【鎖を持つ家】

2

 「……………ふぅ……」

 泣くだけ泣いて。
 もう、まぶたも鼻の下も擦れてヒドイことになってた。
 それでも、一杯一杯だった先刻に比べれば遥かにマシだ。
 徐々に物事が考えられるようになってきた。
 落ち着いて、頭をできる限り冷やして、冷静にして。
 手の中の携帯を改めて調べた。
 もう、完璧ぶち壊れてる。試しに床に落ちてる電池を拾って嵌めてみたけど、電源すら入らなかった。
 「……やっぱ、壊れてら…」
 一先ず声に出して確認してみる。
 『……ゾロ様…ここにいるよ…』
 ガキの声は耳に残ったままだ。
 『……もう……会えないよ…』
 うるせぇっ。
 『……来いよ……今ならまだ会える……』
 テレビの上の時計を見る。時間は夜中の十二時時を回っていた。

 『××××××、×××××××』

 ……ガキの言葉を信じるんだったら、ゾロは実家に帰ったってことだ。
 でも、何で?
 『…擁護に会いな…後はあいつに案内させる……』
 おうご…おうご……おうごって言ったらどっかで聞いたような………

 『…ようご?じゃ無いんですか?』
 『おうごだよ。漢字が同じだからね。良く間違えられるから、最近はどっちでも返事をするようにしているけどね』
 笑うと皺で目が見えなくなった。

 ……あ、そうだ。思い出した。
 木村診療所の先生だ。
 ゾロの実家じゃ、結構有名で…そうだそうだ。俺、昔ゾロの実家に一緒に泊まりに行った時、夏風邪ひいて世話になった先生だよ。そーそー。間違いない。

