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 「…もう十時半か…」
 一通りメールの用件を終わらしたら随分時間が過ぎていた。
 約束の十一時までもう三十分しか残っていない。
 「計算は…来週やるか」
 続きをやろうと楽しみにしていたんだがな。
 気が付いて、机の上の缶コーヒーをもう一本開ける。
 やっぱり旨くは感じなかった。
 「…綺麗にしておくか」
 脱ぎ散らかした服と丸めた毛布でベッド代わりにしている三人がけのソファーは殆ど見えなくなっていた。
 俺は別に構わないが…相手は…構うか。
 このファーを見て、移動したいとか言い始めたらそれはそれで面倒臭い。
  すっかりこの部屋で調教をする気になっていた俺は、意を決して生活感溢れるソファーの周りを片付け始めた。

 

 

 

 調教。
 言葉の通り『訓練』だ。
 言うことさえ聞けば報償を与え、聞かないのなら罰を与えると言うことを加味して考えれば、躾といっても良いかもしれない。
 俺達の趣向の世界では性の快感の幅はノーマルなセックスよりも確実に広い。
 男ならば挿入も受容も可能な分、快感の種類も性質も多くなり、色々と常識に囚われること無く楽しむことが出来る。
 特に受容する場合には女のような身体の構造の持ち合わせ無い分、感じる快感は随分異なってしまうかもしれないが、それでも十分エクスタシー状態に引き上げることは可能だ。
 射精無しのドライオーガズムもペニス以外で絶頂感を味あわせるエナジー・オーガズムも通常のウェットオーガズムとはかなり違った快感を楽しむことが出来る。
 あまりにも性に奔放過ぎるエースが側にいるせいで随分影響を受けてしまってはいるが、初めて男が男相手にセックスをするのはやはり抵抗があって躊躇してしまうのは十分に理解出来ているつもりだ。
 まして受容する側…つまり抱かれる側になるのであれば、その最初の時の抵抗感は計り知れないことだろう。
 興味があってやりたくてたまらない…と言うのなら話は別だが、全くノーマルな男の中に本質と適正を見出して、コッチの世界に引きずり込もうって場合はそうも行かない。
 ノーマルな男は最初の一ー二回ならば、何とか好奇心を引き出すことに成功すれば、あるいは身体を許す場合もあるかもしれない。
 だが、ノーマルは所詮ノーマルだ。
 数少ないチャンスの中で徹底的に快楽を教え込んでやらないと、そう簡単は仲間には出来ないのだ。
 困ったことに始めから同じ性癖を持った男よりも、元々はノーマルだった男の方が好みだというホモの人口割合は決して少なくない。
 日頃ケツを貸しあいながら自分の欲情を宥めつつ、本命のノーマルを想う真性達の悲恋を聞くと、流石に不憫に思うこともあるくらいだ。
 だが、それぞれにはそれぞれの事情もある。
 成就することもしないことも自己の責任の上に存在しているのは手順は複雑かもしれないが、ノーマルな恋愛と全く同じだ。
 基本は自分で時間を掛けて情にでも身体にでも好奇心にでも良いから訴えかけてチャンスを生み出し、しっかりと快楽を教え込む必要が有る。
 未知の体験を経て性感の開発を進め、やがては快楽に溺れさせ、羞恥心を取り去り、最終的にはセックスを担保に主導権を握らなければ繋ぎ止めることは難しいだろう。
 全ての行程を自力で行なうのが理想の形であるのには違いないが、ノーマルの男に新しい性癖を植え付けるのは最初の数回しかチャンスは無い。
 身体が男に慣れて、自分の中に存在する快感に気付くまでのセックスは非常に重要なのだ。
 もしもどうしても手放したくない男がいるのならば、イメージと勢いだけでは成功率が低いのが現状だ。
 そこで『調教』が必要不可欠になってくる。
 先ずはしっかりと訓練を受けさせるのが仲間を増やし、恋愛の幅を広げる成功の近道なのだ。
 俺はエースと知り合って間もなくエースが研究上で知り合った仲間同士で構成している『調教』のチームの一員にならないかと声を掛けられた。
 断る理由も見付からず、誘われるままに仲間になった。
 エースが受ける依頼の相手は様々なタイプがあるものの皆好みの男ばかりで俺も十分楽しませてもらっている。
 だが、大抵は二度目、三度目のアナル拡張が目的の男達の調教で、全くの初体験の男に当たることはほぼ皆無だ。
 確かに俺の完全に勃起しているペニスを最初から入れられたら快感を感じる前に大怪我させかねないというのも尤もなので文句はあまり言わないように心掛けている。
 普段我慢している分、バックバージンの男の調教を頼まれると否が応でもテンションは上がる。
 生まれて初めて犯される。しかもそれは同時にアナルを犯されることを意味する。
 犯すことしか知らなかった男が二つの未知の体験に直面した時の…あの表情。
 このまま喰い付いて噛み殺してやろうかと思うくらい興奮してしまう。
 経験が無く知らなかった事象に対して『知る』瞬間の表情を独り占め出来るのは…楽しくてたまらない。
 この男は言葉には説明出来ない…説明することが出来ない感覚を今味わっている。
 自分と『全く同じ感覚』を味わっている人間が他にもいるかどうか確かめる術も無く、無論分かち合うことも出来ず。
 ただ一人きりでその『絶頂』を味わう。
 一体どんな気持ちだろうか。
 やはり孤独な気持ちになるのだろうか。
 絶頂の中で、のたうち回ることも出来ずに全身を硬直させたまま、更なる快感を探し求めている姿に……時折リーマン予想の解を探し求め続け計算をしている自分の姿に重なる瞬間がある。
 限界の中で更に『その先』を探し求める自分の側には同じ感覚を感じている者は誰も居ない。
 それでもその空間に自分を常に置きたいと願い、行き着く先に辿り着きたいと全霊を傾ける。
 たとえ今よりも先に進んだ時に知る『刺激』が自分を狂わせ破壊しうる力を持っているものであっても。
 「………」

