「自転車」
桜の花が散りはじめる頃、緑色の制服が紺色の制服に変わった。
一新されたデザインは、郵便局って言うよりも、どこかのホテルの従業員って感じがする。
俺が勤めている保険会社が入っている雑居ビルの1階にある郵便局も、真新しい制服に変わって、どことなく初々しい感じが違和感あって面白い。
柳ビル内郵便局の黒一点の局員も、まだ袋から出したばかりのような折り目がしっかりと残ったままの制服を身に纏い、時折客から掛けられる、
「あら、制服変わったのねぇ」
なんて声に、
「はい。そうなんですよー」
と、ぽへえ…と、した柔らかな笑顔で返している。
郵便局員と言うよりも幼稚園の先生と言った方がしっくりとくるその男は、初めて会った時よりも仕事に慣れて、客を長く待たせることも少なくなった。
だから、4時過ぎになって職場の郵便物をまとめて差出しに来る俺にも、あっと言う間に順番が回ってくる。
わたわたと慌てていたり、難しいことを質問されて、思わず困った顔をしてしまうのを見るのも密かな楽しみだったんだが、キビキビと仕事をこなす姿も、それはそれで良かったりもする。ほんわかとした笑顔とのギャプも悪く無い。
「こんちは」
「こんにちは。いらっしゃいませ」
俺の欲目じゃなくて、俺に順番が回ってくると、他の客より嬉しそうに笑ってくれるのもたまらない。
「えーっと…これは書留。これは書留の速達。これは、簡易書留で、残りは配達記録で」
「はい。かしこまりました」
「それから、こっちは全部普通で」
「はい。えーっと……あ…全部切手張ってありますね。重さも……ん?これが1通重いかな…すみませんが、ちょっと量らさせてくださいね」
「あ、どうぞ」
「そうですね。10円不足してますので頂いても宜しいでしょうか」
「良いですよ。じゃ、それ、別に領収書切って貰っても良いですか?」
「はい。かしこまりました」
「じゃ、これ」
「はい。では、10円お預かりします……こちらが領収書ですのでお持ち下さい」
「凄いね。持っただけで分かるんだ」
感心したように言うと、少し照れたように笑う。
「ええ…まぁ……」
喋りながらも大量の郵便物をどんどんと処理していくから、後ろの客も文句は言われない。
…それでも俺は知っている。
俺の時だけ、ほんの少し手の動きが遅くなっていることを。
そんな些細なことが可愛い。
警戒心も無く、俺に懐いたこの男がどうしようもなく可愛い。
俺を友人と思って疑わず、少しでも長い時間を過ごそうとしているこの郵便局員。
もしも彼が、自分をネタに、目の前の男が夜な夜なオナニーしているのを知ったら…一体どんな顔を見せるだろうか。
……俺の本心は…まだ教えられない。
今はまだ職場で知り合った友人のままで良い。
「制服、良いね」
「あ、そうですか?ありがとうございます。でも、この下のシャツ、実は半袖なんですよ」
「え?そうなの?」
「長袖の生産が間に合わなかったそうです」
「え?、じゃあ、半袖の上に直にジャケット?」
「や、それだと直ぐに汚れちゃいますから、その下に長袖のTシャツ着てるんです」
「へぇー」
「だから、コレ、絶対脱げませんよ」
「あははっ。や、見たいよ。是非」
「恥ずかしいですよー」
「んじゃ、2人きりの時にでも」
「あはは……じゃ、そんな時があったら」
どうしてもモノにしたいから、慎重に…慎重に。
今はまだ、黙って君に郵便物を差し出す。
別に女がダメって訳じゃない。
ただ、男も平気ってだけ。
側にいて、のんびりした気分になれる感じが好みで、細やかで、子供に好かれるタイプが良い。誰にでも優しく出来るのは最低限の条件で、笑った顔がちょっとトロい感じがすれば尚更良い。デカさはこだわらないけど、出来ればキスは上から出来る方が良い。髪はショートが良いし、手は繊細な感じがする方が良い。
