【鎖を持つ家】
7
「………それじゃぁ、ゾロ君、始めようか」
「はい。……擁護先生」
「ん?何かな?」
「……いえ。宜しくお願いします」
サンジが山代へと続く道を一人で辿っている頃、擁護は手術の準備を進めていた。
一年前、先代が亡くなり、山代は次の生け贄である一族の次期当主を名指しした。
息子のゾロである。
始め、一族の誰もが信じることは出来なかった。
なぜなら、一族の当主は能力の高い者がなるのが常とされていたからである。
決して直系の子孫が資格を持つというものではない。
心理学を学ぶために島から離れ東京で暮すことを許されていたゾロは、山代の結界からも遠く離れることが出来る程度の能力しかないのだと考えられていた。
実際、ゾロには自覚している能力がほとんど存在していない。
島の中にはゾロと比べて遥かに高度な能力を持つ人間は幾らでも存在していた。
一族の誰もが次期当主がゾロになるとは夢にも思わなかったのだ。
ごく一部の人間と、山代と鷹目を除いて。
「…………」
「………ゾロ…さ…ま」
「……ん?何だ?」
「……入って…も、良…です?」
「ああ」
当主としてではなく、山代に繋ぎ止められた結界中心部護衛のくいなと、
「水屑(みくず)、が、用、意…できまし、た…て」
くいなの姉であり、やはり山代に繋ぎ止められている使用人の水屑。
この二人だけは、先代の臨終が近付く前から次期当主にはゾロが指名されることを確信していた。
一族中で、群を抜いて高い能力を保有するこの姉妹には、潜在能力を見分ける力も携わっていたのである。
確かにゾロには現在、表面化している特殊な能力は何一つとして存在していない。
だが、二人の姉妹は昔からゾロが時折見せる強い意志のうねりをはっきりと感じ取っていた。
まだ全くコントロールされていない『うねり』は、水に多大なる影響をもたらした。
拡散する意志の波動が、水の中で形を形成させるのだ。
時にそれは水紋であり、時にそれは波であり、時にそれは雨にもなった。
意志を帯びた水は、結界に存在する魑魅魍魎や鬼達に畏敬の念を抱かせた。
先代臨終の瞬間には、水は人の形にまで姿を変えようとしたのだ。
通常、意志を持たない物体に意志を与えて動かすことは人外の能力とされている。
凄まじい潜在能力をゾロは身体の奥底に秘めていたのだ。
敢て島から離し、東京の高校、大学へと通うことを許していたのは、偏に山代がゾロの未熟な能力がもたらす水への影響を懸念しての措置であったに過ぎない。
継承の儀により潜在という封印を解き放ち、ゾロが持つ底知れない能力を自分の体内で発揮させ、より一層の力を貯えようと山代はゾロの成長を心待ちにしていたのであった。
逸材。
あえて素材として言うのであれば。
ゾロは稀に見る逸材なのだ。
「……ああ…分かった。先生は?」
「はい。消、毒終たら、呼び、に、いく、て」
くいなは言語に障害を持つ。これは山代によって潜在能力を引き出された時に払わされた、大きな代償である。
くいなは多くの能力を内に秘めた子供である。
引き出されたのは二つ。
常軌を逸脱する程の剣術の能力と、呪術の能力である。
潜在能力を力ずくで引き出すには、その数と同数の代価を要とする。
くいなは、十年前に山代に選ばれ能力を引き出された。
代価は脳内の言語中枢の破壊と身体の成長である。
必死の努力はようやく拙いながらも会話を再獲得したものの、成長はあの日の子供のまま、これ以上成長することはない。
「ゾロ様…元気、出たか、です?」
人見知りが強いものの、素直で優しい少女である。
「…ああ……」
素早く辺りを見渡すと、作務衣の懐から小さな包みを取り出して、ゾロの掌にちょこんと乗せた。
「……カンロ飴?」
「元気、出る薬、です。ゾロ様にくれます」
「…俺に?」
「水屑にバ、レると、怒るて、怖いか、ら、早く、食え。です」
「………」
「今食え、です」
早く、と、言わんばかりに目を丸くして覗き込んでくるくいなにゾロはようやく笑顔を見せた。
「…悪ィな」
包みを開いて奥歯で半分に噛み砕くと、
「ほら、くいなも食えよ」
と、半分はそのまま口の中に入れ、半分をくいなに差し出した。
「…あ…」
「もうじき手術が始まるからな。味わうんなら半分で十分だ」
