「家との鎖が切れる時」

 通い慣れた細い道を歩いていく。
 昔に比べれば、かなり近くまで車で来れるようにはなったものの、それでも最後の数キロは、頑に開墾を拒む。何でも、結界の最大範囲に入るらしく、あらゆる磁気を帯びたものは持ち込むことの出来ない、山城一族にとって言わば聖域であるからだ。
 医療器具が詰まった僕のカバンは重く、何度も持ち替えなければならなかった。
 「お持ちしましょうか?」
 結界の外まで迎えにきていた一族の使用人、水屑が何度も声を掛けてきた。
 「いや、大丈夫だよ。女の人にこんな重たいものを持たせる訳にはいかないよ。いくら年を取ったとはいっても、僕も男だしねぇ」
 「………」
 日の暮れかかる山道をそれでも僕なりに急いで辿った。
 人一人がやっと通れる程度の細い道。踏み固められた地面はほんの僅かなものだ。鬱蒼とした森は、細い木々と熊笹に被いつくされ、行く手を遮ろうとする。時折剥き出すように転がる岩は、全体が密集した苔に被われ、この土地の水分の多さを物語る。しっとりとした地面は気を抜くと足を滑らせ、バランスを失いそうになってしまう。
 慎重に、それでも最大の急ぎ足で。気持ちばかりが前へ前へと進んでしまい、気持ちが焦り、足は取られる。湿った空気が体中に嫌な汗を掻かせる。首筋からツ…と、流れる汗に不快感を覚えた。それでも、急がずにはいられない。この道の突き当たりにひっそりと建つ家には、私の到着を待つ、重病人がいるのだから。
 昼でさえ、僅かな光しか差し込まない森。自然のままの姿を色濃く残すこの山を含め、この一帯の土地を所有する山城一族の中心部がここにある。一族ですら、一部の人間しか立ち入りを認められない家がそこにはある。山城家専属の主治医である僕ですら、滅多なことでは呼ばれることもない。決して家の存在を口外しないことを条件に、僕の家系は代々山城一族の担当医を務めている。その見返りは法外なもので、この過疎化の進む片田舎で最新の医療機具を取り揃えることの出来る唯一の診療所として賑わっている。
 商業・工業・流通・経済・行政。他にもあらゆる分野の要である山城一族は、たとえ東京に進出したとしても十分な力を持っているにも関わらず、頑にこの地に留まり生活を続けている。これと言って目覚ましい特性も、主要の生産物も産出物もない小さな村が、観光地でもあるこの島の中にあって、今だ観光事業の手が伸びないのは、ひとえに山城一族の力があってこそのものなのだ。水源豊かなこの村は、山城一族の手で守られていると言っても過言ではない。広大な山林は、今だ手付かずの原生林がそのままの姿で存在していた。
 その、山の中奥深くに山城一族の中枢があるとは、誰も思いもよらないだろう。
 僕だって、この仕事を継いで医者にならなければ、知る由もないことだった。
 100年程前に改築されたその家は、基礎の部分はそのまま保たれ、最古の部分は建築されてから実に800年を優に超える。山奥に切り開かれた200坪程の土地に建つ古典的な日本建築。使われた資材は、柱や土壁は勿論のこと、茅葺きの屋根一つ取っても贅の極みを呈している。装飾の絢爛さこそないものの、縁側の平板一枚取っても製材に100年以上を有した、現代の日本では既に手に入れることすら困難な逸材ばかりだ。
 手入れの行き届いた庭。鬱蒼と生い茂る原生林に溶け込み馴染んだ屋敷の外観。この水分の多い土地に侵食されることなく維持させるには、一体どれだけの労力と財力を必要とするのか、僕にはとうてい想像も付かない。
 電気もガスも水道も存在しない家。生活感の匂いのしない家。でも僕は、あの家に行く度に言いようない、家の存在感と重圧感に息苦しささえ覚えてしまう。
 以前一度だけその家に住む当主に『怖い家だな』と、言ったことがある。
 その時、僕より15歳も年の離れた若い当主は、少しだけ寂しそうな顔をしてこう言った。
 『……そうだな。………この家は、鎖を持っているからな…』
 何のことだか当時の僕には分からなかった。
 でも、今は彼の言った言葉の意味が良く分かる。
 確かにあの家は、鎖を持った家である。
 先代が亡くなり、次期当主としてハクが選ばれた。
 儀式としての継承の儀に私は招かれた。
 儀式の内容は知らない。
 ただ、僕は儀式にて切り離された左足と左手と左目の後処置のために呼ばれただけだから。
 『ハクッ……どうして…………どうして……』
 限られた機具で懸命に止血をしながら、当時泣いていたのは僕だった。
 『大丈夫……大丈夫だ。……私は決して死なないから………』
 ハクは失いそうになる意識を懸命に保ちながら、優しく僕の背中を撫でてくれた…。
 『どうして君は逃げないんだっ。僕が連れていってあげるから』
 『……いや、私はここに留まるよ』
 『どうして……』
 『……山代に気付かれた。……私には、君を守る力がない……』
 苦痛の中の悲痛な呟き…。
 「擁護先生……後もう少しですから…」
 僕の足下を心配しながら、水屑が何度も振り返る。
 「ん、分かった。ありがとう」
 僕には同じ景色の連続でも、あの家に住む者だったら、僅かな違いも目印なのだろう。
 水屑の言った通り、それから暫くしないうちに、突然目の前の視界が広がった。
 ぼったりと、重たい屋根を力強く支え、毅然とした姿の日本家屋。原生林にあるまじき建造物であるにも関わらず、異常なまでに景色と溶け込んだ家。不思議と人間の生活感を感じさせない。…まるで、家自体の存在感の大きさが、人間の気配まで飲み込んでしまったかのような。
 家であるにも関わらず、名前を持つ家。
 山代。
 音だけであれば、山城と全く同じその名前。信じられないことではあるが、山城の名の方が、家より歴史が浅いと言う。
 静かに佇むその家を見上げた時、無言の重圧感をより一層強めているなと、ふと感じた。