顔はそんなにこだわらないけど、良いに越したことはない。
好みにあてはまれば、積極的にアタックするのが俺のモットー。
この郵便局員はズバリ好みで、出来れば速攻味見がしたい。
……問題は、お互い職場が余りにも近すぎるから、後が色々面倒だって点ぐらいだ。
ところがそれが一番問題だったりする。
どっか飲みに誘って、ベロベロに酔わせたところで、どっかホテルにでも連れ込んでしまえば、ことは簡単だ。ノンヶの奴でも、どこかに隠れている好奇心が男同士のセックスに興味を持っていたりするもんだ。女とするセックスより強い快感を与えてやれば、癖になる奴は案外多い。ホモじゃ無くても一度快楽を教えれば、セックスだけなら誘えば応じるものなのだ。
身体だけだと割り切って付き合った方が、俺としても色々試せて何かと都合が良いものなのだ。
恋愛は、疲れるから好きじゃない。
抱けるだけでいい。
適当に付き合って、飽きた頃に別れる。
それが一番だ。
本当の名前を知らなくても、知らせなくても良い関係ぐらいが、丁度良い。
……ところが、困ったことに好みの男を職場の近くで見つけてしまった。
高校生の時、初めてヤッた相手に似てるのも原因の一つ。
ズバリ好みっていうのが一番の理由。
よりにもよって、自分の職場と同じビルの中の男。
しかも相手は、毎日手紙を出しに行かなければならない郵便局の職員だ。
下手に手を出したら、後が拗れて大変なことになる。
厄介なもんで、障害が多いせいか、美味そうに見えてならない。
釣り銭なんかのやり取りで、意図せず手なんかが触れあうと、ヤバい気分になる自分を正直持て余している。
上手く友人までには漕ぎ着いたものの、その先展開していくのはかなり難しいだろう。
それでも欲しい。
どうしてもヤりたい。
溜まる気持ちを押さえつつ、密かにチャンスを狙っている。
気さくな友人を演じつつ、腹の中ではとんでもないことを考える毎日。
少し俯き加減に郵便料金を計算している姿を見てると、細くて柔らかな髪に手を伸ばしそうで危険だ。
他愛無い世間話をしながらも、頭の中ではペニスの味を想像している。
重傷だ。
「はい、ではお預かり致します。ありがとうございました」
「……え?あ…はい。じゃ、お願いします」
「はい。ありがとうございましたー」
屈託なく笑われる度、胸が苦しい。
まったく……恋する男じゃあるまいし………。
「栗原……おい……栗原っ」
「……………ん?」
「んーだよ、聞いてなかったのかよ…」
「あ…悪ぃ」
同僚の狩野に誘われて駅前の居酒屋でメシを食いに行く。
「何ぼんやりしてんだよ」
まさか本当のことは言えない。
「あ…いや、別に。んで、何?」
「…ほら、経理の麻子ちゃんがさー……」
胸がデカいだの、ウエストが細いだの、狩野は楽しそうに話している。
「でさ、なんとっ、フリーなんだよねぇーっっ。これがまたっっ」
「あ、そー」
「なんだよーっっ栗原感心ねぇなー」
「見た目だけじゃなぁ……」
「と・こ・ろ・がっっ。性格も良いんだ。これがまた」
「ふーん………」
酔った狩野は御機嫌で、延々と吉越の話を続ける。
「……俺さー、今度食事にでも誘ってみよーかなー……」
「ああ、そうすれば?喜ぶんじゃねぇの?」
「でもよー、俺、お前みたいに女の扱い上手くねぇしなァ」
「んな、俺だって上手くねぇよ」
「や、そんなことないね」
赤い顔して、割り箸で俺を指しながら羨ましそうな口調で続ける。
「お前さー職場の女の子達から、結構キャーキャー言われてんだぜ。飲んでて楽しいとかさ」
…ああ、この前の花見の席のことか?