 『……来いよ…今ならまだ会える…』

 選択肢も何もなかった。これで下手な意地張ってここで腐ってたら、本当にもう会えなくなるような気がする。
 俺は立ち上がって、リビングの電気を付けた。
 照明が一斉につくと、今まで暗闇に慣れていた目が痛いくらいに眩しがった。ジジイみたいに目を細めながらも、俺は電話のところまで歩き、受話器を持った。ツー……と、言う音が当たり前なのに、聞こえてちょっとホッとしながら、俺はダイヤルを回した。
 「………頼むッ……起きろよっ……起きろってっ……おいっ……あ、もしもしっウソップ?……俺。…うん。そう。ごめん。……だよな。こんな時間だし。でも、急用なんだ。……うん?………や、違う。じゃなくって、お前の車借りたくてさ。……そう。今。………ダメ。間に合わない。俺、ソッコー出発しなきゃなんねーの。……え?あ、ゾロの実家まで。………うん。いやいや、そんなんじゃないけどさ。………や、話すと長くなるんだよ。……そう。……うん……うん………うん。今から出発しないと間に合わない。…うん……え?良い?サンキューっっ。……いいよいいよ、そんなの全然オッケー。…ん、じゃ、今からそっち行くから。あ、あのさ、悪ぃんだけど、借りてる間、ウソップん家にバイク置いてっても良い?……ん?いいよ。勝手に使って。鍵置いてく。……うん。……うん………………や、ここには、いない。俺一人で行く。………ううん。あいつ、先向こうにいるし……うん。………アリガト。じゃ、速攻行くから宜しく。じゃ」
 ふう……。
 「良かった…」
 これで、朝まで待たなくても直ぐ出発出来る。
 パシッ!!
 俺は、気合い入れのために、自分で自分の顔を叩いた。
 見回せば、まるで泥棒にでも荒らされたかって惨状のリビングルーム。片すには、かなりな労力が必要だろう。でも……謝るもんかっ。もとはと言えば、あいつが悪いっ。
 そうだ。いきなり『すまない…』なんて真顔で言いやがって。
 ふざけんなっ。約束が違うじゃねぇかっっ。
 大体お前、俺と付き合う時なんつったよっ。
 俺が『一生束縛出来るのかよ』つったら、お前、神妙な顔して『約束する』って言ったじゃねぇかっ!!ウソ吐いてんじゃねーよっ!!!!
 勝手に盛り上がって、勝手に終わりにすんなっっ!!!…んな寝言、俺は信じねぇんだからなっ!!!
 絶対お前のところに行ってやる。決めた。絶っ対だ。
 何があったか知らねぇけど、絶対お前のところまで行って、思いっきりブン殴ってやる!!!!
 待ってろ、バカ。
 今更お前無しでいられると思ってんなよボケッ!!!
 さんざん毒を吐いてるうちに、どんどん元のペースに戻ってくる。
 そうだ。捨てられたからって、ぐじぐじゾロの家で待ってたところであの真面目バカ、帰ってくる訳がない。ショック受けておかしくなってるなんて俺らしくない。第一、今ならまだ、間に合う。
 少なくともあのガキはそう言ってたし、俺もそう思う。
 もしも邪険に扱われたら…なんて気弱な考えが頭を過る。
 慌てて掴んで丸めて捨てた。
 その時はその時だ。
 捨てられるんだったら、せめて捨ててやる。
 「……………よし……っ」
 そう。それでこそ俺。
 とにかく、出発しよう。
 カバンの中から財布を出して中身を見たら、三千円しか入ってなかった。ま、これは後でコンビニにでも寄って下ろせば何とでもなる。
 免許も持ってきた。今日は酒も飲んでない。眠気もない。つーか、それどころじゃない。着替えも何も…ま、それもどっかで揃えりゃなんとかなる。
 握ったままの携帯を見た。
 …あの電話は一体何だったんだろう……。
 いや。でも、今は信じるしかない。
 手掛かりって呼べるものがあるとしたら、今はホントそれしかないし。
 俺はちょっとだけ悩んで、その壊れた携帯もカバンの中に突っ込んだ。
 「……後は………あ、そうだ」
 ゾロの部屋に向かった。
 六帖程度のフローリングの部屋は、殺風景なほど何もない部屋で、ベッドとテレビと机ぐらいしかない。俺は部屋の突き当たりまで歩いて行って、机の上のパソコンに電源を入れた。
 ブンッ………。
 暫くしてモニターが光り、立ち上げを始める。
 デスクトップ上にあるランチャーから、年賀状のソフトを立ち上げ、住所録を開いた。
 ゾロと擁護先生の付き合いは長い。俺は一回しかあったことはないが、話にだったら何度か聞いたことはあった。たまに擁護先生のことを話すゾロは、まるで自分の親戚みたいな口調になる。年賀状も送りあっている仲だ。
 多分俺のことも話してるとは思うけど、先生のところを一人で訪ねるんだったら住所ぐらいは持ってった方が良いだろう。
 「…木村…木村…木村擁護……あ、これだ」
 木村診療所の住所と名前を拾う。
 「えーと…紙…かみ…」
 勝手知ったるゾロの部屋。文具は右の三段の引き出しの一番上。
 引き出しの中はあいつらしく、きっちり整頓されていた。
 手前にペン類。その奥に糊とハサミ。その奥に定規。あまりにらしくて鼻の置くがツン…としかけた。
 気を取り直してペンを取る。引き出しを閉じて、真ん中の段を引き出す。
 真ん中はパソコン用紙が入っている。
 引き出すと、丁度紙が使い切っていてたんで、新しい包みを破ろうと一包み取り出したらーーーー。
 その下に封筒を見付けた。
 「………」
 手に取ると、和紙の手触り。どこにでもある普通の封筒だった。その表には墨書きでゾロの名前が書かれていた。大人の、綺麗な女性の字。
 裏返すと、水屑、とだけ書かれていた。
 何か、ものすごく腹が立った。
 まるで隠すみたいな一通の手紙。一人暮しで、物を隠してること自体おかしい。つまりはこの家に来る誰かに隠してた訳で。……つまり、俺だ。
 消印は一年前。
 余計に腹が立った。
 良心が痛まなかったかって言ったら、多少は痛んだ。でも、俺はその中に入っている手紙を取り出した。
 好きだの何だの書いてあったら、テメーのパソコン、ブッ壊してやるからな。
 …くそっ、何で手が震えんだよっ……。
 封筒と同じ素材の和紙で出来た便箋。目を瞑って『水屑さんごめんなさい』と呟くと、一気に開いて、意を決して手紙を開いて、目を開けた。
 「………」
 俺が想像していた内容はそこには一切書かれていなかった。
 ものすごく短い手紙だった。読むのに十秒も掛からなかった。
 難しい言葉は一つもなかった。
 なのにも拘らず、俺はその意味が理解出来なかった。
 「………何だよ……コレ……」
 ゆっくりと目で追いながらもう一度手紙を読んだ。
 『鷹目は次期当主としてゾロ様を選びました』
 さっぱり訳が分からなかった。
 『……もう会えないよ…』
 ガキの笑い声と、夢で見た細い山道が頭に浮かんだ。
 全部が見事にバラバラで、繋がる気配も見せてこない。
 でも、すごく嫌な予感がした。
 しかも、ものすごく当たりそうな感じの。
 殴り書くように擁護先生の診療所の住所と電話番号をメモってカバンに突っ込んだ。手紙も突っ込み、パソコンの電源を切った。
 頭の中は随分マシにはなったものの、結局は混乱しっぱなしで。
 それでも、腹だけは決まっていた。
 俺は絶対にゾロに会いに行かなきゃならない気が、すごくした。
 「………よしっ」
 口の中だけで呟く。
 そのまま俺はカバンとバイクのメットを掴むと、ゾロのマンションから飛び出した。