 「擁、護、よくきた、な」
 玄関で靴を脱いでいると、廊下をパタタッッ…と、稽古着姿の少女が走ってきた。
 「おや、テアイちゃん、久し振りだね。元気にしていたかい?」
 「テアイ、は、げん、き。だ。擁護、は?」
 舌足らずの声で聞いてくる。
 「うん。僕はこの通り」
 「そか。げん、き、は、良いこと、だ」
 確か今年で12歳とか言っていたが、どう見ても7-8歳程度の子供に見える。
 成長と言語中枢を引き換えに、潜在能力を引き出されたと言っていた。武術と呪術に長けたこの子供は、決してこれ以上成長することもなく、言葉を流暢に話すこともない。一生を家に繋がれて生きていくのだと、山城の当主は言った。
 呪術。
 初めて聞いた時、僕は自分の耳を疑った。
 僕は職業柄、信仰から来る呪術の存在は知っている。気から病を直す点では、医療的にもあるいは有効なのではないかと密かに考えていたりもする。でも、根本的には何の信憑性も存在しないと確信していた。
 だが。
 山代の家に出入りするようになって、僕は自分の考えが間違っていたことに気付いた。
 こんな山奥に一族の中枢があるのだという理由も理解した。
 魔法ではない。魔術でもない。呪いと言う程曖昧なものでない。もっと、明確な。現代科学では決して証明出来ない何かの力。
 山城はこの地一帯の水源を守る、水神である。
 信仰者ではない。実際山代の中には宗教的なものは何一つとしてない。
 あるとすれば、限界まで濃く混ざり合った一族の血がもたらす力。
 ありふれた言葉で一番近い言葉を探すのならば、『霊能力』
 僕も多くは分からない。
 何より、知るのが怖い。
 ただ一つ、確実に言えるのは、山城一族は只の人間ではないと言うことだけだ。
 「山道、つかれ、た、か?」
 僕の顔を覗き込み、心配そうな表情で、一度は全て失った言葉を必死で拾い集めながら話し掛けるこの可愛らしい少女も、念力一つで人をも殺せる。
 「いやいや。大丈夫だよ。あ、テアイちゃん、お土産だよ」
 「わあっっ。あけ、ても、いか?」
 「こらテアイ…お礼をしなさい」
 「あが、とー」
 「どういたしまして。さ、開けてごらん」
 「うんっっ……わぁ……」
 「金平糖だよ。おやつにどうぞ」
 「きれ……お、ご、あが、とー」
 当主のために、自分の命をかけられる。
 テアイの姉である水屑すら、只の人間ではない。
 感情の大半と引き換えに、水死体と会話し交わる力を持たされた。
 今では怒ることと、ほんの僅かに笑うことしか出来ない。
 選ばれた人間だけが山代の結界内に入ることを許され、更に選ばれたものだけが、山代の中に繋がれる。この広い家の中で、生活をしているのは、テアイと水屑と、当主の3人だけだった。
 出入り出来る人間が極限らているばかりに、どれだけの不自由を虐げられているのだう。中途半端に理由を知っているから、逃げ出せば良いなんて無責任なことはもう、言えない。
 僕に出来ることと言えば、3人の健康管理。ただ、それだけだ。
 「水屑さん、ハクの様子は?」
 僕は靴を脱ぎ、裸足になると立ち上がりながら声を掛けた。
 「今は薬で眠っています」
 「量は?」
 「指示の通りに」
 「モルヒネの追加、持ってきたから」
 「ありがとうございます……でも、もう必要無くなりそうです……」
 「何てこと言うんだい。ダメだよ。君がそんな弱気なこと言っては」
 「済みません……でも、昨日の昼からあそこに……」
 水屑が真直ぐに庭の片隅を指差す。
 つられてその方角を見ても、僕の目には六角の井戸しか目に入らない。
 「井戸がどうかしたのいか?」
 「………いえ。なんでも」
 何か言いかけて止めた水屑は、そのまま腕を下ろすと、
 「御案内します」
 と、僕の目の前に立って、座敷の奥へと案内した。

