「レストラン」
そこは、イタリアの家庭料理を食べさせてくれる気取らない感じのレストランだった。
住宅街の中にあって、家族で切り盛りしている小さなレストランだ。
白壁と輸入物のタイルとレンガが印象的な建物で、手入れの行き届いた小さな庭には、シンボルツリーとして無花果の木が植えられていた。大きな葉がつくり出す木陰は、清潔で穏やかな空間を作り出していた。
一口大の大きさのオードブルは4種類。手作りのフォカッチャが添えられている。
魚の形のボトルに入った水をグラス2つに注ぎ入れる。
冷えた水は、直ぐにグラスを曇らせ水滴をつける。
パスタは海老と菜の花。魚料理は鯛のグリル。
『そんなに緊張されると、俺の方が緊張しちゃうからさ』
……そんなことも言われたような気もする。
次のデザートはカシスのシャーベット。ぼんやりしていた僕に、君は『口の中がさっぱりするね』と、感想を言いながら3口で食べ切り『へぇ……随分可愛い模様の絵皿なんだね』と言うだろう。その時は、エスプレッソの良い匂いが辺りに漂っているはずだ。
…僕は、『美味しい』と言いながら……本当は何の味も感じていない。
この……目の前で良く喋り、そして良く笑う友人の真意を探るのが必死でそれどころじゃなかった。
彼は、僕が以前一緒に暮らしていた子を病気で失ったことを知っている。
僕が落ち込んでいることも知っている。
その子と僕との関係も、知っている。
知らないのは、僕の能力ぐらいだろうか。
自分の見る夢が『予知夢』と知ったのは、随分子供の頃だった。
そしてその夢が『予知夢』と、言う名前だということを知ったのは中学生に上がった頃。
まだ、本当の子供だった頃、僕の両親と妹は海辺沿いの国道で、荷崩れを起こした大型トラックに正面衝突をされて亡くなってしまった。前日から熱を出した僕だけが、祖母の家に預けられて助かった。
……群青色の乗用車。海沿いの真直ぐな道路。真っ青な空。波の音。潮の匂い。
自分も行くはずだった海水浴。
最初は一人で寂しそうで。でも海が見えたら笑顔になった僕の妹。
「観月(かんげつ)も、連れてきてあげたかっわね」
と、運転手の父にサンドイッチをわたす、母。
「…そうだなぁ」
ツナサンドを頬張りながら、父がもごもごと返事を返す。
「残念だったよなぁ」
…大きな長距離トラックだった。海からの強い風で積み荷が突然崩れて落ちた。
大きくセンターラインを超えて。
一生懸命急ブレーキを踏んだのに、間に合わなかった。
トラックと、乗用車がぶつかる時、誰も、声すら出せなかった。
衝突音のみが四方に響き渡る。
静かな、突然の、死。
雲一つない青空。
突き破られたフロントガラス。
衝撃と共に切り離されたのは両親の頭部。
妹は、全身の骨を砕きながらなお、僅かな時間を生き延びた。
あり得ない体制に破壊された妹の身体は、第一発見者を待てずに車の中で最期を迎える…。
ぐしゃぐしゃになった車の姿とその中の家族の姿を夢の中で見て、ガソリンの臭いと血の匂いを夢の中で嗅がされた。
とても……とても…怖かった。
まだ…夢をフィルターで被う方法を知らなかった僕は、ありのままの映像を全て、見たから。
熱の下がらないふらふらする体で、玄関先まで追い掛けて、泣きじゃくって家族を止めた。一体…子供の悪夢を受け止めてくれる大人はどれだけいるのだろうか…。
少なくとも、僕の両親は受け止められる人ではなかった。
「おにーちゃん、かながカイ、ひろてきたげるねー」
それが最後に聞いた妹の、声。
半年前まで同棲していた少年も、病の告知を夢で聞くこととなってしまった。
こじらせた、風邪。
レントゲンに大きく写し出された病巣。
蝶に似ている…と、感じたそのままの姿。
信じられないような表情で僕を顔を見た、少年の怯えた目。
弱っていく身体。
蝕まれる命。
『…おやすみ…また明日……』
最期の…言葉。
全ては…過去に夢の中で見たものだった。
悪い夢が全てばかりじゃないけれど、それでも未来を知るのは怖い。
何かがある度、何かを夢見る。
恐ろしくて、誰にも、言えない。
「…………え?何?」
急に声を掛けられて、意識が現実に引き戻された。目の前で友人がニコッと、人懐っこい笑顔を見せる。ごくん、と、口の中のものを美味しそうに飲み込むと、
「このシャーベット、口の中がさっぱりするね」
と、夢の中と全く同じ口調で感想を言う。
そのまま続けて二口。彼は、本当に美味しそうに食事をする。
もぐもぐと口を動かしながら、今食べ切ったばかりのデザート皿に視線を落とす。
「へぇ……随分可愛い模様の絵皿なんだね」
思わず、無言で繰り返した台詞に彼の声が上に重なる。
「………そうだね」
……今朝の夢は、9時にセットした目覚まし時計に起こされ、ここで終わった。