 息も絶え絶えに快感にのたうちまわる男に更なる快感を与えるのが好きだ。

 快楽を求めるように調教すると。
 なぜか孤独感が薄れる気がする。
 
 今日は久し振りの調教だ。
 しかも相手は初めて受容するセックスを知りにくる。
 思う存分…楽しんでやろうと思っている。
 

 

 

 『コンコン』
 適当だったがソファーとソファーの周りを全裸にされても嫌悪感を抱かれない程度に片付け終わった頃、研究室の扉がノックされた。
 (?)
 一瞬心当たりのあるノックのような気もしたが、別に耳が特別良いと言う訳でもないので期待をせずに返事を返した。
 「どうぞ」
 無意識に壁に掛かった時計に目をやる。
 時間は十一時ジャスト。
 約束の時間だ。
  (…時間きっかりだな)
 定時丁度の来訪に自然と心証も良くなった。
 (これは丁寧に調教してやらなきゃならないな…)
 気の引き締まる思いでもう一度声を掛ける。
 「どうぞ…」
 『…ギィ…』
 返事と重なるように重い一枚板の扉が音を立てて内側に開く。
 これから始める行為に少なからず興奮しながらもあくまでもポーカーフェイスで相手が顔を見せるのを待っていると……
 「!!!」
 希望はしていたが期待はしていなかった男の顔がヒョコリと顔を出して来た。
 「お前…っ…」

 白い肌。
 青い瞳。
 クセの無い細い髪。
 一度見たら忘れられないような眉の形の…。

 「よう」
 「……おお…」
 
 整った造作の。
 心地良い声をした…。

 本気で幻覚を見ているんじゃないかと焦った。
 あんまり希望していたんで、とうとう頭の回路が何かおかしなことになり、結果都合の良いものを見ているんじゃないかとすら思った。
 なぜなら。
 扉を開けて顔を出してきたのは…
 この瞬間までずっとセックスしたいと想像していたサンドイッチ屋だったからだ。
 「………」
 俺があまりにもアホ面していたんだろう「…どうしたんだよ?大丈夫か?」と、目を丸くして心配そうに見上げている。
 「ほい」
 返事もしないでサンドイッチ屋の顔を見たまま固まっている俺の対応に困ったのか、クルッと巻かれた他ではまず見ることの無い眉毛を下げながら、手に持っていたランチバスケットを差し出してきた。
 「ほい昼飯」
 ハラ減っただろう?と、渡されたバスケットはずっしりと重い。
 「………」
 「や…ほら、今日って休講だろ?他に注文も無いから」
 「………」 
 「…喜べ。俺様の特製ランチだぜ?」
 ニカッと笑った顔に…「……あ…ああ…」
 クラッと目眩に似た感覚を味わう。