 「……………」
 山城の当主は目を閉じて眠っていた。
 …………いや、既に昏睡状態に陥っていた。
 慌てて脈と呼吸を調べる。
 「…っ」
 血圧を測る。上はもう60もない。下は計測すら出来ない。20か、30か。
 カバンの中をぶちまけるように畳の上に広げ、カンフル剤と簡易呼吸器の準備をした。
 「……ハクッッ。しっかりしろ。…僕が来たから…もう大丈夫だから」
 ミシッ…と、畳を踏む音で振り返ると、心配そうに覗き込むテアイの顔が見えた。
 「…ハク…さま、だい、じょぶ、か……」
 「大丈夫だよ。さ、部屋に戻って待ってて」
 「……で、も、あいつ等が……」
 話を聞いている余裕はなかった。
 「大丈夫だよ。さ、忙しいから。ね」
 「……うん……」
 テアイが戻っていく姿を最後まで見ずに、視線を部屋の中に戻す。
 ミシッ……。
 「向こうに行ってなさい」
 今度は振り返りもせずに声だけかける。
 ハクの状態は今までの中で最悪だった。
 無理もない。こんな悪性の腫瘍を抱えているのにこの家から離れて入院することすら許されなかったのだから。
 「……………クソッッ!!……」
 後は、もう無我夢中だった。
 分かっていた。
 でも、救おうとせずにはいられなかった。
 一瞬でも良い。意識を取り戻して欲しかった。
 どんなに苦しかっただろう。どんなに辛かっただろう。ああ、せめてずっと側に付いていてやりたかった。満足な治療すら受けられず、こんな、山奥に……。どんなに不安だっただろう。どんなに恐ろしかっただろう。看護婦を呼ぶコールすら持たず。苦痛を伝える術もなく。
 不安と苦痛と恐怖、そして副作用が見せる幻覚に追い詰められておそらく意識を失ったのだろう。
 「しっかりしろ……っ……ハクッ……」
 自発的呼吸が止まる。心停止。血圧を測る余裕ももうなかった。
 渾身の力を込めて心臓マッサージを行う。人工呼吸で酸素を吹き込む。
 ミシッ!!と、家全体が軋むような音をたてた。
 そのあまりの音の大きさに、僕は思わず顔を上げた。
 パシン……パシッ……。ギシッ………
 家中が軋むような音を上げているのに気が付いた。
 「-----っっ!!」
 視界の端に白い手が見えた。廊下側ではない。部屋の内側。顔を向けると、何も見えなかった。
 気を取り直してハクに向かい直す。
 カバンの中に詰め込んできた、出来うる限りの医療道具。
 僕は出来うる限りの治療を施した。