くいなは耳まで真っ赤になって半分に割られた飴を受け取り、僅かに震える指先がバレないように急いで口へと放り込んだ。
「あ、本当だ。元気が出てきた」
とぼけたような声で言い、ニヤリとくいなに笑ってみせた。
「…………それは…良か、たです……」
くいなは本当ならゾロと同い年だ。
同じ剣道の道場に通い、上下関係無く、普通に友人として会話し、笑い、ケンカもした。
早くから能力が開花していたくいなが山代の護衛のために家に入るのを聞かされたのは十年前。
共に剣豪を目指そうと誓った夜の次の日だった。
昨日再会した時聞かされてはいたものの、あまりの変わらない姿に絶句した。
山代の力を目の当たりにした瞬間だった。
いくら『ゾロ』で良い、と言っても、もう立場が違うからと頑に『ゾロ様』と言うくいなを相変わらずだと思いながら、掛ける言葉が見付からなかった。
『ごめんな…さ、い。…でも、ちょとうれ、しい』
と、複雑そうな顔をして笑うくいなにも、やはりゾロは何の言葉もかけられなかった。
暫く二人は黙って飴を舐めていたが、ふと上目遣いにゾロを見上げたくいなが気付いた。
「ゾロ様、誰、か、来るか、です?」
「……いや。どうして?」
「今、人待、つ、目、してたからです」
ふと、ゾロの表情が曇る。
「……ああ」
「山代に来る、の、か、です?」
「いや…来ない」
妙にきっぱりとした口調が却って不自然だった。
「どしてです?」
「来れないからだ」
「なでか?、です?」
「……あいつは…」
無理にいつも通りの口調にしたような、重い言葉。
「一族の人間じゃない」
一族の人間でなければ山代の存在も場所も知らないのは尤もである。だが、くいなはゾロの表情の違和感が不思議でならなかった。
「…でも、来て欲、しそな顔、してるです」
くっ…と、ゾロは表情を硬くし。
「……もう会わねェ」
まるで、全てが終ってしまったかのような口調に、くいなは次の言葉が続けられなかった。
カリリ…と、口の中の飴を齧った。
「ありがとな。くいなも準備が忙しいんじゃないのか?俺はもう大丈夫だ」
「……ほんと、に…だいじょ…ぶ、か?です?」
「…ああ。大丈夫だ」
側にいればいる程、ゾロの心の痛みが感じ取れる。
しかし、もう後には引き返せない。
山代の言葉は絶対だ。
ここでは思うことすら赦されない。
継承の儀はもう始まったのだ。
くいなは心を痛めながらも立ち上がり一礼の後、ゾロのいる部屋を後にした。
「……………………っ…」
ガリガリと乱暴に口に残った飴を噛み砕く。
ゾロは一人、両手の拳を固く握り締める。
サンジの顔が忘れられない。
ギリ…ッ…と、歯軋りをする。
辛い記憶がフラッシュバックを引き起こす。
『もう戻らない』
『……何だって…?』
自分の言葉が理解出来ずに見開かれたままの瞳。
捨てられるのだと気付いた時の、純粋な悲しみ。
性格に邪魔されて、引き止めることも、縋ることも出来ずに立ち尽くしていた、サンジ。
性格を知り尽くしていたからこそ、追い縋れないような言葉を探して、ぶつけた。
『…なんだよ…全然意味…分かんねぇよ…』
小刻みに震えていた身体。
やっと手に入れたと思っていたのに。
やっと想いが通じたと思っていたのに。
約束まで、したというのに。
最悪な形で裏切った。
嫉妬深い山代に自分の大切な存在を気付かれてしまった今、自分を憎ませ、遠ざけることしかサンジを守る術はない。
山代は敵うような相手じゃない。
鷹目など、一撃で殺されてしまうだろう。
たとえ盾になったとしても、今の自分ではあまりにも弱すぎる。
力及ばず自分の命が尽きるだけなら諦めもつく。
だが、サンジは別だ。
特別だ。
何があっても傷一つ付けたくない。
サンジだけはどうしても守りたい。
誰よりも、何よりも大切な存在だから。
しかし、山代からサンジを守り切る自信は、なかった。
『……何で…だよ…っ…』
痛々しい声が今も耳に残る。
あの時、捕まえられ、組み敷かれ、口付けられていたら自分は抵抗出来無かったと思う。
本当は離れたくなかった。
最後にセックスしたのはいつだったか…などと不謹慎なことまで考えていた。
最後にもう一度セックスしたいとすら思った。
だが…何もしなかった。
ゾロは黙って部屋を後にし、
サンジはあの場所から一歩も動かなかった。
動けなかった。
