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 第三土曜日。午前八時十五分。

 俺はいつも通りの時間に仕事場に到着した。
 今日は土曜日なので仕事は無いが、エースの調教の依頼で急遽『出勤』になってしまった。
 なんでも調教対象の相手との待ち合せ場所が研究所の11号室になっているらしい。
 その後の移動は自由らしいが、別にそのままソファーで始めても良いそうだ。
 折角決心して調教されに来て、ホテルへ移動中に急に怖じ気づくのも勿体無いだろうから…と言うのはエースの台詞だ。

 ーー直ぐ始めた方が良いかもね。
 ーーいきなりが俺でもか?
 ーーうん。
 ーーどんな奴なんだ?
 ーーそれは、会ってからのお楽しみだね。
 ーー…お前…何企んでるんだ?
 ーー教えないよ。
 ーーなぜだ?
 ーー…だって言ったら面白くなくなっちゃうからねぇ。
 
 大丈夫。ホンモノの挿入以外は色々試してる子だから感度は良いし、凶暴な上に恥ずかしがり屋さんだけど一回感じ始めればびっくりするくらいエロくなるタイプだしっ。
 後はホンモノの味を教えるだけだからさっ…と、昨日の朝、一時限目が始まる前の僅かな時間にセックスを強請ってきたエースは、俺のペニスを深々と挿入された状態でケツを振りながら言ってきた。
 マルコより感じさせられる?と挑発されていた手前、最中に余裕見せられるのは我慢ならないと、本気を出して腰を使ったせいで肝心な部分は聞き逃してしまったが、とにかく男同士のセックスの良さを教え込んで欲しいと言う依頼だった。
 始めての奴が相手なら逆にきっちりと音の漏れないホテルに行ってやった方が安心して出来るから良いような気もしたが、移動しなくても良いと言うのは楽で良い。
 「…この部屋汚ぇぞ?」
 「あっ…あっ…はっ…いい…っ…んじゃ…ねぇ?…っ」 ようやく返事もままならなくなったエースへの挿入のピッチを早めながら少しだけ『相手』のことを想像したが、直ぐにこっちもキツく締め付けてくるエースの穴の奥の感覚に余裕を無くした。
 久し振りの処女(男だが)の『調教』。
 始めての男になれるっていうのは相手が女であろうが男であろうが悪い気がしないモンだ。
 なんだかんだ言っても翌日に控えたセックスに期待していたのか昨日は機嫌良く一日を過ごし、夕方の茶会でもどうかしたんじゃないのかと色んなヤツ等に気味悪がられる結果となった。
 そして一夜明けて、今日。
 俺はエースの約束した『十一時』までに少しは部屋を綺麗にし、ついでに計算途中の数式の解を進める時間を確保するべく、いつもの時間に仕事場までやって来た。

 俺の仕事は大学教員だ。
 自分の研究の傍ら雇われている大学の講義も請け負っている。
 学問の分野は『自然科学』の形式化学。
 『数学』だ。
 大学院卒業後大学サイドの方から声が掛かり、一日に二単位分の講義と大学院生を対象にゼミナールを開講することを条件に『11号室』の研究室を与えられた。
 数学の分野の中では解析学。専門は微分積分。研究分野は積分だ。
 リーマン予想を証明したいと子供の頃から思い続け、今もこうして目標を果たすべく、真理を求めて探し続けて生きている。
 無限と無理数という果てが存在しない数と向き合ううちに、ようやく数の『恐ろしさ』の本質を感じ始めて来たところだ。
 解に辿り着くか。気が狂うか。
 人生を賭すには不足無い…良い目標だと思っている。
 年齢は現在二十六。
 今年の十一月十一日に二十七歳に達するが、どうも年上に見られることが多い。
 『え…?!まだ二十代っ?ホントに?!』と、驚くヤツ等があまりにも多く、統計を取ってみたところ、三十一〜三十三歳だと勘違いしている奴が相当数いたことが分かった。
 一発で年齢を当ててきたのは法医学者のペローナと情報通で知られている数学者仲間のロビンくらいか。
 おそらくこの見た目と社会の常識が原因だろう。
 訂正するのももういい加減面倒なので、今は誤解させたまま放っておいている。
 だがしかし。ロビン曰く、俺にとってこの『年齢不詳』はコミュニケーション下手な俺にとっては数少ない使える話の『ネタ』だそうだ。
 確かに俺もそう思う。
 今日みたいな初めての奴を調教する時には相手の緊張感を解すのに相当役に立っているからな。
 …さて…今日の『相手』は俺を幾つに間違えるか。
 