 カモがネギを背負ってやってくる。

 ふと以前パウリーから聞いた諺が頭に浮かんだが、なぜか頭の中ではアヒルがガーガー言いながらサンドイッチを背負っている姿が浮かんでいた。
 
 正直どうにかなりそうだった。
 さりげなく時計に目をやりもう一度時間を確認する。
 十一時五分…。
 依頼の時間は十一時。
 時間的にはぴったりだ。
 掛ける言葉が見付からなくてやっぱりアホ面したままサンドイッチ屋を見詰め続けていた。
 頭の中では全裸のサンドイッチ屋が何やら笑いながらガーガー言っているのを妄想している。
 鼻血が出るんじゃないかと焦った。
 何やらぎっしりと詰められて重いバスケットからはいつものメニューとは違う良い匂いまでしている。
 「…今日は注文してないぞ…」
 やっと出た言葉は気持ちとは完全に真逆の棒読みだった。
 「あ、うん。そうなんだけどさ」
 サンドイッチ屋の表情が少しだけ困ったようにも…見ようによっては照れているようにも…見てとれる。
 「俺、今日さ…朝…ゾロ歩いてるの見かけてさ…で…まぁ…何だ?…ほら…何となく?」
 「何となくでこんなに手の込んだメシ作るのか?」
 「あ…うん…まぁ…な」 
 要領を得ない口調に期待した。
 「…お前…俺が何しに来たか知ってるのか…?」
 「え?…あ…や…んー…急な仕事が入った…とか?」
 (ぐっ…そ…その通りだ…)
 昨日突然『調教』の依頼が入った。
 『仕事』と言えば言えなくもない…。
 まさか言い当てられるとは思ってもいなかったせいか、冗談抜きで心臓がどうにかなるかと思った。
 「…お前…何でこの時間に…?」
 「え?だって頼まれんのってこの時間だろ?」
 最終確認として尋ねた質問に、逆に平然と聞き返された。
 「食うならやっぱこの時間だろう?」
 (喰うなら…この時間……確かにそうだ…)
 依頼人と会う約束をしたのは十一時。
 『喰う』と言う言葉を良くセックスを強請る奴が口にすることがあるが…こいつが言うと…溜まらねェな……。
 ゴクンと生唾を飲み込んでいると、
 「ほらな。ハラ減ってんだろ?」
 どこか優しい口調で言われてしまった。
 「…っ…ああ…」
 多分今の俺の頭は正常に働いていない。
 「ほら、早く食えよ」
 形の良い唇の両端を上げて笑顔になりながらサンドイッチ屋が言う。
 「俺の。好物なんだろう?」
 「…誰から聞いた?」
 「ん?…エースからだけど?」
 「…いつ聞いた?」
 「…べ…別にいつでも良いだろっ」
 突然何かを思い出したように狼狽えた表情に心拍数が一気に上がる。
 「…昨日か?」
 「…っ!!」
 「どうなんだ?昨日じゃないのか?」
 サンドイッチ屋の顔が耳まで真っ赤になり視線が泳いだ。
 「…どうなんだ?」
 「…そうだよっ。昨日だよっ」
 口調は荒いが照れているのが原因なのは経験上、明らかだった。
 …今度こそ本気でどうにかなると思った。
 (間違いない…間違いない。調教するのはこいつだ…)
 「…入れよ」
 「…え?…良いの?」
 「…勿論…一緒に喰おう」
 シックスナインの体勢でお互いのペニスを銜えた姿を想像しながら早く部屋に入れと合図を送る。
 想像するだけで勃起しそうな気配を感じた。
 …調教の依頼でここまで興奮するのは初めてだった。
 「あ…でも…忙しくねーの?」
 「別に」
 「ホントに?」
 「ああ別に…時間はたっぷり有るから問題ない」
 「あ…でも…」
 躊躇う姿にそそられる。
 「ハラが減って仕方が無いんだ。早く喰わせてくれないか?」
 「あっゴメンっ…でも、ホントに俺入っても良い訳?」
 (何言ってるんだ。依頼人がいなけりゃ始めることも出来ねェだろう?)
 諄いぞ…と言いかけたものの、グッと堪えて口端だけで微笑って見せた。
 扉を大きく開けてサンドイッチ屋を部屋の中に慎重に招き入れながら、俺はエースの言葉を思い出していた。

 

 大丈夫。
 ホンモノの挿入以外は色々試してる子だから。
 感度は良いし、凶暴な上に恥ずかしがり屋さんだけど、一回感じ始めればびっくりするくらいエロくなるタイプだしっ。
 後はホンモノの味を教えるだけだからさっ…
 『知っている奴なのか?』
 『うん良く知ってる筈だよ』

 

 「…っ」
 エースの野郎…。
 今回ばかりは…
 恩にきるぜ。

 サンドイッチ屋を完全に部屋の中に入れる。
 ベッド代わりのソファーに座るように促しながら、

 『ガチャリ…』

 絶対に音が聞かれることが無いようにと、
 細心の注意を払いながら。

 

 俺は後ろ手で扉の鍵を静かに掛けた。

 

 

 続く

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