 ウソップの家で車を借りてコンビニに向かう。ATMで金を下ろして、サンドイッチと飲み物と下着と歯ブラシを買った。腹ごしらえをしながら車を高速道路に向かわせた。
 休みなく飛ばして、港について、カーフェリーに乗って一息つく頃には、すっかり明るくなっていた。
 早朝六時十分カーフェリー出発。二時間四十分後には島の港に到着する。
 ものすごく身体が疲れていた。でも、仮眠を取る気にはどうしてもなれなかった。
 波を掻き分けて進んでいく船の音を聞きながら、潮風に当たり、俺はずっと進行方向の先に見える、島を眺め続けていた。

 

 長い一日の始まりだった。

 

 

*****     

 空の色も。
 海の色も。
 山の濃い緑も。
 以前二人で来た時と全く変わらない、この、島。

 『間もなく船は港に到着します。車で乗船のお客さまは、係員の指示に従って乗車して下さい。また、エンジンは切ってお待ち下さい。乗船券は出口付近の係員にお渡し下さい……間もなく船は到着します…車でお越しのお客さまは………』

 船が接岸する。最下層にあるハッチが大きな音を立てて開いていく。途端に薄暗かった船内に光が差し込んでくる。
 『お待たせ致しました。係員の誘導に従って、順番にお進み下さい』
 俺は、前から順に一台また一台と車が発進して行くのをハンドルに凭れながら眺めていた。次第に視界が開けてくる。
 「さ、どうぞ。真直ぐお進み下さい」
 係員の一人が俺の方を向いて誘導灯を大きく振った。
 エンジンをかける。ギアをドライブに入れる。サイドブレーキを戻し、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
 鉄板性の床にタイヤのゴムが軋んだ。音が船内の壁に反響して何倍も大きな音になって反響していた。
 「お疲れ様でした。チケットをお願いします」
 車のチケットと自分の乗船券を入り口側で立っていた係員に渡した。
 「ありがとうございます。良い御旅行を」
 こんな顔してても、旅行者に見えんのかな。
 ちょっとおかしくなって笑った。
 巨大な駐車場を横切って、ターミナルを旋回し、構内の通路に出る。そのまま道なりに車を走らせ、左折。一つ目のT字路を右折。歩道橋を潜ると、敷地の外だ。信号を左折し、そのまま直進。後は、島の中央を反対側まで突っ切れば良い。
 途中でガソリンスタンドが少ないことに気が付いて、給油。
 夏の日射しが次第に強くなっていく。
 時間は九時三十分。
 今日も一日、暑くなりそうだった。
 昨日から一睡もしていないのに気分は妙に興奮していて、何だかすごく変だった。

 

 三日前、ゾロが突然別れの言葉を言い出した。
 『……実家に戻る』
 『ん?何で?』
 『家を…継がなきゃならなくなった』
 一瞬耳を疑った。
 ゾロは俺と同じ大学に通う、心理学科の二年生だ。
 物静かで、穏やかで、そのくせ一度決めたら頑として聞かない。相手が誰であったって、絶対だ。
 口下手で、気の効いた台詞なんて聞いたことがない。
 不器用で、しょっちゅう俺を怒らせる。
 それでも、いざと言う時は、こっちが赤面するようなとんでもないことを真顔で言うし、最中は信じられないような声を…出す。
 見上げて話さないと、目が合わないのがムカつく。
 運動らしい運動なんて東京に来てからやってないくせに、とことん厚い胸板も、がっしりとして長い腕も、デカい手も、長い指も。絶対折れそうにない太くて長い首も、ムカつくぐらいの股下の長さも。おいモデルかよ、ってぐらいの体型も。皆好みで、全部内緒だ。
 鮮やかな緑色の髪の毛はどこにいても一目で分かって、すごく便利だ。見た目よりは随分柔らかくて知っていてもたまに忘れてびっくりさせられる。
 絶対二股掛けられるような奴じゃない。
 絶対裏切るような奴じゃない。
 絶対嘘つくような奴じゃない。
 だから、信じた。
 告白されたのは、一年生の時の冬。場所は図書館。
 課題だった臨床心理の文献を調べ終わった後、そのまま西洋料理の研究本を棚の中から見付け出してページをめくっていた最中だった。

