[ピアノ]
そのピアノは、オレから見たら何の変哲もないフツーのピアノにしか見えなかった。
「篤」
「ん?何?」
「お前、確かピアノ弾けたよな?」
「あ?……ああ、うん。つっても、弾いてたのすんげー前だし、もー指も上手く動かねェんじゃないかな?」
朝のトーストを齧りながらオレが返事をしてると、シンはホッとしたような顔をしてオレに頭を下げた。
「悪い。今夜付合って欲しいところがあるんだ」
こういう時は、大抵ロクでも無いモンの付合いだって言うのは、この1年でイヤって言う程思い知らされた。
ある程度予感しているものの、一先ず聞いてみる。
「……なに?『御仕事』?」
シンは、性格そのままの生真面目さでコクリと頷く。
「依頼人の状態が一刻を争うところまでいってる」
早く助けないと手後れになる……って、人が良いにも程があるぞお前………。
オレは、ホントなら速効首を横に振りたい気分だったんだけど……その……なんつーの?
「……なに?オレじゃなきゃダメな訳?」
「ああ。今回はどうしても篤の力を貸して欲しい」
…恋人にさ…そう言う風に言われるのって、内容はともかく、無条件で嬉しいじゃん?
思わずニヤけそうになりながら、
「……ったく……しょうがねーなー。んで?危なくない訳?」
「篤は俺が必ず守る」
と、ストレートに言って来るシンの言葉に内心テレながら、顔は精一杯の仏頂面で俺は「必ずだぞ」と、返事した。
シンは、山城一族の直系の一人だ。
去年一族の後継者決めに巻き込まれ、二度と会えなくなる危険にさらされた。
…この一族、故意に血を濃くするために、親族間での婚姻が繰り返されて、遺伝子的にもかなり無理を強いられてるらしい。
結果、一族の何人かは、特殊な力を先天的に身に付けて生まれた。
山城一族の能力って言うのは……んー……上手く説明出来ないんだけど、強いて言えば霊能力みたいな力だったりする。
しかも、ただ霊が見えるとか聞こえるとかなんてもんじゃなくて、ある媒体を使って、自分の考えているままに操ったり、逆にその媒体自体と合体させて意志を持たせたりすることが出来るんだ。
その媒体って言うのは、水。
水なら何でもお構い無しだ。
なに寝言言ってんだよ。……とか思うなよ。
そりゃオレだって最初は信じられなかったよ。
でもさ、実際にあるんだぜ。
『そういうの』って。
1年前……シンがオレを守るためだけに一族の言いなりなって…当主になろうとしたアノ時。オレはシンの持つ『能力』を目の当たりにした。
コップの中に入った水が沸騰したように一瞬で消えた。
そしてその後、空気の中で飽和状態となり、大量の雨になって『部屋の天井』から降り注いだ。部屋の中の水位が上がり、洪水となって…オレにしがみついていた…訳の分からない化け物を押し流した。
一旦部屋の外へと流れた水は…水のまま人間の形を作って、波打ちながら『歩いて』オレのいる部屋に帰ってきた。
ゴボゴボ言っている音のすぐ側で、水音は人の言葉を形造った。
『大丈夫ダ…アツシ……オ前ハ…俺ガ必ズ…守ル……』
今、こうして頭で整理したって無茶苦茶な話だ。
子供の嘘の方がよっぽど上手い。
でも、アレは夢なんかじゃ無かった。
全部、実際に…目の前で起きた出来事だった……。
…………オレだって……信じなくて良いんだったら信じたく、ない。
でも、アレは、実際に起きた出来事だった。
シンは、水を自在に操る術師だ。
こんなおよそ何でも科学で解明出来る現代で、冗談みたいな能力を冗談抜きで持った男だ。
山城一族は、元々持っている術者の能力を最大限に生かすために、血をより濃くしたかったんだ。
シンは一族の中でも有数の能力を身に付けた人間の1人だった。
必死の思いでシンを一族から取りかえした。
その代償は量りしれない程大きかったけど…それでもオレもシンも後悔していない。
ただ1つ。
シンの身替わりになって一族に身をささげ、当主となったテアイって名前の女の子だけは、今でも思うと胸が痛い。
シンがこうして東京に帰ってきても、一族の仕事を引き受けるのは、テアイへの罪滅ぼしに違い無い。
オレも、アイツには心底感謝してるから、こうしてシンが一族の仕事……『御仕事』を引き受けるのを止められない。
大学の講議が終わって、そのまま電車で待ち合わせをしている駅まで行った。