今目の前で夢の続きが続いている…と、思うと、何だか不安で落ち着かない。
困ったもので、僕の中で予知夢はもう当たり前の感覚になってしまっていて、中途半端に見た夢が現実に起きている時は、まるで目を塞がれてしまったみたいに不安になってしまう。心の準備が出来なくて、一人どこかに逃げ込みたくなる。
手探りで、時間を迎えるのも好きじゃない。
「あのさ…最近どう?」
「…あ……いつもと変わらないかな……?」
「そっか…良かった」
「……ん…」
「あのさ……」
「……何…?」
困ったように彼が笑う。
「…いや。何でもない」
「……」
「……なぁ、観月」
「…ん?」
「……あんまり籠ってんなよ」
「………ん…分かってる…ありがとう」
不器用で、気の利いた言葉も捜せない彼は、それでも必死で言葉を探す。
「…あ、あのさ……元気……出せなくても良いからよ……元気出せよな……あれ?…俺、何言ってんだろ……」
……何だかおかしかった。
「大丈夫だよ。ありがとう一樹(かずき)」
窓からの日射しは5月と言うよりは、7月の梅雨明けの頃のような日射しで、窓辺の透明な花瓶の中の水が輝いている。
「……僕は…大丈夫だよ」
真直ぐ、今日初めて顔を上げて彼を見る。
「……今日のランチ、本当に美味しかったよ。ありがとう」
「……それは、良かった」
嬉しそうに、一樹が笑う。
夏の日射しに、とても良く似合うような、その笑顔。
ぽつりぽつりと、僕は一樹に恋人の最期を語った。
途中何度も込み上げてくる感情に胸が詰まり、話を途切らせてしまいながらも、拙い言葉で一樹に語った。
ランチはもう終わりの時間で、店内は僕と一樹と二人きりになった。
『気になさらずにごゆっくりどうぞ』
と、特別にコーヒーを煎れてもらい、また静かな時間が訪れる。
「……好きだった…本当に……大切だった……。なのに僕は最期まで何もしてやれなかった……」
穏やかな絶望感が蘇る。
一樹は僕よりよっぽど泣き出しそうになりながらも、必死で平静を装って、黙って話を聞いてくれている。
30過ぎの男二人で何してるんだろうな…なんて思いながらも、話を続ける。
「…ああ…最期だな…って思ったよ……涙を堪えるのが必死だったよ」
『夢で見たから』と、心の中で付け加える。
「………あのさ……俺さ……思うんだけどさ…」
震える声を無理矢理普通にさせながら、一樹が口を開いた。
「…あの子……お前に愛されてたの……良く分かってたと思うよ。お前ってさ……何つーのかな……上手く言えないんださけどさ…好きなヤツにしか笑わない奴だからさ……お前、すげぇ笑ってたと思うよ。少なくとも俺はそう思うよ。……俺さ、見たんだよね……あの子と2人でお前が買い物しているところ。文房具屋でさ…あそこの店ってさ、俺の会社で良く使ってんだけどさ……こんなところでデートかよ。あー、色気ないなぁなんて思って見てたらさ……お前、すごい幸せそうに笑っててさ……。アレ見て、俺、声掛けるの止めたんだよね……邪魔したくなくてさ……」
コーヒーを一口啜り、言葉を探して、僕に伝える。
「あの子、幸せだったよ。…絶対」
急に。
口の中で、今日のランチが再現された。
決して最高の味とは言えない、素朴な味。家庭的で、愛情が込められていて。
頭の中で、今朝見た夢が再現される。
僕を元気付けようと必死で。でも、本人はさり気なさを装い。
顔を筋肉を動かすことすら忘れていた僕を笑わせようと一所懸命に、話を探し、探して。
……僕は……良い、友人を持ったと思う。
「……ありがとう。……僕も……そう思うよ……」
自然と……笑えた。
………今朝、目覚ましがなければ僕はきっとここまで夢に見るんだと思った。
そしたら、もっと安心して食事が出来たかもしれないな…なんて、ふと思った。
…でも、そうしたら、きっとこんなに嬉しいなんて、感じられない。
「一樹、今日はありがとう。とても美味しい食事が出来たよ」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに、一樹が笑う。
「…良かった」
「いかがでしたか?」
席を立った僕らが会計に向かうと、シェフが柔らかな笑顔で訊ねてきた。
「とても美味しかったです。なんだか…ほっとした気分です」
レジの前に立ちはだかり、頑として僕に払わせないつもりの一樹の背中越しから笑顔で答える。
「それは、良かったです。……ああ、美味しいものを食べた顔をしていますね」
「……ええ」
「ありがとうございます。私達にとってはなによりの賛辞です」
穏やかな時間。
美味しい料理。
心許せる友人と共に。
今はまだ、一樹の心に気付かないまま。
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