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 『フェルマーの最終定理』
 この問題は、三百余年に渡り数学界に君臨した。
 問題は至ってシンプル。
 ピュタゴラスの定理『x2+y2=z2』(注・直角三角形を定義する際に使われている定理。直角三角形であれば、斜辺の二乗はその他の二辺をそれぞれ二乗したものを足したものと等しい)の指数2を変形させたモノがそうだ。

 

 

 xn+yn=zn nは2より大きい

 

 

 かつてフェルマーという男が、このnの部分が2よりも大きくなると、式を成立させるx・y・zの三つ組み数は存在しないのではないかと考えたのだ。
 そしてその男は自らが立てた予想が正しいことを証明した。
 だが、どうやって証明したのかをフェルマーは残さなかったのだ。
 

 私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことは出来ない

 

 このムカつくメモ書きとわずかなヒントを残したまま、重い病で命を落とすというとてつもなく迷惑な行為をしでかした男が発見した『驚くべき証明』知りたさに、多くの数学者が自分の数学人生を賭して挑み続けた。

 独眼の数学者、オイラー。
 男だと偽りながら研究を続けたソフィー。
 ソフィーの理論を展開させた老人ルジャンドル。
 同じくソフィーの理論により一つの解を発見するに至ったディリクレ。
 コーシー、ラメ。
 当時の数学の限界にいち早く気付いたクンマー。
 フェルマーの最終定理に懸賞をつけたヴォルフスケール。
 証明そのものを否定したゲーテル。
 無限の計算を課せられ、より高次の性能を求められ続けるコンピューター。
 フェルマーの最終定理を証明する手掛かりを掴んだフライ。
 その手掛かりである『数学の大統一』の大きな布石となった『谷山=志村予想』を立てた二人の日本人、谷山、志村。
 群論を証明の強力な武器とした若き数学者、ガロア。
 そして、たった一人でフェルマーの最終定理の証明を果たした、アンドリュー・ワイルズ。

 皆、フェルマーが残した最終の定理の証明を目指し、数論の世界を生き抜いた強者ばかりだ。彼等一人一人の伝記を読むだけでもそれなりにドラマチックなものばかりだ。
 ただ一人を除いた全ての数学者は、フェルマーが見付けた最終の解を求め、人生を賭し、道半ばで命が尽きた。
 三百余年の歴史の中で、フェルマー以外に最終の解へと辿り着いたのはたった一人の男だけだった。

 

 既存する理論を研究し理解を深め、後世に伝える人生を選ぶか。
 現存する問題を証明するために、未知の領域で解を探す人生を選ぶか。

 

 俺は、未知の領域で解を求め続ける人生の方が面白い。

 

 時折山積みにした専門書を引っ張り出しながら論文を読み進めて行く。
 数百二も渡る計算が数千もの論理を元にして複雑に混ざりあいながら構築されたワイルズの論文は、理解するだけでも恐ろしく難しい。
 一文字でも気を抜いてしまえば、あっという間に論点を見失ってしまうほどの難易の高さだ。
 特に論文の後半に出てくるコリヴァギン=フラッハ法が強化された部分に入ってくると一般的な帰納法だけじゃ説明出来ない高次な部分が一気に増えてくる。
 「……ふー…っ……」
 よくもまぁ…これだけのジャンルを極められたもんだと感心させられる。

 

 『モジュラー楕円曲線とフェルマーの最終定理』を理解するのに苦しみながら、ようやく一つ目の論文を読み切る頃には、すっかり外は暗くなっていた。
 時計を見ると九時三十分になっている。
 「…もうこんな時間か」
 早くしないとめぼしいヤツ等もいなくなる。
 俺は読み終わった論文と使い終わった専門書をもとあった場所に戻すと、手付かずの『ある種のヘッケ環の環論的性質』だけ明日また読めるようにそのまま残して部屋を出た。

 

 

 

 一時間後。
 俺は新宿のサウナ店の中にいた。
 入り口で顔馴染みの店員に金を払い、ロッカーに服を放り込んで腰にタオルを撒いてサウナに向う。
 木製のドアを開けると約二十帖の薄暗いサウナルームの室内に今夜は…十…五人の男が
じっと座って汗を流していた。
 年齢層も体格も雰囲気も様々だ。
 あからさまではないが、室内に入って男達の前を通り過ぎる時に探るような視線を感じる。
 別にサービスしてやるつもりは無いが、俺は十分に品定めが出来るように男達の目の前で腰のタオルを撒き直してやった。
 『……っ』
 息を呑むような気配とそわそわし出す男達を無視して手近な場所に腰を下ろした。
  「……ねぇ…今夜は誰かと待ち合せとかしてんの?」
 AV男優みたいな体付きをした日焼けで浅黒い肌の男が、自分の筋肉を見せびらかすような動きをしながら隣りに座ってきた。
 「いや。今日は一人だ」
 「…そうなんだ…あのさ、俺も一人なんだ…」
 顔を向けると汗で全身をテカらせながら、真っ白い歯を見せて男が笑顔を見せた。
 「良かったら、一緒に、どお?」
 チラチラと捲ってみせたタオルの下には無駄にデカイ一物が半勃ちしているのが見えた。
 「俺さ…」
 興奮した小声で男が言う。
 「今日仕事ですげェ一杯…してきたから……興奮してて眠れそうにないんだ…」
 「………悪いが、他をあたってくれないか」
 「………」
 男は黙って他の席へと移って行く。
 他のヤツ等は俺と男のやり取りを無関心を装いながら聞き耳を立てている。
 ここは新宿にあるハッテン場の一つ。
 ゲイがパートナーを捜して集まる「Gay cruising spot」みたいなモンだ。
 目的は色々あるだろうが、ここの店の目的はたった一つ。
 後腐れ無いセックスを存分に楽しむ。だ。
 会員制の店でも良いんだが、羽目を外して行為に及びたい時にはこっちの店を利用している。
 公園や映画館で物色するのも悪くないが、この店は薬物と性病に関する規定が厳しく、入会時に徹底的に調べられた上でないと会員はなれず、その後もしっかりと管理された者しか利用が出来ないって点が気に入っている。
 老若男々、多種多様だが、誰を選んでも安全かつ後腐れが無い所が良い。
 激しいセックスがしたい時には迷わず足を運ぶ店だ。
 セックス目的の客ばかりなのに、ガッついて人前で始めるヤツがいない所も気に入っている。



 続く

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