「見聞録」
14
4月の人事移動の辞令の中に、自分の名前を見つけた。
庶務課から営業課への移動。
何の前触れもなかった。突然で…本当に突然で、俺は掲示板に貼り出された辞令をいつまでも見詰めていた。
それでも頑張ろうと思った。
やっとの思いで受かったこの製薬会社。競争率は16倍。不景気だからしょうがない。
職場で辛い思いをするのと、就職活動で辛い思いをするのとだったら、俺は絶対職場で辛い思いをさせられる方が良い。
就職活動は本当に辛かったから。もう、面接なんてしたくない。
どの会社だってそうだけど、やっぱり製薬会社にだって営業は存在する。
病院や薬局。調剤薬局・学校・工場・研究所。製薬会社って、何も飲み薬だけ製造している訳ではないから、営業先は無数にある。
病院や調剤薬局やチェーン店の薬局なら一獲千金の営業利益をあげられるけど、営業のイロハも分からない俺にはそんな大役は任されない。研修に継ぐ研修。先輩達に扱かれて営業のノウハウを叩き込まれる。ビジネスマナーなんて基本中の基本。分からない方がどうかしてるとまで言われてしまった。(でもさ、例えばタクシーの乗る順番とか位置とかって、咄嗟に聞かれても出てこないよね)契約件数こそが全てだ、なんて言ってる先輩もいたし、契約成立のためだったら手段なんて選んではダメよ、なんて言ってる先輩もいた。
良い人達だったけど、ある意味皆ギラギラしていた。
………ダメだ…と、思った。
庶務課が懐かしいと思った。
何で、俺が営業課に回されたのか、どうしても分からなかった。
あの日が来るまで。
糸井課長に呼ばれた。
何でも他の会社からヘッドハンティングされた人らしくって、俺も噂でしか聞いたことはなかったけれど、物凄い頭の切れる人らしい。国内シェアを確実に上げ、来春からは海外進出の計画まで上がっている。
サッカーなんかでもそうだけど、指揮を取る人間が変わると全体が大きく変わるもので、糸井課長が配属されてから、営業課はメキメキと急成長を始めている。
スーツの似合うシャープな身体。太めのがっしりとした長い首が、スーツの下の身体付きを想像させる。彫の深いキリッとした顔。オールバックにした黒髪。小さいレンズの眼鏡が知的な感じを強調させる。下手なモデルより格好良くて、しかも綺麗で。低くて、でも張りのある声は、時には優しく時には厳しく。女性社員どころか、なぜか男性社員にも絶大な支持を持つ、月並みな表現だけど、本当に、カリスマ的存在の人だった。
バカでかい営業グラフが壁に張られる。
先輩達は確実に成績を上げている。棒グラフが獲得件数。折れ線グラフが週間推移。先輩の中に混じって一人だけ空白で平行線の欄が一つ。名前は岡野良行。おかのよしゆき。俺のこと。
ダイレクトメールなんて言うのは一番最初に思い付いた。昔に契約があって、今は他の企業に取られてしまった得意先の住所録を引きずり出してメールを送る。そこまでは良かった。
『アフターフォローは?』
『企業訪問した?』
『電話は?』
『………それじゃダメだって。ちゃんとやらなきゃいつまで経っても成績上がらないよ』
『糸井課長に怒鳴られるぞ』
先輩達はガンガン激を飛ばしてきた。ソレじゃ、営業なんて言えないよ、って。
…例えば洋服を買う時。
自分のファッションセンスってお世辞にも良いとは言えない。だから、大抵近くの安いジーンズショップで適当に済ますんだけど、たまに渋谷だの新宿だのに買い物に行く羽目になったりすることがある。売られている服なんて皆同じに見えるのに周りでは、
『あー、コレ良いなぁ』
『おう、格好良いじゃん』
なんてやり取りが聞こえてくる。
『え゛ー、良くねぇよ』
こっそり、手に持った服を見る。
………何が良くて何が悪いかなんて分からない。
途方にくれて服を眺めていると、すかさず店員がやってくる。
『それ、今年の流行なんですよー』
『もう、すっごい人気でそれが最後の一点なんだよねー』
『試しに着てみたらー?』
機関銃のようなセールス。
そういうの本当に苦手。
服なんて、ようは着れれば良いんだから。ゆっくり勝手に選ばせて欲しい。
動揺するから声なんて掛けないで欲しい。
どうせ皆同じようなもんなんだから。
自分のセンスの無さに不快感や不安感を抱きながら買い物を続ける。
うるさい店員って本当に苦手で。
……でも、アレはきっとセールスの基本で。声を掛けないで、ただ商品を並べているだけじゃ、絶対売り上げなんて上がらない。商品って、人間の声掛けがあって初めて売れるもんだと思う。糸井課長や先輩の言ってることがソレなんだって言うもの良く分かる。
でも、俺はそうやって、欲しいかどうか分からないものを押し付けるのは好きじゃない。押し付けられるのはもっと好きじゃない。そもそも俺って営業に向いてない。人懐っこくないし。上手く話も出来ないし。
机の上でリストを開きながら受話器を持って溜め息をつく。
洋服屋の店員みたいにはなれないよ……。
電話中なのを願いながらボタンを押す。そんなんで契約が取れるはずもない。
電話より、直接言った方がセールスは有利だなんて、とんでもないアドバイスをされる。
嫌で嫌で、本当に嫌で。
アポ無しの飛び込み訪問なんて究極の拷問だった。
軽い訪問恐怖症にまでなってしまった。恐くて建物の近くに行くと気持ち悪くなって来るのだ。
毎月月末の営業報告ではとにかく叩かれた。ダントツの最下位じゃ仕方がない。それでもやっぱり物凄く凹んだ。先輩達は諦めずに僕を叱咤激励する。でも、そんな風にされればされる程、落ち込んでいく自分を感じないではいられなかった。
辞めたい……何度も思った。
でも、仕事を失うのが恐かった。
営業課から外して欲しかった。営業課以外だったらどこでも良かった。例えば出世コースから外れることになっても。勤める会社さえあれば良かった。給料なんか最低でも良かった。
こんなに辛い思いをして仕事をするのは限界だった。
でも、辞表を書くことすら出来なかった。ただズルズルと毎日が過ぎていく。
グラフは横這いのまま。
どんどん自信を失っていく中、俺は糸井課長に呼び出しを食らった。
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