[喪失]

 


  ……今でも、あの電話は忘れられない。


 『……ああ…サトちゃん…?…俺………事故っちゃった……ごめんね……』


 いつも通りのゆっくりとした、ちょっとおどけた口調で。でも、語尾は全然力が入ってない感じで。言葉を続けようとして、小さく吸う息が、痛そうに震えていて。

 平成13年12月21日 午後8時20分 雪
 国道254号線 和光市交差点

 ケイちゃんは、右折してきた乗用車にバイクごと跳ね飛ばされた。


 後で聞けば……それは、生きていることさえ…奇跡的だった事故。




 どうやって掛けさせてもらったんだか、ケイちゃんはレントゲン撮影が終わった直後の応急処置室から自分の携帯で俺の携帯に電話してきた。
 時間は午後の11時を回っていて、何かあったのかと心配していた矢先の電話だった。
 看護士さんから病院の場所を聞く。家から直ぐの総合病院だった。

 『…で、あの……ケイちゃん…あっ…恵太の…っ……八坂君は…大丈夫なんですか?』
 『何カ所か骨折しているみたいだけど、命には別状ないから大丈夫。…今から来られますか?』
 『はい…っ……直ぐに、行きますっ』
 
 どうしたら良いか分からなくって、何を持って行けば良いのかも分からなくて。
 財布とジャケットと車のカギを握り締め、玄関に向かってダッシュする。
 死んだらどうしよう……。そう思ったら、ツン…ッ…と、鼻の奥が痛くなって、俺は慌てて唇を噛んだ。
 ほんの2キロ程度の距離が信じられないぐらい遠く感じた。
 大学の前の坂道を一発免亭の速度で走り抜ける。コンビニを超えて、小さな川を超えて、消防署の前を走る。免許を取ってから今までの中で、一番乱暴な運転だった。
 看護士さんは大丈夫って言った。
 ケイちゃんも自分で電話をしてきた。
 だから大丈夫だって頭のどこかでは分かっていた。
 もしかしたら本当に大したこと無くて…例えばかすり傷ぐらいで、俺が病院に着いたら、時間外の料金を払わされて直ぐに帰れるかもしれない。
 大袈裟だなって、マジで怒って、それから一緒に帰るんだ。
 心のどこかでそう願った。
 でも。
 病院に駆け込んで案内された病室に横たわっていたケイちゃんは、
 「あーサトちゃん…ホント……ごめん」
 と、苦しそうに笑って……身体のどこも動かせなかった。
 「…………大丈夫……?」
 「大丈夫……っ…大丈夫」
 全然嘘だって、直ぐに分かるぐらい、重傷だった。
 看護士が、当直の先生を呼びに行っている間、俺はどうしたら良いか分からなくて、痛そうにしているケイちゃんにも触れなくて途方に暮れて立っていた。
 「サトちゃん……」
 「ん?なに?」
 「……ごめん……明日からの旅行……」
 「何言ってんだよ……っ……んな場合じゃないだろう……っ」
 「でもごめん」
 痛みに歪みそうになる顔を力尽くで普通に見せながら、ケイちゃんは謝る。
 「…うるさいっ……」
 俺は、これ以上は出来ないってくらい慎重に、ケイちゃんの堅くてゴワゴワした髪をクシャクシャと撫でながら俯いた。
 「……それ以上言ったら……泣いてやる」
 ぴたりとケイちゃんは静かになった。



 左の肋骨を三本と左腕を骨折。両足挫傷。全身打撲。
 頚椎ヘルニア。
 腰椎損傷。


 重傷だった。



 今夜はショックで痛みも骨折した場所ぐらいだけれど、これから5日間の間は、どんどん痛い場所が出てくる、って、言われた。
 『いや、でもあの時間帯の国道で、道の中央に飛ばされて、この傷だけで済んだのは奇跡的かもしれません』
 …確かにそうかもしれない。あの道は都心に入っていく幹線道路の一つで、夜にもなると10トン級のトラックが何台も何台も一般道とは思えないような早さで走っている。ケイちゃんのバイクは50ccだから、何でも無くてもあの道を走るのはかなり怖いはずだと思う。
 ……突っ込んできた乗用車が、右折してきた車だったのは…最悪なことには変わり無いけど……不幸中の幸いだった。
 もしも左側の側道から車が突っ込んできていたら…………。
 ケイちゃんの代わりに、翌日警察署に預かってもらってたバイクを取りに行った時…原形すら残っていない程大破したバイクを見て…改めて背筋が凍る思いがした。