 途中、寝具の直ぐ側に真っ白の2本の足を見たような気がする。
 蘇生に夢中で気が付かなかったが、その足は、ハクの足下辺りをうろうろと彷徨うように歩き回っていた。
 昔、医者仲間が言っていたのを遠く思い出していた。
 『ほら、蘇生術が始まると、俺達は顔をあげることがないじゃないか。でもさ、その時って、直ぐ側に死神がいるらしいぜ。患者と医者の隙を狙って、命を一つかっさらっていくって話さ。で、その死神の立っている場所で、患者が命を落とすかどうかが決まるんだってさ。足下だったらまだ大丈夫。頭に立たれたら、さようならってね。俺達は死神の下半身しか見られないって話だけどさ、顔を上げたら、見れるんだろうな。……俺?ははっ…見たことねぇな……』
 顔を上げるのが怖かった。
 別に死神を信じている訳ではない。それに、ハッキリと足が見えた訳でもない。見えたような気がしただけだ。僕は頑に治療に集中した。
 「………向こうに行きなさい。僕は今この人を助けたいんだよ……」
 誰にいうでもなく、僕はその足のようなものに向かって言った。
 「………」
 足のようなものは、その一言を呟いた後、姿を消した。
 
 治療が深夜に差し掛かる頃、ハクと同じ患者の末期を思い出した。
 最善の治療も空しく、意識は混濁を始めていた。
 それでもその患者の意識を戻す方法は一つだけ残されていた。
 真夜中に病院に駆け付けた家族に僕は言った。
 『娘さんの意識は後1度だけ取り戻せます。でも、もう僅かな時間です。意識は明瞭になります。お話も出来ます。ただ……』
 『………ただ?』
 『その苦痛は凄まじいものでしょう』
 『…………』
 『でも、最後のお別れは出来ます。どうしますか?』
 『……………』
 その選択は余りにも辛かっただろう。
 泣き腫らした目で、僕を見詰めて、患者の父親は言った。
 『このまま眠らせてやって下さい……』

 死なせたくなかった。
 僕は医者になって一番強くそう思った。
 死なせたくない。
 死なせたくない。
 患者の家族の気持ちを今始めて心底理解した。
 死なせたくない。
 もう一度、君の笑顔を見せて欲しい。
 そう願わずにはいられない。
 たとえ、あなたが決して直らない病に冒されてしまっていたとしても。
 末期であるのが間違いようのない事実だとしても。
 また、ミシリ…と、畳を踏み締める足音が聞こえた。
 必死で蘇生を行う僕の耳にも届いたが、顔を上げる余裕も、なかった。
 その時の僕は葛藤していた。
 治療を続けるべきか、諦めるべきか。
 この病に冒された末期の患者は、明瞭な意識は苦痛と常に共にある。
 全ての見解では勿論ないが、大抵の患者に当てはめることは出来るだろう。
 ……一体僕は何をしているのだろう。
 苦痛をもう一度与えるためにハクを目覚めさせようとしているのではないだろうか。
 ただ会いたいから?
 声を掛けたいから?
 僕も、愛していたと伝えたいから?
 ……そんな、今更………。
 弱気な心が頭をゆっくりともたげ始めていた。
 先刻見たかもしれない白い2本の足のようなものが、またハクの足下に立った。
 僕には声をかける余裕もなかった。その時。

 『済みません……でも、昨日の昼からあそこに……』
 『……で、も、あいつ等が……』
 2人の言葉を思い出した。
 
 死神なのか?

 一瞬の心の隙だった。

 直後、真っ白な2本の足は、ハクの頭の方に立ち

 

「…………お前の負けだ…………」

 

 

 

……と、呟くと、何かを掴んで攫っていった。



 

 






 ハクはもう、2度と目を覚ますことはなかった。


 

 

 

 




 葬式に参列することも許されなかった。
 診療所であの日のハクの言葉を思い出す。
 『……山代に気付かれた。……私には、君を守る力がない……』
 思い返せば、告白と呼べるものは、あの一言だけだった。
 甘い言葉も口付けも、何一つなかった。
 15歳も年下の青年に、自分も愛しているとどうしてあの時の僕は伝えられなかったんだろう。
 君は家に繋がれ、僕は君の主治医となった。
 今でも悔やまれてならない。

 山代の家が次期当主を選んだと、水屑から知らされた。
 ハクの息子のシンらしい。
 東京の大学に通っていると聞いた。
 昔、良く懐いてくれた子だった。
 山代は常に山城一族の人間を一人所有する。
 家である自分の体内に完全に閉じ込める。逃げだせないように、左目と、左手と左足を切断させて。
 また、犠牲者が出るのだと思った。
 どうして逃げ出そうとしないのか。
 それだけ家の力は強大なのだろう。
 あの子もまた、愛するものがいたとしたら………。
 その子を捨てて繋がれなければならないのだろうか………。
 僕には理解出来なかった。

 いや、理解したくなかった。

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6月から始まる連載のプロローグ。戯曲にも載せなかったシークレット部分であります。

今回参加させて頂きました