 大学の正門を抜けると直ぐに、守衛室の裏側から始まっている獣道じみた細い道が見える。
 この…気を抜けば今でも道に迷いかける細い道を辿っていくとグランドライン大学に併設されているグランドライン研究所が見えてくる。
 この獣道、今の時間帯なら平日は一時限目の講義がある奴が出勤してきたり、研究室に籠りきりで夜を明かした奴等が起き出して朝食を仕入れに彷徨いていたりで、それなりに人の気配もしているのだが、流石に今朝は休講日だ。
 分かってはいたが、誰にも会わない。
 なのでいつもよりも意識して真剣に獣道を辿る。
 でないと迷ったが最後。速攻で敷地の境界線にある柵を探し出してスタート地点に戻らなければ、俺は冗談抜きでこのジャングルのような原生林の中で遭難する。
 結果俺が作り上げてしまったらしい環状の獣道をグルグルと数時間歩き続け、夕方の山岳サークルの山行訓練をしていた生徒に発見されたことも何度か経験しているくらいだ。
 今日は待ち合せの時間も有る。
 これはもう絶対に迷っている場合じゃない。
 俺は真剣に…本当に真剣に毎日通って見慣れている筈だが全く印象に残っていない獣道を辿って行く。いつもより時間が掛かったものの、幸い今日は無事に研究所に辿り着いた。
 「…まぁ…集中してればこんなもんさ」
 いつもバカにしているパウリーに自慢してやりたい気分だぜ。
 人の気配のしない廊下を歩くと、静まり返っているせいか、いつもはあまり気にもならない自分の足音がコツコツと響いて聞こえた。
 扉を開けながら室内に入り、いつものように左手を伸ばしてスイッチを押下すると青白灯が一斉に点灯する。
 何気なく机の側床に積み上げた論文を眺め、今日こそ整理しなきゃならねェな…と、やりもしないことを考えながら上着を脱いで、机とは点対象に位置したベッド代わりのソファーの背もたれの上に放り投げた。
 「…くわぁぁ…っ…」
 思い切りアクビをし、両腕を天井の方向に突き上げて背筋を伸ばす。
 「…眠ぃ…」
 本来俺の土曜日のスケジュールと言えば、論文が佳境にでも入らない限りはまずこの研究室には来てはいない。
 十四時までは睡眠時間だ。
 土日祝日モードの目覚まし時計が鳴るまでしっかりと熟睡し、十六時までに自宅のマンションの二階にあるスポーツジムでプログラムを行い、サウナで汗を流した後に自宅に戻って晩酌。
 後は二十三時に就寝するまでの残り時間を好きなように過ごすのが通常だ。
 通常の休日のスケジュールからすると、まだ睡眠している時間帯だ。
 「…まぁ…眠いのも無理ねェか」
 言いながらもまた大きなアクビが出る。
 (…まだ残ってたか…?) 期待しながら入り口の扉の側のサイドテーブルに置いたままのコーヒーポットの取っ手を掴み耳元で数回振った。
 『カラカラカラ…』
 んー…どうだ?
 昨日使ったまま濯いでもいないマグカップを空いている方の手で掴んで『…フッ!!』強く息を吹き掛ける。
 そのままそのマグカップにコーヒーポットの注ぎ口を当てて傾けた。
 「…おっ…」
 ポットの注ぎ角がおよそ最大になるようにして傾けると、『チョロチョロチョロ…』と、僅かに残っていたコーヒーが出てきた。
 一口には少しだけ余る量だが無いよりはマシだ。
 そのまま一気に飲み干す。気持ち酸味が増してはいたものの味は良かった。『…ふわぁぁ…』間髪入れずにまたアクビが出た。
 どうやら眠気を押さえる量には至らなかったようだ。
 今日は休校日だからラウンジのサーバーにもコーヒーは入っていない。自力で煎れる気があれば、自由に使える豆が大量にストックされているそうだが、生憎一回も自力でコーヒーをドリップした経験が無い。
 どうせなら楽に旨いコーヒーが飲みたい。
 空のマグカップを眺めていたら、サンドイッチ屋の顔が頭に浮かんだ。
 あまりじっくりと見たことは無いがしっかりと整った好みの顔。
 分類すれば、カテゴリー『美人』の中に入れられるだろう。
 体格も丁度良い。
 無理して合わせなくとも良さそうな歩幅も良い。
 目付きはキツいが、朝に自分の店で学生相手にサンドイッチを売っている時は良い顔で笑っている。
 多分性格も良いんだろう。
 今日の相手があいつだったら……。
 「………面白れェのにな……」
 エースの野郎は俺が良く知っている奴が『相手』だって言ってたしな……。
 「……ま、違うだろうがな」
  もしも相手がサンドイッチ屋だったら、昨日の配達時にもっと顔に出てもおかしくないだろうからな。
 記憶している限りでは完全にいつも通りだったような気がするし。
 自分で想像したことがあまりにも願望に頼り過ぎていることに気が付いて苦笑いをする。
 「…さて…仕方がねェから自動販売機のコーヒーでも買ってくるか…」
 わざと声に出しながら、俺は小銭だけ握り締め、エントランスの方へと歩いて行った。

 買って来たのはブラックコーヒー六本。
 取りあえず二本飲み干して残りは机の上に並べておいた。
 「…旨くねェな」
 最近はすっかりサンドイッチ屋のコーヒーの味に慣れていたのか、スチール缶の味と匂いが気になったが我慢してみた。
 ようやく眠気が覚めてくるとパソコンの電源を入れる気になって、嫌々ながらもメールの整理をする気にもなった。
 世界各国で出来た数学仲間からのメールが三十六件放置されていた。
 くだらない用事もあれば、急ぎだったらしい用事もあった。
 幾つかは思い付いたらしい数学のクイズを添付してあり、幾つかは計算の矛盾点が無いかチェックを求める文章に論文が添付されているメールがあった。
 軽い気持ちで取りかかり、やがて没頭し時間を忘れた。

 「……」
 ミホークからのメールは、無かった。

 続く

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