『遅刻』

 預かると言ったのは、年寄りのどうしようもない好奇心から来たものだった。
 得意先の庄屋の放蕩息子があちらこちらに捲いた種が実を結んでしまったのだ。
 相手は吉原の一枚目だ。
 政府公認の遊廓。しかも最高の地位に身を置いている花魁の懐妊は、既に流してしまおうにも、母体の命まで奪いかねない時が来るまで発見することが出来なかった。一枚目花魁の満月自身が、ひた隠しに隠し続けた結果であった。
 あんな生業だからこそ、身籠った子供が宝に思えたのだろう。
 無理も無く、決して責められることでも無かったが、全く愚かな話であった。
 刷り上がったばかりの富士の版画を得意先が買い付けに来た時、庄屋の主人が溜め息ばかりに愚痴を零して儂は秘密を知ったのだった。
 満月と言えば、この界隈では知らぬ男はいないとまで言われる花魁だ。
 彼女の美しさは、勃つ力も無いこの儂でさえ、欲しいと思う素晴らしさだ。
 茂みに隠れた割れ目でさえも、溢れた粘りに濡れそぼった姿は見事である。
 鮮やかに着飾った着物にも、髪に刺した簪の装飾にも、埋もれることなく明確な力強さで美しさは光を放ち続けていた。
 彼女の持つ、力を備えた美しさは、全く未知の造形だった。
 腰の曲がった年寄りになっても、未知の造形に出会えるものだと随分感動させてもらった。
 庄屋の息子も愚息だが、目元涼しい器量良しだ。
 二人の間の子供なら、さぞかし美しい子供が出来たことだろう……。
 と、いらぬ好奇心が頭をもたげた。
 『…その子は今どこに?』
 『地下の座敷で育てています。…どこかに売っても、取り上げた時、そのまま首を絞めても都合が良かったんですが…母親がね……』
 『…成る程』
 『アレが大きくなったらどうすれば良いのが……全く見当も付きませんよ…いっそ日陰の病気にでもなってくれれば上手く片付いて助かるんですがねぇ………』
 『しかし御主人、売るなんて、随分物騒な話ですなぁ』
 『いやいや、商いなんて言うものは、何でも売れなきゃ務まりませんよ』
 とは言えこの件はどうか内密に…と、主人は笑って付け足した。

 数日後、儂は自分から主人の店へと足を運んだ。
 一目見てみたい。
 好奇心は、限界にまで膨らんでいた。
 『預かる?……アレをですか?』
 『はい是非』
 案の定、主人は随分と驚いていた。
 『厄介ですよ?』
 別に構わないと言ってやった。
 先日絵を売るのに貰った金と新作を一枚、畳の上に広げて見せる。
 『これは?』
 『勿論見合った金は払わせてもらいます。これは先日の絵の代金三十両。そしてこれは儂が描き続けた作品の最後の一枚じゃ』
 『……ほう…これは……素晴らしい…』
 『儂はこの絵を世には出さん』
 『え?』
 『この絵を知るのは儂と御主人、貴方だけだ。どうだ?地下の座敷の子供、儂の絵一枚では買えんかね?それからこの最後の一枚は、その子の代わりじゃ。その絵は好きにして構わん。版下も昨夜燃やした。同じ絵は世界にもう一枚と無い。この家に閉じ込めるなり、高く売るなり好きにしてくれ』
 『………』
 主人の唾を飲み込む音が、儂の遠くなりかけた耳にまで届いた。
 『どうかね?』
 主人の顔が商いの表情に変わる。
 『良い…話ですねぇ…』
 妙に目の座った、有能な商人の表情だった。

 引き渡しは一ト月待って欲しいと言われた。
 ケガをしていると言うのが引き渡しを遅らせる理由だった。
 だが、儂は一刻も早く見たかった。
 だから儂の弟子の中から屈強そうに見える奴等ばかりを五ー六人、二日後には迎えを出させた。

 十歳にはなったと聞いていたが、まだ七歳にも満たないような小さな体つきの子供だった。
 随分と虐待を受けていたのであろう傷が、身体のあちらこちらに痣を作り、足には骨折の後まであった。数日前に殴られたのか、切れた唇はかなり腫れ上がってしまっていた。どこもかしこも無惨な姿で、弟子達には酷く醜く見えていた。
 だが。
 その少年は思った通り…美しかった。
 いや、思った以上に美しかった。
 無惨な傷跡に埋もれてさえ、造作の美しさには揺らぎは無かった。
 唯一、傷つけられていない髪だけが、漆黒の絹のように輝いていた。
 儂は枯れかけていた何かに水が流れ込んでいくのを感覚の中に感じていた。
 一刻も早く絵筆を握り、今感じている何かを描き刻みたい。
 『さぁ、こっちに来なさい』
 ヒクッ…と身体を痙攣させた後、少年は儂の後に付いて、足を少し引きずらせながら歩き始めた。