 俺は…………もう少しで………ケイちゃんを…………失うとこだったんだ……………



 折れた肋骨の痛みも、ベッドから起き上がれないくらい辛い痛みだったようだけど、それ以外の痛みもかなり深刻なものだった。

 首のヘルニアは、暫くケイちゃんが頭を仰け反るような姿勢をさせると、ケイちゃんの意識を奪っていたし、両足の肉が抉れたような傷は、消毒の度に傷口に張り付いてしまったガーゼを剥がす痛みをおまけした。
 全身の打ち身は寝返りさえも困難にしていたし………頭を打ったショックで視力がひどく低下していた。
 でもそれよりも何よりもひどかったのは腰の骨だった。
 7対しかない腰の骨のうち、4箇所の軟骨が飛び出してしまった。
 痛みは、ケイちゃんが笑って『ん?全然』なんて強がってみせても、痛い程分かった。
 身体を水平にすることすら出来ない。ずっと、ベッドの背もたれを椅子状に立たせたまま座った姿勢でそこから少しも動けないでいる。
 歩行器で辛うじてトイレまでは歩く許可を貰っていたけれど、ベッドから降りるまでに10分以上も時間が掛かる。
 器具無しでは歩くことも……立つことも………出来なくなってしまっていた…………。
 ケイちゃんは、人間として当たり前の権利をたった一度の交通事故で……失った。
 相手の運転手にも、保険屋にもキレた。
 二人とも、平謝りだったけど、ここが病院じゃなかったら、本気で殴り殺してやろうかと思った。 
 ケイちゃんは懸命に笑いながら、痛みに堪える。
 ずっと黙っていたけれど……もう歩けなくなるかもしれないと宣告された恐怖に耐えながら、クリスマス旅行に行けなかったことを思い出す度に、謝ってきた。



 家がこんなに広いと思ったのは初めてだった。
 ケイちゃんのベッドがこんなに広かったんだって思ったのも、初めてだった。
 ケイちゃんのベットでずっと眠った。
 そのうち、ケイちゃんの匂いが分からなくなってしまった。
 心細い。
 でも、弱音は吐けない。
 ケイちゃんは、あの日以来ずっと痛みと恐怖に耐え続けている。
 俺が痛いのは心だけ。
 俺が怖いのは、ケイちゃんを失っていたかもしれない…って、想像だけ。
 俺が見舞いに来たのに気付かなかった時のケイちゃんのあの表情……。
 心細そうな悲しそうな無表情で、俺が前にプレゼントしたマグカップを点滴のチューブが繋がれたままの手で、ぼんやりと握りしめていた。
 あんな表情、俺は知らない。
 静かに病室から離れて、トイレに逃げ込む。
 自分が泣いていないか鏡でチェックして、いつもの顔が出来るか練習する。
 「………よし…っ」
 廊下に出て、顔見知りになった看護士さんに挨拶をする。
 「こんにちは」
 「こんにちは。あ、八坂さんならもうじき点滴終わりますよ」
 「あ、そうですか?」
 今俺はここにいるぞって、ケイちゃんに気付かせるような声を出して。
 
 「あ、サトちゃんvv」
 「ちゃんと寝てたか?ほら、お土産」
 「うおっっvvドーナッツッvv」
 「コーヒーも煎れてきたけど飲む?」
 「やったーっっ!!サトちゃんのコーヒー飲みたかったんだよねーっっっ」

 ……いつもの満面の笑顔を作る時間を作る。
 痛みを隠すのが上手になったケイちゃんは、いつもと全然変わらない満面の笑顔で俺を迎え入れてくれる。
 面会終了時刻のギリギリまで一緒に過ごし、一人で帰って、一人で泣いた。
 痛いのはケイちゃんなのに。
 いつまでもベソベソと、広く感じる部屋の片隅で俺は泣く。
 ケイちゃんは俺が寂しがっているのに直ぐに気が付いた。
 『待ってて、直ぐ帰るから』
 そう言って、上げるだけでも辛いはずの右手を上げて、ポンポンッと、俺の頭を撫でてくれた。


 本当だったら2ヶ月は安静にして、事故の衝撃で腫れ上がって過敏になっている神経を沈めてから手術するべきものだって、先生に怒られながら。
 ケイちゃんはもう一度自力で立つために、もう一度歩くために。
 一日も早く、俺が待っている俺達の家に帰って来るために。
 12時間の手術に、望んだ。 



 「………あ……雪だ………」
 行けなくなったクリスマス旅行を予算を全て注ぎ込んで買った、仕立てのとにかくしっかりとした頑丈なダッフルコートをがっちり着込んで、首にはすっかり慣れたマフラーを三重巻にぐるぐる巻いて。
 あれから1年。
 ケイちゃんは、ようやくこうして旅行先で空が見上げられるようになった。
 車椅子も杖も無く。ケイちゃんは自力で立って、自力で歩く。
 一生走れない身体だと宣告されているのを本当は知ってるけれど、俺は気付かないフリを続けている。
 だって、ケイちゃんは俺の見えないところで必死でリハビリを続けている。
 失ったものを取り戻すために、ケイちゃんはいつでも笑って、努力を続ける。
 …こーいうところは、ちっとも変わらない。


 ………大好きだよ。ケイちゃん。
 

 ケイちゃんと一緒の旅行は大好きだ。
 ケイちゃんと暮らす毎日も大好きだ。

 そう。俺って、ケイちゃんと一緒だったらそれで良いんだ。


 
 生きててくれてありがとう。



 失ったもの?
 それは、ケイちゃんのバイク通勤の権利。
 もう絶対にバイクに乗らせてやるもんかっ。
 


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ssシリーズからケイちゃんと、サトちゃんのお話でした。
本編の中に何度か出てきていた『交通事故』の一件。
因に、事故当日来ていたコートもダッフルコート。
ケイちゃんのおじいさんの形見でした。
ボロボロになってしまったコートが事故の凄惨さを最も物語っていたのですが、
レントゲン撮影の時、痛みで脱げず、鋏でジャキジャキに切られたそうです。
さり気なく、対抗意識を燃やすサトちゃんでありました。