 あの日のことは、忘れられない。

 他に幾らでも席は空いていたのに、あいつは真直ぐ俺の前の席まで歩いてきた。
 『……座れば?』
 いつまでも座らないあいつに確かそんな言葉を掛けた。
 告白はその直後。
 
 『サンジ』
 『…なんだ、俺の名前言えんじゃん』
 『ああ』
 『んで?何?』
 『好きだ』
 『……へ?』
 『好きだ』
 『……っ…』

 驚いて、逃げた。
 でも、ゾロは諦めなかった。
 三ヶ月間逃げ回って、俺はとうとう捕まった。
 『あんた、おかしいんじゃねーのっ?』
 『……』
 『気持ち悪ぃんだよっ。ホモ』
 『………』
 三ヶ月間、冷静になれる暇なんてなかった。別に付きまとわれた訳でも、ストーカーまがいのことをされた訳でもない。ただ、諦めて貰えなかっただけだ。
 最初は気色悪かった。
 でも、同時に気にならずにはいられなかった。
 バカみたいに意識して、バカみたいに狼狽えたりした。
 逃げ切るために、俺は咄嗟に思い付いた約束を突き付けた。
 『………い…一生だ…っ』
 『………』
 『一生束縛しろ。絶対俺の側から離れるな。いつでも俺の目のつくところにいろ。いつでも俺のことだけを考えろ。……それから…』
 『それから?』
 『…俺を絶対一人にするな』

 出来ない約束を突き付けた。

 『…何があっても、俺だけは、裏切るな』

 目を逸らさずに俺を見つめるあいつを睨み付けながら、(どーだっ)と、思った。
 普通の恋愛でも大変だっていうのに、男同士の恋愛が一生なんて絶対無理だ。
 止めを刺したつもりだった。
 でも。
 あいつは、ゆっくりと、噛み締めるように、言葉を返した。

 『………約束する』

 …もしも、何かがおかしくなったって言うんなら、多分その言葉が切っ掛けだった。俺は無茶苦茶動揺している自分の気持ちを隠すのが精一杯だった。で、多分、きっと。隠しきれてはなかっただろう。
 自分でも顔がどうしようもなく熱くなるのを感じながら、それでも必死に平静を装った。
 『………どうだか』
 その時点で好きだとか何だとかの感情があったかどうか定かじゃない。
 でも、俺達はその日から付き合いが始まった。
 自分で言うのもどうかと思うが、俺は基本的に性格の良い方だとは思えない。思ったことを思った通りにやった試しもないし、嬉しかったからっていって、計算無しにニコニコ笑ってみせたの自体、幼稚園に通ってた頃まで記憶を遡らせないと覚えがない。直ぐ手は出るし、へそも簡単に曲げられる。下手したら女より気が短いし、下手な男よりプライドは高い。自分でもいい加減持て余し気味の性格で、自分が女だったら、絶対俺は自分に恋はしないと思う。
 ゾロは…そんな俺を本気で束縛出来た初めての人間だった。
 身動きが出来なくなるような束縛じゃない、最終的に手の中にいるのに気がつかされるような、そんな感じ。
 色んな意味で、想像以上の奴だった。
 セックスも上手い。
 抱くのも抱かれるのもだ。
 俺は、気がついたら、ゾロが側にいるのが当たり前になっていた。
 
 だから、三日前の突然の言葉に俺は耳を疑った。

 『……実家に戻る』
 『ん?何で?』
 『家を…継がなきゃならなくなった』
 『何で?』
 『………』
 『…ま、いいや。で?いつ帰って来んの?』
 『…………もう、戻らない』
 『………は?』
 『……サンジ……済まない』
 『……や、俺…何言ってんのか全然分かんねぇよ……』