 怯え切った子供の身体は、無惨なまでに傷つけられていた。
 数枚の素描の後、全裸にさせると、あまりの凄惨さに儂の筆も止まってしまった。
 その傷はどうして付けられた、と、聞こうしして止めた。
 おそらくこの子は話はしない。いや、出来ないだろう。
 絵師というものは、筆を握ると普段気にも止めない物が見えるようになってくる。
 始めは輪郭をなぞるだけの素描が、次第に対象物の内面を描くようになってくる。
 筆が進む毎、絵の中の少年は心底怯えた様相を呈してくる。
 傷付いているのは身体だけでは無く、心ごとだと気付いてくる。
 だがそれは、別にどうでも良いことだった。
 生い先短いこの儂では、救うことなど出来はしない。
 ならば、自分の欲求だけに答えれば良いのだろう。
 儂は無言で傷付いた少年を描き続け、傷付いた少年は、この老人に描かれ続けた。
 少年は、痛めつけられた、疲れ切った表情をしながらも、一度も身体の力を抜くことは無かった。
 まるで胎児のように身体を丸めて眠るのも、常に緊張し続けているのも、何もかもに怯えてしまうのも。
 肛門が傷付いていた理由も、命令されて裸になるのに躊躇が無かった理由も、一番最初の夜に、全裸にされた後なぜか両足を広げて秘所を見せた理由も。
 傷が完治する頃、自慰をしないと寝付けなくなっていた理由も、皆。
 儂に取ってはおそらくどうでも良いことだった。
 少年は、与えられた部屋の一番奥から、珍しいのか、刻々と変わっていく庭の光の移り変わりを飽きずにいつまでも眺め続けていた。

 少年に名前を与えた。
 光斎。
 花魁から一文字と儂から一文字取って作った。
 『光』は『満月』から連想させて取り出した。
 ゆっくりとした早さではあったが、光斎は美しく成長して行く。
 だが付けられた心の傷だけは癒さない。
 一番心を許しているであろう儂にでさえ、返事はしても自分から話し掛けることなど皆無に等しい。
 いつでも座敷の奥に逃げ込めるよう、神経全てを緊張させている。
 時折発作のように身体を震わせ、落ち着かせるように部屋の隅で自身を扱く。
 熱い息遣いだけが、生命感を持っていた。
 閉じられた目が快楽に揺さぶられ、形の良い唇が喘ぎと共に開かれていく。
 『あ……あっ……んっ……』
 決して弟子達には見せられない光景だった。



 子供も孫も持たなかった儂に取っては、どう接すれば良いのか皆目見当も付かない。
 困った挙げ句に、儂は結局絵筆を持たせた。
 まるで躾をするかのように、儂は光斎に絵を教え始めた。
 始めは、有り余る時間を潰すための手段にしか過ぎなかった。だが、次第に儂は光斎の中に眠る量り知れない感性に気付く。
 いつしか儂と光斎は本気になっていた。
 絵は習練を積み重ねて、初めて才能が開花するものである。
 だが、彩色は感性に委ねるものが多い分、習練だけでは習得出来ない。
 感性は限られた人間にだけ与えられた天分だ。
 初めて描かせた風景画は、自分の部屋から見える庭だった。
 筆の走らせ方も知らない、稚拙でどうにも足りない作品だった。
 しかし。
 その色彩は。
 光に溢れ、正視するのも困難な程、眩しく鮮やかなものであった。
 まるで叫び声が聞こえるかのような、躍動感を感じる色彩だった。
 そしてなにより。
 縁側の向こうを描いた空間には、早朝の空気の気配までもが表現されていたのであった。
 長きに渡り地下の座敷で暮した少年にとって、外界の刺激はおそらく光の洪水なのだ。
 本来ならば受け止められる許容ではないのにも関わらず、しっかりと受け止め形に変えられていた。何の教育も与えられていない、素のままの才能を目の当たりにした。
 『…………天才だ……』
 あの地下の座敷で行われていた虐待が、受け止めるという行為に制限をなくしたからか……いや、そんなことはどうだって良い。
 儂はとうとう絵の世界での伴侶を見付けたのだ………。



 「………先生。……先生……」
 肩を揺さぶられ、目が覚めた。
 「……………光…斎……」
 「すみません。遅くなりました」
 夢の途中で起こされた不快感に、暫く声も出せずにいると、
 「具合…悪いのですか?」
 と、心配そうに訊ねてきた。
 「………いや」
 ………あれから9年の年月が流れ…儂達の間には色々な出来事があった。
 才能を妬み、憎み…感情に任せ破門を言い渡し……寂しさに託つけて無理難題を言い付け、悩ませ、苦しませた。
 それでも光斎は全てを受け止め、目には見えない様々な感情を行為に変えて儂に返した。
 子供じみた感情をぶつけたのは年寄りのこの儂で、受け止めたのは儂より遥かに若いこの男だった。
 光斎はゆっくりと止まることなく成長を続ける。
 たとえ人生の始めの時点で、他のものよりも遅れてしまったとしても。
 他の同じ年齢の人間が進むべき時に間に合わなかっとしても。
 光斎は自分の早さで、確実に前へと進み続けている。
 終り見えないこの画の世界で、儂が歩める道はもうほんの僅かなものかもしれない。
 幼い頃から才能に気付き、誰よりも早い時から絵師としての道を歩み始めた儂も、もうじき終わりの時が来る。
 それでも。
 光斎、お前と同じ時間に共にこの世界を歩んだことを何よりも今は嬉しく思っている。
 もしもお前が遅れることがなかったら、もっと長く歩めたのにと、心のどこかで残念に思いながら。

 「…時に光斎よ、勇喜は元気にやっているか?」
 突然恋人の名前を言われ、動揺しながらも幸せそうに頬を赤らめる光斎に、昔の面影は見付けられない。

おわり   

 
 
 
 
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CRY FOR』から光斎さんの登場です。
この作品、かなり思い入れがあるんですよねぇ・・・
いつか形を変えてお見せ出来れば・・・キャッv