「英語」
僕がまだ絵の世界を知らなかった子供の頃。
何もない地下牢だけが僕の世界の全てだった。
なにもないまいにち。
空気の動きが変化するから目が醒める。
ぼんやりと自分の目が開いていたことに気が付く。
視界には堅く閉ざされた格子。踏み締められた土の床。
「……………」
遠くにたくさんの足音が聞こえる。
使用人の足音。多分朝御飯の準備の音。
視線の先の頭の方の直ぐ上の側から聞こえてくるから。
そのうちあたたかそうな匂いがしてくると思う。
………ほらね。
ごはんは好き。しろくて綺麗だから。
味噌汁も好き。温かいし、咽を通り過ぎてお腹に溜まる感覚が気持ち良いから。
おかずはそんなに好きじゃない。
何だか強くて。
「……………」
いつもそうしているように、自分の呼吸を意識してみる。
目が醒めてすぐの呼吸は、生きていくのに最低限の量だけ吸って吐いてる。
身体のどこも動かさないで、目が醒めたままの格好のまま、自分の呼吸を意識する。
息を吐くと床に溶け込みそうな気がするし、息を吸うと床から吐き出されてしまいそうな気がする。
小さな頃からずっと…床の土になってしまおうと息を吐き続けているけれど、僕は今でも僕のままだ。
じっとしていると、また眠くなった。
お母さんは、おいらんなんだよと使用人の一人に教えられた。
僕を生んでくれた人だってはなしだ。
なんだかあんまりよく分からなかったけど、迷惑なことをした人らしい。
『お前も生まれてこなきゃ良かったのにな』
そうすれば、こんなところに閉じ込められることもなかったのに、と、笑って言われた。
僕が生まれてきたことが迷惑なんだって。
お父さんは、この家のわかだんな。
おいらんのお母さんに熱をあげたから、僕が出来てしまったらしい。
『ぼっちゃんも運が悪かったのさ』
何かを教えられる度、僕は胸の辺りに痛みを感じる。
お母さんは『殺さないで』と頼んだから、僕は今日もここにいる。
「ほらっ…もっと広げろよ……っ」
苦しくて痛くてどうしようもないのに、上にのしかかった使用人の一人が、はあはあ言いながら僕に命令する。
痛みに痙攣を起こしかけている太ももをそれでも必死に広げる。
「もっとだよ…っ…ほらっ…!!」
掛けられた両手に全身の体重を掛けて覆いかぶさってくる。
「あうっっ!!!」
意志とは関係無しに、信じられないくらい大きな声が出た。
慌てて口を噤むけど、
「静かにしてろって言うのが分からねぇかっ?!」
髪の毛を掴まれて頭を揺さぶられる。
「ごめんなさいっ…ごめんなさい……っ」
怒られないぐらいの小さい声で、必死に謝る。
そしたら、今日は直ぐに地面に頭を叩き付けるようにしながら髪の毛を放してくれた。 ほっとしている間もなく、使用人の腰の動きは一気に激しくなって僕を揺さぶる。
僕のものなんか比べ物にならない程大きな一物が容赦なく僕の身体を出入りする。
痛くて痛くて、痛くて苦しい。
でも、この人の…この部屋にいる全員の腰を突き上げる拍子を覚えたから、先刻みたいに、声を上げずに我慢が出来る。
自分から、勢いを逃がすように身体を揺らす。
動きと呼吸を必死に合わせる。
顔に滴り落ちる汗が気持ち悪くて薄目を開けると、白目をむきかけて、鼻の穴を大きく膨らませながら、押さえきれない興奮した声を漏らして、どんどん動きを速めていく姿が見えた。
