「見聞録」
12


 4本目の幹線が終わって、俺と谷田君が最上階まで掛け上ると、次のシャフトの前でコウイチさんがぐったりと座り込んでいた。
 「…やあ、早いねぇ」
 よっこらせっ、と、立ち上がってみせるが、腰に来ているらしい。押さえながら少し痛そうにしている。
 「大丈夫か?」
 俺が聞く前に谷田さんが本当に心配そうに声を掛けた。
 「おう。まあ、もうじき3時休みだし。もう1本やっつけてぇな」
 腰に手を当てた両手の親指で指圧しながら、コウイチさんはドラムを眺めた。
 「暗くなりはじめる前にメドつけとかないと…。立ち入り禁止は今日一杯しかないしな」
 少し困ったように呟いた。
 「コウイチさん、ペース遅いですか?それだったら俺、もっと頑張りますよ」
 「ありがとう。でも、俺の方が間に合わなくなっちゃてきたよ」
 無理もない。確かに引っ張れば電線が引き出せるように細工はしっかりしているものの、専用の道具を使ったって訳じゃないから、不安定なことこの上ないんだと思う。一度セットしたドラムが万一落ちたら、いくらコウイチさんでも一人では戻せない。落ちた勢いで廊下のモルタル(仕上げ用のコンクリートのこと。キメが細かく色が白い)にヒビでも入ったら…それこそ大変だ。ちょっとやそっとじゃ修復出来ない。どうしたっても慎重にならざるを得ないんだろう。あのコウイチさんが、シャフトから何度も出入りしている様子からしても良く分かる。
 それに俺と谷田君は1フロアーごとに交互の仕事なのに対して、コウイチさんは一度幹線が始まったら伸ばし切るまでほとんど休むことが出来ない。俺みたいな素人が混ざっているから気だって倍以上使わなきゃいけない。それなら…
 「変わってやれりゃあ良いんだがな」
 谷田君の言葉に、「代わりましょうか?」と咽まで出掛かった言葉を慌てて引っ込める。
 …そうだよな。代れるもんならとっくにそうしてるよな。
 「お前はよく平気だよなー」
 「まあな」
 なんて話している二人の話でふと思い出す。
 コウイチさん、俺が昼前に合流した時、エラく疲れてた感じだった。
 幹線の準備で疲れたって谷田君は言ってたっけ。うんうん。そうだ。確かにあの時の谷田君は元気そうだったな。同じ仕事してても体力の消耗度は谷田君の方が少ないんだな。まぁ、見るからにタフそうだしね。実際タフだし。
 お昼休みの時もそうだ。コウイチさん、いつもだったら眠るにしてもメシ食い終わってから眠るのに、今日は食べ切る前からウトウトしてた。それに比べて谷田君は、いつも通りにデッカイ弁当、きっちり食ってたし。確かにタフだ。素直に感心してしまう。
 「本当、谷田君はタフですねー」
 思わず感想が口から出てしまった。
 コウイチさんがこれだけ疲れる仕事でもいつもと変わらないんだから。
 ところが。
 何気に言った言葉に、二人は異常に反応したのであった。
 動きが止まって身体が固まり、振り向いた目は、まんまるだった。
 「ど、どうしたんですか?そんなびっくりした顔して」
 「谷田君…」
 コウイチさんがなぜかおそるおそる、と、いった口調で。
 「………もしかして……見た?」
 「何をですか?」
 「バカッ」
 谷田君に後頭部を叩かれる。えっ?ツッコミ?何で?
 「イテッッ」
 コウイチさんが頭を押さえながら文句を言う。
 「んな…叩かなくてもいーじゃねぇか」
 「お前がアホなこと言うからだろーがッ」
 「だって見られたと思ったから」
 「だから言うなって言ってんだろーがッッ」
 「叩くなよっっ」
 頭を摩りながら怒るコウイチさん。まるで漫才。
 「どうしたんですか二人とも」
 『な、なんでもないッス!!』
 背筋をぴーんと張って、二人同時に返事をされてしまった。
 ………変な二人。
 何だか分からないけど、なんかヤバい雰囲気になってしまった。しまった。何だか良く分からないけど俺は変な質問をしてしまったらしい。
 誰もが次の言葉を見付けられなくなって黙ってしまうと、タイミングよくコウイチさんの携帯に電話が掛かってきた。ほっとしたように電話を手にするコウイチさんを見て、思わず俺までほっとしてしまった。
 「はい、もしもし…あ、アネキ?…うん。え?なに、もう終わったの?ハンドル付けも?……あ、そう?…すげーなー。……うん…うん……あ、俺も丁度頼もうかと思ってたところ。…え?もうそんな時間?…あ、ホントだ。ん?4本……うーん…うん……ん、分かった。んじゃ、後で」