改札口は1つしかなくて、オレは切符売り場のすぐ側の柱に凭れて目を閉じているシンの長身を直ぐに見付けた。
「シン」
側に近寄って声を掛ける。
多分瞑想していたんだろうシンがゆっくりと目を開ける。
集中した表情のシンの表情に、場違いなのにドキッとさせられた。
『御仕事』前のシンは精神状態がベストになってるから、こうやってどこででも精神統一が出来る。
いつもの同性としてムカつくぐらい男らしい感じが無くなっているのにいつも慣れない。
ホント…場違いなんだ。
こんなに綺麗な男なんだと思い知らされてドキドキするから。
妙に座った目で見られてるかと思うと、顔が赤くなりそうなんで、慌てて目を逸らして視界からシンを消した。
「お待たせ」
若干声が緊張してるのは…ま、愛嬌だ。
「いや…」
「何?こっから近いの?」
沈黙すると思わず顔を見そうになるから、オレは急いで話題を探した。
「歩いて何分ぐらい?」
「…5分…かな…」
歩き始めたシンの隣に、半歩遅れて付いて歩く。
シンは真直ぐに伸ばした背筋を視界の端にちょっと置く。
シンは道すがら、今回の依頼者の説明をしてくれた。
依頼者は25才の男性。
原因不明の意識障害を煩っている。
衰弱の度合いが著しく、現在点滴による栄養剤の注入と酸素マスクが離せない状態が続いているそうだ。
勿論、病院に相談済み。
精密検査をしても、原因は未だに不明。
男性の両親は、最後の頼みと山城一族に原因の究明を依頼。
当主のテアイによる遠視にて、原因を発見。
元凶は、2年前に知人から譲り受けたピアノ。
…聞けば…確かに男性の意識が混濁していったのは、ピアノを家に運び入れた頃と同時期だと言う……。
「…昨日家まで行ってピアノを見てきた。……前の持ち主はもうこの世の物じゃなかった」
「え…じゃ、死んでんのか?」
シンは黙って頷く。
「ずっと恨み言を言い続けている」
「なんて?」
「『まだなのに…』」
「なに…それ」
「弾き足りないらしいな」
「なんで?」
「さあ…死んだからだろうな」
音楽家を目指す志し半ばで、病気で命を落とした女性の霊がピアノに取り付いているって話だ。
前の持ち主だった知人は、自分の死期を悟って、自分の分身とも言えるピアノを友人に託したそうだ。
自分の夢を託して成仏すれば良かったのに、それが出来ずにピアノにそのまま意識が残留してしまい、男に取り縋っているって話だ。
「…自分の夢を託したって言うのに未練かよ。…ったくメーワクな話だな」
「………」
シンは答えず歩みを止めた。
「さ、着いた」
「こ…ここか?」
見上げると、大きな敷地の中に、いかにも金持ちそうな家が建っていた。
「ピアノは何かを言いたがっている。だが、俺は音楽のことは分からない。だから篤に来て貰った」
「お…オレだって分からねぇよ…」
「いや」
シンはきっぱりと否定した。
「分かる」
きっぱりと断定する。
「…だから、お前を連れてきた」
シンはオレを真直ぐ見て……それから、まるで幼稚園の先生みたいに優しく笑った。
「必ず俺がお前を守る。……だから篤、そんな顔するな…」
きっと、オレ、泣きそうな顔してたんだと思う。
ピアノは、地下の防音室に置かれていた。
ポツン…と、静かに放置されていた。
冷たい部屋に身体が震える。
シンはオレの肩をしっかりと抱いたまま、ポケットから取り出した、小瓶に詰められたテアイから送られた水を部屋の八カ所に捲いた。
「……篤……」
「な……なんだよ……」
「…耳を澄まして」
「…………………っっ!!」
……『声』が聞こえた。
女の…か細い…泣き声だった………。
………ごめんなさい……ごめんなさい………
「聞こえるか?」
「……誰か…謝ってる……」
ゾワァァァァッッッ……っと全身に鳥肌が立った。
ホント…何度手伝っても、シンの『御仕事』は慣れない。
同じ部屋の中に、何かいるんだと思うだけで怖い。
オレ、ほん…っと…ダメなんだ。昔からお化けだの何だのって……っっ…。
ビビッて固まっていると、シンがオレの肩を抱き締めたまま、ゆっくりとピアノに向かって歩き始める。
「こ、怖ぇよっ」
反射的に身体を強ばらせて声をあげると、
「俺がいる」
と、言われてしまった。
「………お………おう……」
そんなに頼もしい声で言われたら……言うこと聞くしかねーじゃねーかよっ。アホウッッ!!