(…あともう少し……もう少しでこの人は終わり……)
今日は後3人。少ない方だからまだ楽だ。
「うっ……うっ……ううっ……っっ…!!…おうっっ!!!」
ビシュッと打ち付けられる気持ち悪さを我慢すればもうおしまい。
順番を待っていた他の男の人達に、剥がされるように退かされれば、薄ら笑いを浮かべて転がる先刻までの使用人の代わりに、次の男の人が覆い被さる。
「おう…女みたいになってんなぁ……こんなに濡らしてるんなら油も付けなくても良いよなぁ…」
コクンと頷いて、相手の人の首に両手を伸ばしてしがみつく。そうすれば、喜んで少しは優しくしてくれるのを最近知った。
身体が痛みに慣れてくると、自分で下腹に力を入れて、お尻の穴を出来るだけ窄める。痛みを堪えて腰の動きを回転させるようにする。
「うっ……はあっ…はあっ……さすが…花魁の子だな……っ……んっ…男の喜ばせ方を分かってやがる……っ」
だって…こんな苦しいこと、出来るだけ早く終わらせたい。
必死に、必死に相手の人を喜ばせなきゃいけないんだ。
僕は、命じられれば何でもやる。
嫌がったりすると、殴られたり、切られたり、凄く痛い思いをしたりするから。
この前は、足がいつもと違う方向に曲がって、とてもとても痛かった。
何日も身体が熱くて頭がぼーっとして、ちょっとでも足を動かすと我慢出来ないような痛みが襲ってきた。
今でも動かすと少し痛い。
あんな思いはもう二度としたくないから、僕は言われたことは何でもするんだ。
そうすれば、殴られたりとかしないから。
後2人……
…………
後1人………
…………
我慢していれば嫌なことはそのうち終わるから。
ある日、僕は身体を丁寧に拭かれ、髪の毛を洗われ、綺麗な着物に着替えさせられて、初めて外に出された。
何だか凄く不安で、ずっと身体が震えていた。
早くあの部屋に戻りたい…。
嗅いだこともない、でもとても良い匂いの…触り心地の良い、時折おかずの中にある色をもっと薄くしたような色の…床の上に座らされた。
「いいか、絶対に逆らうな。大人しくしていろよ。いつも通りにすれば良い。喜ばせるんだ。良いな」
不安で恐くて、僕は震えながら頷くだけで精一杯。
見たこともない着物。誰よりも背の高い人。
髪の毛は……これは……何色って言うんだろう……凄く綺麗で…
目の色も……こんな色…知らない……
この人は………本当に……人……?……
恐くて恐くて、歯がガチガチとなるのがどうしても止められなかった。
首を傾げて男の人が何かを喋る。
何を言っているのか……全然………分からない……
恐い………
身体に手を掛けられた時、恐くて気を失いかけた。
男の人がビックリしたように抱き寄せる。
胸の中にすっぽりと包み込まれて、身体が固まる。殴られるんだと思って、両目をギュッと握って出来る限り身体を小さくした。
また男の人が何かを喋る。
ゆっくり……優しく……話し掛ける。
でも、僕にはその言葉が全く分からない。
使用人の誰も使ったことのない言葉に戸惑う。
言葉の全部が繋がっているような、早口っぽい言葉。時折尋ねているみたいに語尾が上がる。
何だか分からない。
でも、いつも通りに、喜ばせてあげろって……思い付くことは一つしかない。
どうやって始めれば良い?