 「お姉さん?」
 これもまた、ほっとした表情の谷田君が声を掛ける。
 「うん。アネキ、自分の仕事終わったから合流するってさ」
 「えーーーっっ?!」
 驚いたのは俺。
 「もう終わったんですか?ハンドルは?」
 このハンドルって言うのは、ここ数年の間で出回ってきた押すだけで電気の入り切りが出来る最新式のスイッチカバーのこと。最近某有名電気会社のCMで黒……何だっけ?えっとあの美人の女優がやってる奴。スイッチがメインのバージョン。アレが最新式のスイッチ。俺もこの仕事やって初めて見た。(因にアレは、業界用語でシングルって呼ばれるサイズ)
 「終わったってさ」
 「……すごい」
 部屋の配線機具を止めるだけでも大変なのに、ハンドルまで……。
 第一、ハンドルつける前にはもう一過程待っている。それを一人で。俺のダウンライトまで手伝ってくれて。その上、完了なんて。凄すぎる…。
 俺だったら、朝から掛りっきりでやったって、6部屋中5部屋終われば良い方だ。勿論プレート、ハンドル付けはナシとして。それでも親方さんには早い方だと誉められるのに…。
 「……早いですねぇ」
 「お姉さん、部屋内仕上げは半端ないっスから」
 感心する俺に、谷田君が返してくれた。
 「数もの勝負で右に出る職人、多分いないッすね。ありゃ、長年のカンでやってますから。充電ドライバーの、予備バッテリーの充電が間に合わないのって、あの人以外見たことないッスからね」
 ……45分でバッテリー使い切るなんて……。
 「……すげー……」
 上を見ればキリがないけど、上には上っているもんだ。果たして俺も出来るようになれるかどうか…。
 「アネキが来るんだったら人数的にオッケーっしょ。んじゃ、少し早いけど一服しよっか」
 腰を押さえながらコウイチさんが言った。先刻の時間に追われた表情が随分柔らかくなっている。コウイチさんにとってもお姉さんは強力な助っ人のようである。人足早い一服に無論俺達に依存はない。
 「はいっ」
 返す返事も元気になる。こんなことろは現金なんだよね。俺も。
 「ま、確かにキツかったよな」
 トントンと腰を叩く谷田さんに、
 「アレ?谷田さんも腰に来ましたか?」
 って、聞いたら、実は…と、笑って返された。
 「俺、なんせガタイがデッカイんで。シャフト作業って苦手なンスよ。狭くって、狭くって。岡野さんくらい小柄だったら中入って引っ張るのも楽ッスよね」
 「あ、確かにそうかも。でも、やっぱり腰道具が引っ掛かりますね」
 「え?腰道具つけて入ってるんスか?」
 またまた谷田君、ビックリした顔を俺に向ける。いや、腰道具付けるって、当たり前じゃない?
 「はい」
 「俺、無理ッス。外して入ってるッスね」
 ……ああ、なる程。
 「そっかー、そうすれば良いんだー」
 状況によっては、外して仕事もありなのか。これは目からウロコだ。…なんて感心している俺に、谷田君は信じられないって感じで呟いた。
 「あの中にどうすればアノ腰道具ごと入れるンスか…?」
 道具だらけの腰道具。確かに入り難いんだけどね。
 「さ、降りよう」
 「あ、はいっ」
 コウイチさん声を掛けられて、俺は返事と共に歩き始めた。
 「おいユウッッ、何やってンだよ降りるぞ」
 歩き出した俺達に付いて来ることなく、『腰道具付き岡野、シャフト収納図』を懸命に考える谷田君であった。
 それにしても、何で先刻はあんなに二人とも慌ててたのか…。
 階段を降りながら、そんなことを思い出したりなんかした。
 目の前を歩くコウイチさんはやっぱり腰が痛そうで。踊り場で時折腰を押さえたりしながら顔をしかめる。
 ……ポーカーフェイスでこっそり思う。
 見方によっては色っぽいです、その格好って。
 まるで…。
 想像しながら自己嫌悪。
 でも、頭の中のコウイチさんは、色っぽく喘ぐ。
 考えだしら止まらなかった。
 前の記憶がすり変わる。
 痛みと……悔しいけれど間違いなく存在してた快感に、上司の机に縋り付きながら腰を振っていた俺がコウイチさんに。
 上司は………。
 俺はブルブル頭を振った。
 ヤバい妄想があんまりヤバくて。
 コウイチさんにも谷田君にも、それは失礼ってもんだろう。
 皆が皆、俺みたいな奴って訳がある筈ないよ。


