで計算やったっけ?」
 …冗談か?
 「うーん…えーと…あー五千円預かったから………」
 …本気らしい。
 暫くウンウン唸っていたサンドイッチ屋、たっぷり二分は悩んだ後、
 「良いや。はい二千円のおつりです」
 はい、と千円札二枚を俺の目の前に差し出した。
 「…いや、それじゃ釣り銭が多いぞ」
 「あ、いいよいいよ。こんなに買って貰ったんだもん。コレぐらいサービスするよ」
 「んな、最初から割引したんだろ?」
 「そうだけど、ほら、俺暗算とか弱いし」
 いや、コレぐらいは暗算のうちにも入らないだろう?
 「八百五十円あるか?」
 「え?なんで?」
 首を傾げて不思議そうに聞いてくる。
 「あるのか?無いのか?」
 「そりゃあると思うけど…」
 「じゃあ寄越せ」
 「何で?」
 「(イラッ…)良いから寄越せ」
 「えー…しょうがねーなー…じゃあちょっと待ってろよ」
 待て(怒)と言いそうになるのを堪えてサンドイッチ屋が自分の財布から小銭を探すのをじっと待つ。
 「七百…八百……一…二…三…四……あれ?…ね、五円と一円入っても良いか?」
 「良いから」
 「ホント?……あ、ヤベェ五円かと思ったら子供銀行のコインだし。ね、一円でもーー」
 「良いから早くしろっ」
 ピクリと片方しか見えない眉が動いたが、サンドイッチ屋は黙って一円玉をなんとか十枚取り出した。
 「はい。八百五十円」
 大量の小銭が俺の掌に乗せられたのと同時に千円を差し出す。
 「…え?」
 押し返された千円を勢いのまま握らされたサンドイッチ屋は、大学の講義で全く授業について来れなかった学生と同じような顔をして俺の顔を見る。
 「これで俺が貰ったのは千八百五十円。正当な釣り銭だ」
 「………え…?……そうなの?」
 「そうだ」
 「うわ……ぁ……すげー…何だか分かんないけど…助かりましたっ。俺、数学苦手で」
 いや…数学以前にお前、算数が苦手だろう。
 「そりゃ…大変だな」
 言葉への突っ込みも、暗算が苦手なら電卓を持って歩け、という忠告も出来なかった。
 「そう、大変なんだよ〜」
 サンドイッチ屋の笑顔に全部意識を持って行かれたからだった。
 何か…衝撃を感じるような笑顔だった。
 分かっていたつもりだったが、改めて可愛い顔した男なんだと気が付いた。
 気付いたらサウナで会ったエースのことを思い出した。
セックスを思い出し、エースの体を思い出し、声とオーガズムに達した時の表情を思い出した。
 思い出したら昨日のマルコとのセックスまで思い出した。
 いつもと全く違う痴態を見せるギャップ…。
 全然似ていないが、エースとサンドイッチ屋の二人は良く似ているんじゃないかと思う。多分属で分類すると同じ系列になるんだろう。

 (…欲しい)

 

 漠然とした想像や願望ではなく、はっきりと明確に明瞭に、目的を持って欲しいと思った最初の瞬間だった。

 「ホント、無理してない?」
 「………ああ」
 どうやってこの目の前の男を攻略しようか。
 「食い切れる?結構ボリュームあるよ」
 「問題ない。…オ・ファーメのサンドイッチは好物だからな」
 「…うわ」
 「何だ?」
 「や…ロロノアさんからまさかそんな言葉が出るとは思わなかったから」
 「……ゾロ」
 「……え?」
 「…ゾロで良い」
 「…へ?」
 「ロロノア・ゾロ…ロロノアの方で俺の名前を呼ぶのはお前だけだからずっと違和感が気になってた」
 「あ…そうなんだ」
 「だから出来れば他のヤツ等と呼び方を合わせてくれないか」
 「あ…はい…分かりました…ゾロさん」
 「『さん』もやめてくれ」
 「え、でもお客さんだし」
 「ゾロで良い」
 暫く考え込んでいたサンドイッチ屋が小さく数回頭を縦に振り、俺の顔を見た。
 「分かりました。じゃあ…ゾロ、で」
 「…ああ。その方がしっくりする」
 ………性欲が押さえ切れない時にだけ感じる体の奥のジリ…とした感覚に下腹部が反応した。
 名前を呼ばれただけでこれだけ反応した自分の身体に内心酷く動揺した。
 だが顔には出さずに無表情でいられた…とは…思う。
 