いつもだったら『脱げ』とか言ってくれるから、直ぐ分かるのに。
こんな……じっとされたら、どうしたら良いのか分からない。
でも、とても温かかった。
そうっ…と、見上げると、男の人は笑った。
いつも見るような勝手に笑っている感じじゃなくって、まるで僕に笑いかけているみたいな笑い方だった。どうすれば良いのか分からなくて、そのまま見上げていたら、
「あふぇあ?」
って言われた。
よく分からなくて、そのまま黙って見上げていたら、男の人の唇が、僕の額にそっと付けられた。
ちゅっ…って、小さな音がして唇が僕から離れる。
「…………」
ゆっくり瞬きをして、じっと見上げる。
男の人は
「どーんあふれいど」
と、ゆっくり言いながら、もう一度僕の額に自分の唇をくっつけてきた。
それは、とても優しくて温かい感じがした。
気が付くと、恐いって思う気持ちは無くなっていた。
僕の耳に、僕の瞼に、僕の鼻に、僕の口に。
男の人は優しく何度も唇をつける。
強ばった身体の力が抜けて行くのをどこかで感じながら、ようやく僕はいつもしているように男の人の首に両手を伸ばしてゆっくりとしがみついた。
男の人の唇は柔らかくて、何だかとても安心できた。
「…かもん…」
何のことだか分からなかったけど、僕は小さく頷いた。
いつもと同じことなのに、それは全然違うものだった。
恐くなかったのも、気持ち良いと思ったのも初めてだった。
男の人のものは、使用人の誰のものよりも大きくて長かった。
恐いと感じたのはそれを見た時だけ。
「あっ……あっ……あっ……んっ!!」
身体の奥から熱くなるのは初めてだった。
我慢していた声が、気持ち良くて我慢出来なるなんて、初めてだった。
男の人が、僕の身体の中に進んできた瞬間、痛みに身体が強ばったけれど、僕は全てを受け入れてあげたいと初めて強く思った。
初めて、心のそこから、この人を喜ばせてあげたいと思った。
苦痛と一緒に、信じられないくらい気持ち良い感覚を感じながら、僕は必死で薄目を開いて男の人を見上げた。
男の人も僕を見詰めていた。
使用人の男と人達みたいに、僕で感じているのが分かった。
でも、男の人は僕を優しい目で見詰めていた。
突然僕は自分でもどうすれば良いのか分からないような気持ちになって、泣き声を上げながら男の人にしがみついた。
涙が後から後から流れ出てきた。
驚いて動きを止めた男の人に
「お願いっ…止めないで……もっと……お願い…っっ」
叫ぶように言いながら、一生懸命自分の腰を男の人に擦り付けた。
男の人の言葉が分からないように、男の人は僕の言葉が分からないようだった。
どうしてそうしようと思ったのか分からなかった。
僕は男の人に、自分の唇を重ねた。
それから後のことは……良く覚えてない。
すごく気持ちよかったのだけ覚えている。
気持ちよくて、自分で自分が分からなくなっていく中、泣き続けていたことだけ覚えている。
「……びー…さばいぶ……」
僕は何度も何度も頷いた。
その意味も何だか分からずに。
その男と人とはあれから1度も会ってはいない。
花魁の母と大商人の1人息子との間に生まれ、世間から隠すように生かすために地下牢で育てられたことを知ったのは、それから随分経ってから。
時折、檻から連れ出されたのは、男色の商売相手への接客のためだったことも何年も経ってからようやく気付いた。
外の世界を知り、絵画の大家に養子として引き取られ、画の世界を知った。
一気に流れ込んできた知識に溺れそうになりながら、僕は必死で生き続けた。
自分の置かれた境遇も分かった。
でも、不思議なことに。
僕は誰も憎いとは思えなかった。
畳の色の名前を知り、あの異国人の髪の色を覚え、そして目の色を青の中から選び出せるようになった今、使っていた言葉が日本語ではなかったことにも気が付いた。
通じないのも無理はなかったんだと、思ったら不思議と微笑っている自分がいた。
絵の世界を知り、自分にとって掛け替えのない人の存在を知った。
それでもふとこうしてあなたのことを思い出すことがあります。
あなたがいなれば、僕は今日、こうして生きていたかどうかも分かりません。
たくさんのことを知り、乗り越えることを覚え、愛しい人を見つけました。
それでも、あなたのことをこうして思い出すことがあるのです。
ビー サバイブ
その意味は、今も僕には分かりません。
でも、僕にとって、きっと大切な言葉なのでしょう。
いつか、僕が英語を学ぶ機会があったら、まっ先にこの意味を調べてみたいと思います。
「…光斎」
「……勇喜」
「どうした?筆が止まっているぞ」
「……何でもないよ…ちょっと昔を思い出していただけだから………」
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