 午後3時。
 お茶の時間。
 お姉さん特製のコーヒーとクッキーである。
 女の人って凄いと思う。
 どうしてこういうところに気が回るんだろう。
 午前中の休みには塩分。午後の休みには糖分。今日の仕事はかなりにハードな筈なのに、あんまり疲れた気がしない。
 俺が落ち込んでいるのに気が付けば、さり気なくフォローしてくれたり。
 偉そうにしたりとか威張ったりとか全然しないし、でも、仕事はしっかり出来たりするし。器用だし。それになにより。
 「いやぁ、恵美のコーヒーは上手いなァ」
 「あら?お父さん、クッキーは?誉めてくれないの?これ、かなり上手に焼けたんだんだから」
 「おう、上手いぞ。上手い。クッキーも最高だ」
 現場が明るい。
 あの親方さんですら、デレデレしっぱなしだ。
 少ししかなくてゴメンなさいね、と、紙コップ半分くらいしかないコーヒーを啜りながら、『現場に女性がいるメリット』なんて考えてしまった。
 意外に一杯ありそうだよな。
 うん。
 それでも女の人にとっては厳しい職場だもんな。
 男女平等とか言ってても、こういうところってまだまだだよな。
 「お父さん、あたし機具付け終わったから、コウイチ達と合流したいんだけど良い?」
 「おう。良いぞ。何?もう終わったか?」
 「うん」
 「早いなー」
 「ありがと。ねぇ、お父さんは今何やってるの?」
 「おう?俺は街灯の電源引っ張ってるところだ。もうじき終わるし、そしたら俺も合流出来るぞ」
 「あ、そしたら助かるッス。コウイチ、腰に来てるらしくて」
 谷田君の言葉に、お姉さんが振り向く。
 「こーら。ダメでしょ」
 「………すんません」
 二人の短いやり取りの意味に気付くのは、まだもう少し後のことで。
 「何だ、コウイチ、お前ぇ腰痛ぇのか?」
 親方さんが銜えた煙草に火をつける。
 「や、大したことない」
 「けっ、弱ぇなぁ」
 「うっせぇ」
 親方さんはフーっと煙りを吐き出して、
 「まぁ、無理すんな。お前ぇが倒れたら、現場も倒れるぞ」
 そう言って、ニヤッと笑った。
 …良いな…と、思った。
 親方さんなりの心配の言葉なのが俺にも分かった。
 親方さんだからそこのアドバイスなのも、警告なのも分かった。
 俺が倒れるのと、コウイチさんが倒れるのって意味が全然違う。確かにそうだよな。俺なんかどうなったところで代わりなんて幾らでも捜せるだろうし。
 でも、コウイチさんは違う。この現場の電気工時の総指揮だ。コウイチさんしか分からない行程が幾つも幾つもある。親方さんならきっと分かるんだろうけど、それじゃあ、親方さんはこの現場を最後に現役引退なんて心配で出来ないだろう。
 コウイチさんの代わりはいない。
 『無理すんな。お前ぇが倒れたら、現場も倒れるぞ』
 本当にその通りだ。
 コウイチさんの双肩には、責任って名前の重圧がのしかかっているんだ。
 普段あんまり普通にしているから忘れてしまうけど、この現場の親方さんは、コウイチさんだったんだ。
 短い言葉なのに、重い言葉ってあるんだなって、思った。重くて、優しい。
 良いな。
 コウイチさんもほんの少し照れくさそうに、でも、ぶっきらぼうに、
 「分かってるよ」
 と、ぼそりと答えた。

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ああ、やっぱり腰に来てしまいましたねコウイチ君。

やはりヤリ過ぎは身体によろしくないもので。

しかし、これでは終わらない予感?!

それはもう少しお待ち下さいね。では、またっっ。