 …………。
 「………」
 プァップァーッ。
 後ろからの軽トラックのクラクションに我に帰った。
 いけない、いけない……。
 走り始めると、バックミラーにうつる信号は直ぐに黄色に変わった。
 軽トラックは結局赤信号に捕まっていた。
 「…ダメだなこんなんじゃ」
 運転してる最中でも、ゾロのことを考えてるようじゃ、末期だろ。事故ったらどうすんだよ。
 随分進んできたらしい。町名はいつの間にかS町に変わっていた。
 もうじき港と丁度反対側の海に出る。
 そしたら、突き当たりの信号を左に曲がって南下すれば良い。
 地図で確認。よし。間違いないな。
 左折。海を右手に見ながら南下。
 後一時間もしないでゾロの実家のある村に到着する。
 山の中の小さな村。
 この前は二人で………。
 慌てて、考えるのを止めた。
 続きはあいつに会ってからだ。

 

 うねうねとした細い山道を上っていく。途中で対向車に会ったらかなりに怖い。
 ガードレールが細い丸太を何本か横にながしたような、いい加減な奴だった。
 家が疎らになってくる。
 杉木立の向こうに小さなダムが見えた。
 もうじきだ。
 嫌な緊張感を憶えた。
 

 

 「…………あった……」
 山奥の小さな村に不釣り合いなくらいしっかりとした、白いタイル造りの建物。
 『木村診療所』
 看板だけが開業の古さを物語ってるぐらいボロかった。
 『急用により、今日明日の診察はお休みします』
 関係ない。俺患者じゃねぇもん。
 躊躇いもせずに何度もドアチャイムを押してやった。
 だって、俺には今手掛かりがコレしかない。
 何十回鳴らしたかと中で分からなくなった頃、ようやく診療所の扉が開いた。
 「申し訳ない。休みを貰っててねぇ。悪いが明後日、出直してくれんかなぁ」
 ちっちゃいジジイが顔を出す。
 「擁護先生ですよねっ」
 咄嗟に扉を掴んで言った。
 「…い、いかにも。僕が擁護だが……………君は…?」
 明らかに不振そうな表情の先生に、慌てて言葉を付け足した。
 「お、俺…っ、サンジって言います。…ゾロ……ロロノア・ゾロ…君の知り合いで……あの、彼に会わせてもらえませんかっ」
 老人の顔が一瞬で固くなった。
 「……まぁ、立ち話もなんだから……どうぞ…」
 固い声が、俺を招き入れた。
 警戒心丸出しの声だったけど、構ってなんていられない。
 俺は、誘われるがままに診療所の中に足を踏み込んだ。

 

 

 