サンジはそういう男だ。
「………っ…」
失ったものは余りにも大きい。
涙すら出ない。
ここに現実として、自分が当主として山代の中に居る。
外界の全てから切り離され、山代に繋がれる。
嫉妬深い山代は、鷹目の口からゾロに伝えた。
『お前の愛しい男を…殺しても……良いのか…?』
自分の弱さが心底…憎い。
手放すしか、助ける方法が、無かったのだ。
(……サンジ…っ…)
一番大切な人には、もう会うことは出来ない。
肌を重ねることも。
触れ合うことも。
言葉を伝えることも。
もう、何も。
出来ない。
「………」
ゾロの心は麻痺を起こしていた。
何を失っても。
サンジを失った今となっては、もう何もかも、大した問題ではなかった。
部屋の中から庭を眺める。
強い夏の日射しが、手入れの行き届いた庭を隅々まで照らしている。
蝉の鳴き声。
「………………今日も暑くなりそうだな……」
ぽつりと呟く。
いつも通りの口調だったことにも気付けなかった。
「……さて、ゾロ君、体調はどうかな?」
「………大丈夫です」
準備の終った擁護がゾロの部屋へとやってきた。
擁護は年寄り独特の人懐っこい笑顔で側に寄ってくる。 いつも通りの表情をしてくれているのがゾロにとっては何よりもありがたかった。
「そうか。で、術式は何時くらいから始めれば間に合うのかな?」
「『清めの儀』の前までに」
「そっかー。じゃあ、後一時間はあるよ」
「…角膜は水屑に渡して下さい。入れる容器は後で持ってこさせます」
医者は、気丈に振る舞う人間の心の機微を感じ取ることが出来る。
擁護は務めて明るい口調で言葉を探した。
「…しかし、ゾロ君も大変だねぇ」
「……いえ」
「良い目なのにねぇ。……まぁ、でも、せめて他の誰でもなくこの僕にやらせて貰えて嬉しいよ」
「……はい」
「コラコラ、ゾロ君、こういう時は文句の一つも言って良いもんだよ」
「……………辛いのは俺だけじゃない」
『清めの儀』とは、禊を意味する儀式である。
継承の儀を執り行う中で一番最初に行われる儀式であり俗世間から切り離し、身体を清め、心身の能力を高める。
ここで霊視の能力を持たない者は、山代が直接能力を与えるために器官を一つ明け渡さなければならない。
左目の視力だ。
先代までは実際に眼球全てを摘出され奉納されていた。
「先生」
「ん?」
「ありがとうございます」
「んん?」
「眼球の摘出が無くなったのは、先生のおかげです」
「いやいや…」
擁護が山代に必死に説得してくれたのよ…と、先刻水屑はゾロに耳打ちをした。
「だって…ねぇ…」
擁護はぽりぽりと頭を掻き、だって良い目だもんねぇ、と、そのまま皺だらけの手伸ばしゾロの左の頬を撫でた。
「出来ればこのまま何もしたくはないんだよ」
優しい口調で医者は言った。
ゾロは黙って首を横に振った。
「…済まないねぇ…結局は君に何もしてやれない」
「……いいえ」
ようやく真っ直ぐにゾロは擁護の目を見詰めた。
「もう十分です」
ゾロは、笑った。
「もう、十分です。」
継承の儀は大きく分けて、禊のための清めの儀と、斧により手足の切断を行い、山代に永遠の忠誠を誓う奉納の儀の二つの儀式から構成されている。どちらも命の危険が伴い、実際、儀式の最中に命を落とす継承者も少なくない。
今回は、決してゾロに危険がないようにとの特別処置が認められ、初めて擁護の要求が通された。
手足の切断にも、今回初めて麻酔薬と止血剤が導入される。
それでも、切断は死と隣り合わせであることには変わりない。
儀式の最中は、ゾロの命を救うために特別に呼ばれている擁護でも拝殿の立ち入りを禁止されている。最も危険な瞬間に立ち会うことが出来ないのだ。
ゾロは決して意識を失うこと無く素人の止血技術のみで、切断から儀式の終了までの時間を生き延びなければならない。
どれだけ過酷なことか。擁護は医者として十分すぎる程理解していた。
「ああ…あのねぇ…『奉納の儀』には、やっぱりどうしても立ち会えないのかなぁ…」
「はい」
「そっかぁ…うーん…困ったねぇ……心配だなぁ……」
「大丈夫です。もしも命を落とすなら、結局俺はそこまでの人間です」
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