「…別に大したことも話してないけどな」
「それだよそれっ。そのさり気なさが良いんだとよ。あーあー色男はこれだから得だよなァ」
まるで高校生のガキみたいな口調で喋る。ある意味、コイツも可愛い男だ。
「事務の美奈ちゃんなんか、もう『お持ち帰りお願いします』みたいな顔してたんだぜー」
「俺に言わせりゃ、狩野の方が良い男だと思うけどね」
「……嬉しいこと言ってくれるじゃねーかっvvそーだよなっっ、俺良い男だよなぁーっっ」
「うんうん」
ま、まるで食指は動かないが。
女の話だ、仕事の話だのと、酒を飲みながらぐだぐだ話をしているうちに時間も回る。
「うおっ…もーこんな時間かー」
「んじゃ、帰ろうか」
「だな」
会計を済ませて駅前で別れる。
「……ふー……」
肩をゴキゴキ鳴らしながら空を見上げると、ビルの隙間から満月が覗く。
駅前通りは満開の桜が延々と続いている。
「……歩くかな」
…たまにはこんなのも良いかもしれない。
とは言え、歩けば8キロ以上の道のりだから、適当に。
酔った身体に夜風が気持ち良い。
ダラダラと歩きながらぼんやりと郵便局員のことを考える。
ふんわりと笑った顔が直ぐに浮かんでくる。
ほっそりとした身体は、それでも見掛けによらずに力持ちだと言うらしいから、それなりに抱き心地も良いんだろう。
丁度俺の胸にすっぽりと抱き込めるサイズだ。
長くて細い指は、今は随分と器用に切手を切って袋に詰められるようになった。
貯金に来ている親に連れられてきたガキ達が、わざわざ郵便の窓口にまで挨拶にくる。
『はい、こんにちはー』
にっこり笑った顔は、手を振っている子供達よりも可愛いと思う。
些細な動作は、本人は気が付いていないだろうが、結構艶かしかったりしているし。
声も、耳に心地が良い。
セックスするには、きっと最高の相手だろうな…。
桜を見上げながら、可愛い男のこと思う。
……そう言えば『小林』と、いう苗字しか知らない。
ふわふわとした、優しくて、柔らかなイメージがする男だから、優しく抱くと喜ぶだろうな……。
……狩野とそんな話をしていたせいだろうか…付き合ったら…なんて、とんでもない想像までしてしまう。
不思議と、容易に想像出来る。
…恋愛なんかは面倒臭いはずなのに……不思議だった。
「……ま、狩野には自慢も出来ないけどな……」
手を繋いだこともない相手を想う。
列に並んで順番を待ち、郵便物を君に差し出す毎日。
触れあうとすれば、釣り銭のやり取りの時、僅かに触れる指先だけで。
絡み合うことも無く。
ただ、視線を合わせるだけで。
可愛い郵便局員は俺の本心に気付くこと無く笑う。
身体の関係が無い、友人としての関係が続く。
「……………ふぅ……」
………はは……何考えているんだか。
ぼんやりと、君を想いながら酔いに任せて夜道を歩く。
自分でも、何がしたくて、どうなりたいのか、最後には何だか良く分からなくなっていた。
「あれ?栗原さん。どうしたんですか?こんな時間に」
途中、咽が乾いて立ち寄ったコンビニで、想う相手にばったりであった。
「小林さん…」
驚いて素の顔になってしまった自分にも気が付けない。
「飲み会ですか?」
「……あ……ああ、うん。同僚とメシ食ってて……何?家、近いの?」
「はい、この直ぐ裏側のアパートに住んでるんです」
「…あ、へぇー……」
とんでも無いことを言いそうになったのをギリギリで押さえる。
「今、帰りなんですか?」
「あ、うん」
「家は?近いんですか?」
「や……歩くと後1時間は掛かるかな」
「え?歩いて帰るんですか?」
驚いた顔も可愛らしくて、思わず顔が綻んでしまう。
「終バスが出ちゃったからねぇ。タクシー掴まらないんで困ってたところだよ」