 「…いや、すなまいねぇ。今日は受付の子も看護婦達も皆休ませてるんでねぇ……」
 電気の消えた待ち合い室の、自販機の前で人の良さそうな声を出している。 
 先刻の警戒心丸出しの声が嘘みたいだ。
 「…あ、いえ。お構いなく」
 「いやいや、構うも何も、このありさまさ」
 腰を屈めて紙パックのコーヒーと牛乳を取り出して振り返ってオレを見た。
 「あ、コーヒー飲める?」
 「はい」
 「そりゃあ良かった。さ、じゃ、どうぞ」
 ペタペタとスリッパの音を立てながら、オレの前を歩き、診察室の手前にある応接室へと案内された。
 すすめられるままにソファーに座ると、コーヒーのパックを置かれ、
 「冷たいうちにどーぞ」
 なんて、勧められる。
 「あ………どうも……」
 ミルクたっぷり砂糖たっぷり。コーヒーと思わなければ、まぁ、旨い。
 一気に半分ぐらい飲んで一息ついて、先生を眺めた。
 どこにでもいるような、いかにも人の良さそうなジジイだ。俺のジジイとはエラい違いだ。
 年寄り特有の警戒心はあるものの、人懐っこい笑いは上手い。医者なんて言う職業柄かもしれないな。笑いジワがかなり深い。子供にウケるタイプだな。
 …初めてこの島に着た時に熱出して、この診療に連れてこられた。休診日だったっていうのにも関わらず、直ぐに中に入れてくれた。
 『初めまして。君がサンジ君だね。ゾロ君から話はよく聞いておったよ。一度会いたいと思っていたよ。ああ…でも出来れば元気な時に会いたかったねぇ。辛かっただろう。夏風邪は大変だもんねぇ。さ、もう大丈夫だし楽にしなさい』
 医者って言うだけで苦手なのに、不思議と安心して治療を受けた覚えがある。あのゾロが懐いてるジジイっていうのもあったのかもしれないけど、『怖がることは絶対しないよー』みたいな穏やかな感じが滲み出ていて、安心していたんだと思う。そう言えば、注射がとにかく痛くなかった。
 医者↓注射↓痛ぇ↓怖ぇ↓超怖ぇ。
 って、連鎖的に恐怖感煽られなかったのが良かったのかもな。
 診察室で点滴を受けながら、世間話やゾロの小さかった頃の話を聞いた。
 『芯は強い子なんだけどね、どうにも言葉に不器用でねぇ。思っていることの半分も上手く言えなくてね』
 まるで自分の孫みたいな口調だったを憶えている。
 こういうヤツもいるんだなぁって、ちょっと羨ましく思った。
 だから。
 第一印象が良かった分、先刻の表情の違和感は大きかった。ゾロの名前を出した瞬間表情が固まった。明らかに何かを知っている顔だった。しかも、秘密めいた良くない何かだ。でなきゃあんなに顔色が変わる訳ない。…去年の後期に取った、感情心理学の講議がこんなところで役に立つとは思わなかった。 
 こいつ、ゾロの居所知ってる………。
 何の確証もないまま、オレは確信していた。
 「……えーと、サンジ君だったね。久し振りだね。いや、先刻会った時は思い出せなかったよ。これでも記憶力には自信ある方だったんだけどねぇ。うん。元気そうで何よりだ」
 「…擁護先生」
 「…ん?何かな?」
 「あいつ…ゾロはどこにいるんですか?」
 「さあ……僕は知らないねぇ」
 普通、嘘を吐いてる時って言うのは、目の動きが早くなったり汗をかいたり微妙に声のトーンが変わったりするんだが………ちくしょう。こいつ、タヌキだよ。
 まぁ、医者なんて、隠し事が上手くないとやってられない時もあるだろうしな…。
 「ゾロは、この島に帰るって言ってました」
 「ああ、そう。……いや、僕はまだ会っていないなぁ」
 「…これから会いに行くんでしょう?」
 「いや…どうして?」
 「……電話で、そう教えられました」
 「誰に?」
 オレは咄嗟にゾロの机の引き出しに隠してあった手紙の差出人の名前を言った。
 「水屑です」
 「…っ…」
 よしっ。畳み掛けてやる。
 「…ここに来る前にゾロの実家に行って来ました。東京にいるって言われました。実家に帰るって、あいつは言って出ていったのにですよ。…電話で彼女は… 次期当主に選ばれたって言ってました。だからゾロはもう戻らないって。…でも今ならまだ会えるとも言ってました。あなたに会うよう指示を出されてます。後はあなたに案内させると言われました」
 「…実際この島にいるって確証もないんだよねぇ?」
 「ゾロは、そんな嘘を言うような男じゃありません。先生だって、知ってるでしょう?」
 …例えるんだったら、隠し続けた病名がいよいよ患者にバレる時の表情。