意を決してピアノに触れた。
途端に、女の意志が身体に流れ込んで来るのを遠くに感じた。
そのまま…情けないことに……オレは女の意志に飲み込まれてしまった。
……ごめんなさい……ごめんなさい……
こんなことがしたかったんじゃないの………
あたし……ただ…あなたと一緒にピアノが弾きたかっただけなのよ……
なのにあたしったら……
ピアニストになりたかった。
昔からの夢だったの。
友達と遊ぶ時間も諦めて、恋をする時間もピアノに費やしたの。
やっと音楽ってものが分かったのに……
あたしには、時間がほとんど残されていなかった…。
どうして夢を叶えられないの?
あたし…一生懸命頑張ったのよ……
全てを犠牲にして、ピアノに全てを費やしたのよ。
ピアニストになるのが夢だったから……。
あなたと出逢って…あたしの足りなかったものに初めて気が付くことが出来たわ。
あなたを知ってから…あたしの音楽は、深みが増したの。
ピアノが私の代わりになって、あたしの思いを形にしてくれた。
音がこんなに感情を持てるなんて……あたし全然考えもしなかった……。
ごめんなさい…ごめんなさい………
こんなことがしたかった訳じゃない…。
あたしは…ただ……ピアニストの夢が叶えられなかったら……
愛するあなたと……一緒にピアノが弾きたかっただけ………
まさか………あなたの意識を奪うことになるなんて…………
起きて……お願い………目を醒まして………
このまま眠り続けたら………あなたまであたしと同じになってしまう………
お願い……起きて………目を醒まして…………
女が泣き腫らした目でオレを見詰める。
『お願い……あたしに変わって……あの人の…目を……醒ましてあげて………』
女が泣きながら口ずさむ曲。
「………BWV645……」
シンにしっかりと抱き締められているのを感じながら、オレはゆっくりと女に意識を押し上げられて、目を開けた。
「篤っ」
意識を取り戻したオレにシンが声を掛ける。
焦った口調に、愛されているんだなと、素直に思えたのが不思議だった。
……ま、この女のせいかもしれないな。
オレはピアノに向かい、椅子に座った。
「……あんた程上手く弾けねーよ」
そう呟くとオレは曲を弾き始める。
「篤」
「……ん?」
帰り道。シンはオレに聞いてきた。
「あの曲…」
ああ…と、オレはちょっと笑ってみせて、説明してやった。
「彼女、あんなことするつもりなかったんだってさ。だからあの曲を弾いて、自分の好きな男を起こしてやって欲しいって」
何のことだか分からないって顔をしているシンに、オレは女の言葉を教えてやった。
「…で、口ずさんで教えてくれたのがあの曲」
「………初めて聞く曲だった」
「ん?たまにテレビとかでも流れてるぜ?BWV645っつって、バッハの曲の1つなんだよね」
「……そうか……」
「彼女さ、ホントはそのまま男に死んでもらいたかったのかもしんねぇ。…でも、それを我慢してでも男に目を醒まして欲しかったんだろうな。自分が果たせなかった夢を好きな男に託したんだな。うん」
「………」
「なぁ、シン、オレが彼女の代わりに弾いたあの曲さ、きちんと名前がついてんだよね。なんつーと思う?」
音楽には疎いって自分で言っていたのに、シンは律儀に考える。
「…いや……分からない」
そういう不器用なところ……キライじゃないぜ。
オレはオレより頭1つ分背の高いシンを横から見上げて教えてやった。
「『目覚めよと呼ばわる声が聞こえ』って言うんだ」
シンは暫く黙り込んだ後、「………そうか……」と、噛み締めるように呟いた。
二人で家に帰って、眠る時に、真面目な顔をしたシンがオレに言ってきた。
「…俺は、何よりも、誰よりも、篤が大事だ」
だから、俺はお前に何も託さない。と、続ける。
何かソレ、文法おかしくないか?って思いながらも、シンの真意が分かって嬉しくなってしまった。
「…あったりまえだ。オレより先に死ぬんじゃねーぞ」
だから、わざとぶっきらほうに。
シンに抱かれて眠りについた。
その夜、オレは夢の中でピアノの連弾を聞いた。
お互いがお互いの音に聞き言っているような…とても優しい音楽だった。
数年後、世界的に有名なピアニストとして名前を馳せることになる依頼人の息子は、それから数日後に目を醒ます。
おしまい。
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