 (この男も俺と同じ性癖であれば良いのに…)

 と本気で願う自分に驚く。
 「ありがとうございます。じゃ、また明日」
 「……ああ…」
 頭を下げるサンドイッチ屋の服を妄想で剥ぎ取り、
 部屋から出て行く後ろ姿にセックスで感じているエースの姿が重なった。

 もしもこの男とセックス出来ると仮定したら…
 俺達は一体どんなセックスをするんだろうか…
 
 想像するだけで反応しかけていたペニスが完全に勃起する体勢になってしまった。
 「………」
 まるでガキだな…
 一人苦笑いをしながらも、ズボンのベルトを緩めながら三人掛けのソファーの所へと歩いて行った。

 

 

 「おはよー」
 朝大学に向う最中に後ろから声を掛けられた。
 振り返ってみるとエースが立っていた。
 「おはよう」
 挨拶を返すとニニッ!!っといつもの笑顔になったが、目の下には普段じゃ絶対に見られないような隈がある。
 おそらくマルコがセックスのためにエースを片時も放さず、睡眠時間も相当削ったのだろう。
 「少し痩せたか?」
 「あー…そうかも」
 ニシシ…と笑うが、いつもと違ってどこか艶のある仕草に見えた。
 「大丈夫か?」
 「勿論。幸せだったしね」
 「何?もう出掛けたのか?」
 「うん。今度は小笠原。鯨の生態密着一ヶ月」
 「忙しい奴だな」
 「まぁね。来月帰って来る頃には今度は俺の番だし」
 「繁殖期が数日しかないヤツだからね。ようやく今回タイミングが合わせられそうなんだ」
 嬉しいけど、寂しいね。
 エースの言葉が耳に残った。
 「この前はごめんよ」
 「何が?」
 「んん?イロイロ。マルコってさ、案外見られた方が興奮しちゃうタイプらしいんだよね」
 「ああ…」
 「ゾロに見られてもの凄い興奮してたんだぜ。アイツ」
 「…お前もだろう」
 「…バレてた?」
 「……ああ。バレてた」
 うわぁっハズカシいっvVと、おどけてみせるエースの頬がほんのり赤く染まって見えた。
 本当に恥じらっているんだと分かったら、やっぱりこいつも可愛い男なんだと確信した。
 「ね、またホテル行こうよ」
 「…マルコがまた怒るぞ」
 「大丈夫。今度はバレないようにする」
 「どうだか」
 「や、ホント大丈夫だって」
 「…まぁ……時間があったらな」
 「よしっ!!じゃあ今夜っ」
 「…阿呆」
 「それマルコにも良く言われんだよなぁ。それから研究所の他のヤツ等にも。俺、一応生物学の権威なんだけど」
 頬を膨らませて横を歩く姿に思わず吹き出した。
 「おっ、久し振りに笑ったな」
 「お前がアホなこと言ってるからだ」
 「そうか?でもゾロ、お前笑うとスゲェ良い男だぜ?」

 「エース」
 正門の側のオ・ファーメの前でサンドイッチ屋がエースに声を掛けてくる。
 「あーっ、サンちゃーん。おはよーっ」
 「おはよっ。あれ?今日は二人?」
 「まぁねっ。良いだろう」
 「あはは…」
 「今日はフィレオフィッシュサンド出す?」
 「うん出すよ」
 「じゃ、後で注文する」
 「あ、はーい。特注のにする?」
 「勿論っ」
 口調からしても仲が良さそうだ。
 エースがまた後でと手を振ると、サンドイッチ屋がカウンターに肘をついたままハイハーイと手を振り返す。
 「………」
 やり取りを眺めていたら、突然サンドイッチ屋が俺の方に視線を合わせた。
 「……っ」
 「おはよう。ゾロ」
 普通に自然に。
 俺のことを『ゾロ』と呼んだ。
 「…ああ」
 「ゾロはいつもので良い?」
 「…ああ」
 「じゃ、後で」
 「……ああ」
 ポーカーフェイスでいることがこんなに難しいことなのだと、生まれて初めて俺は感じた。
 

 「……ゾロってさぁ」
 「ん…?」
 「…んーん。何でも無い」
 エースは、なぜか何かを企んでいる時しか見せない笑顔を俺にみせた。
 「来月まで退屈しないですみそうだ」
 若き生物学者の企みに、俺はまだ気付いていない。  

 続く

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