 ただ目を細めただけだった。
 でも表情は全く変わった。
 人の心を底の底まで覗き込もうとするような嫌な感じの目付きも、案外このジジイは似合ってるのかもしれない。

 「……サンジ君」
 口調まで変わる。他に誰もいないのに、急に声のトーンが小さくなった。
 「……君は………どこまで知ってるんだい?」
 ものすごく躊躇いながら、重たい口調で尋ねられた。
 「……全部です」
 オレは挑むような気持ちで言った。
 本当は全然、何一つ分からない。このジジイが唯一の手掛かりだ。
 掛かるはずのない携帯電話から掛かってきたガキの声…多分水屑ってヤツじゃないと思う。声の相手はまるっきりのガキで、手紙の字体は大人の落ち着いた筆跡だった。
 それでも水屑の名前を出したのは正解だった。少なくとも、あの手紙を書いたヤツと、このジジイは何らかの関係があるはずだ。これだけ態度が変わったんだから。
 ジジイは長い間考え込んでいた。
 「…オレは、あいつに用事があります。でも、あなたと一緒でなくては行けません。……ゾロに、会わせて下さい」
 「君は、ゾロ君の何なんだね」
 「…………友人です」
 「本当に?」
 「…………いいえ」
 こんなに長い間、誰かの目を見詰め続けたことって、もしかしたら初めてだったかもしれない。何でか分からなかったけど、目を逸らしたら負けだと思った。
 会いたい。
 そう思ったら、必死だった。
 思い返せば、こんなに必死に何かをしたのは生まれて初めてだったかもしれない。
 「………ゾロ君は、君に別れの言葉を言ったかな」
 医者の問診のような口調で、擁護が言った。
 「はい」
 「それでも、君は諦めないのかね?」
 「はい」
 「例えば、君を守るためにゾロ君が君から離れたんだとしたら?」
 オレは、悩まず言ってやった。
 「そんなの関係ありません。オレがあいつに会いにいくんです」
 「…………そうか…そうか。……それは良い」
 それは、普通で、でも、複雑な表情の笑いだった。
 「………君の気持ちは良く分かった……でも、残念だが僕は君を連れてはいけない」
 「どうしてですかっ」
 「僕にはそんな権限なんてないからね」
 慌てた。
 「そんな…っ、オレは、あなたに連れていくように指示されてるんですよっ」
 「水屑さんに?」
 「はい」
 「それは、嘘だね」
 「う、嘘じゃないですっ」
 「いや、嘘だね」
 「どうしてそんな事が言えるんですかっ」
 「あの家にはね、何も通っていないんだよ。電気もガスも水道も…それから、電話もね」
 んな家あるかよっ。
 「でも…っ」
 「それに、あの水屑さんに限って、他人を招き入れるような事は絶対にしないよ」
 食い下がって食い下がって。
 でも、それ以上の進展はなかった。
 「君の気持ちは分かるけれど、僕は君を連れてはいけない。……君のためにもね」
 一度こうと決めたジジイの決心を変えさせるのは、至難の技で。
 結局オレは、診療所を追い出されてしまった。
 「すまないね……これから一つ手術があってね……」
 「誰のですか?」
 「教えられない」
 応接室のドアが開けられる。
 さあ、と、ばかりにオレを見る。
 もうこれ以上は聞きだせないし、話も出来ない。
 ちくしょう……っっ。どうしろっていうんだよっっ。
 気が付けば、オレは土下座をしていた。
 「お…お願いですっ。ゾロに会わせて下さいっ。お願いですっ!!」
 「…サンジ君…」
 「あんな別れ方は…オレは嫌ですっ!!一人で行けるんだったら…っ、オレは一人で行ってますっ!!行けないから…こうしてここに来たんですっ!!!!教えてくれればオレ一人で行くから…っ…。あなたの名前は絶対に言いませんっっ!!どこにいるかだけでも良いです…っ!! お願いですっ!!教えて下さいっ!!!!」
 ジジイの声は暗く重く、絶対的なものだった。

 

 「………それは…出来ない」

 

 

 ウソップの車の中で暫く落ち込んでいた。
 「………どうしろって言うんだよ……っ」
 畜生…っクソガキ…っ。
 後は擁護に案内させるんじゃなかったのかよっ。
 ここまで来たっていうのによぉっ。
 カバンの中から壊した携帯電話を取り出して、握りしめた。
 壊れた携帯はやっぱり壊れた携帯で、ウンともスンとも言いやしない。
 無茶苦茶落ち込んでるのに、気持ちはエラく焦ってて。
 会いたい。
 すげームカツク。
 でも、会いたい。
 すげー…会いたい。
 たった三日で根を上げるくらい……寂しかった。
 んーだよ……メロメロじゃねーか……。
 疲れが一気に襲って来る。
 「……あーっっ」
 ハンドルを握りしめながら声を出した。
 落ち込むのは後だっ後っ。とにかく全部はあいつにもう一度会ってからだっ。
 不覚にも半ベソをかきかけて、ギリギリのところで踏み止まった。
 昨夜から今日に書けてのことを必死で頭使って考える。

 『後はあいつに案内させる…』
 電話の声はそう言っていた。
 だったら、擁護はゾロのところに行くはずだろう。っつーか、そうであって欲しい。
 正攻法で案内して貰えないんだったら…
 「……だったら…実力行使あるのみだ」
 先刻までいた応接室を見る。窓のカーテンの隙間からのぞいている擁護と目が合うと、慌てたように姿を消した。
 「…フン……」
 オレは車にエンジンを掛けて、診療所を後にした。

 バックミラーに、また擁護の姿が窓に現れるのを確認しながら。

 

 続く

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