目の前の男が、少し悩んで俺を見た。
「僕、送って行きましょうか?」
「………え?」
「自転車ですけど、良いですか?」
「そんな、遠いよ?」
「大丈夫ですよ」
ふわりと笑う。
…その顔に抗えるホモなんて、絶対いない。
「………んじゃ、お願いしようかな?」
「はいっ」
嬉しそうに笑われて、思わず勘違いしそうな自分に驚いた。
そっと脇腹に手を伸ばす。
「あ、そうですね。捕まってくれてた方が安定します」
可愛い郵便局員は、下心にも気付かない。
指の腹に感じた腹筋は、思ったよりもしっかりしているのが意外だった。
衝動的に抱き締めたくなる気持ちを必死で堪えながら平静を装おう。
「桜、綺麗ですね」
「……ん、ああ、そうだね。……ここの桜は区の100選に選ばれるくらい有名らしいよ…」
「あ、そうなんですかぁ。綺麗なはずですよねぇ」
「この先の電器屋の前の1本が早咲きで、そこだけもう葉が芽吹いてるんだよ」
「あっ、知ってます。知ってます。同じ桜でも、あそこまで開花がズレるもんなんですねぇ」
「……うん…悪いね。重いだろう」
「大丈夫ですよ。栗原さん、見た目より全然軽いです」
「…なんだよそれ…」
「あはは……なんでしょうね」
何でも無い会話に、静かに胸が踊った。
甘酸っぱいような……忘れ果てていた感覚に…戸惑いながら話を続けた。
自転車は、桜並木を走り続ける。
「……小林さん…」
「はい?」
「俺さ…小林さんの下の名前って知らないんだよね」
「あ、そうでしたっけ?」
「…ね、なんて言うの?」
ただ、それだけを聞くのに胸が高鳴る。
「和真って言います」
「かずま…良い名前だね」
「昭和のわにまことの真て、和真って言います」
真の和みの中にあるようにってつけられたんですよ、と、言った彼の顔は見えなかった。
かずま…和真…と、何度も心の中で繰り返す。
「…栗原さんの…名前も教えて下さい」
何でも無い口調なのに、まるで女に口説かれている気分がした。
「……ん?…裕樹」
「あ、良いですね。ヒロキって音、栗原さんに合ってます」
「そう?」
「はい…」
自転車は、走る。走る。
桜並木をどこまでも。どこまでも。
午後4時が回る頃。
俺の勤める保険会社の郵便物は一つにまとめられ、差し出し担当の俺の机に集められる。
「じゃ、郵便局に行ってきます」
『お願いしまーす』
定着された毎日の仕事。
経理の吉越と食事の予約を勝ち取った狩野が御機嫌そうにひらひらと手を振る。
両手に抱え郵便局へ。
二人乗りした自転車が置かれているのに気付いて思わず笑いが溢れる。
『いらっしゃいませー』
顔を上げた和真と視線を合わせる。
表情を柔らかくさせ小さな会釈をしてみせる和真に、俺も会釈と笑顔で返す。
「いらっしゃいませ」
順番待ちの後、俺の番がやってくる。
満面の笑顔で両手を俺に伸ばしてくる。
「お預かり致します」
「…小林さん」
「はい?」
「この前はありがとう。助かったよ」
「いえ。帰って済みません」
心で言っても、まだ口には出せない君の名前を無言で呟く。
和真…。
「今度、お礼に夕食でも奢りますよ」
「そんな…悪いですよ」
「いや、奢らせて下さい。ホント」
「………なんか…却って済みません…」
少しずつ君に近付こう。
そのうち声に出して、君を和真と呼んでやろう。
ただね…不思議なんだよ。
欲しいのは、身体だけなはずなのに、君を想うと胸がざわめく。
「ありがとうございましたー」
「じゃ、お願いします。食事の件はまた今度」
「…はい」
自分の会社に戻る時、和真の自転車をもう一度見た。
リアルに、君の腹筋の手触りが蘇る。
おわり。
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