【1184  1210】

2



 およそ学者には見えない男の研究室も、入ってみれば普通に研究室らしい研究室だった。
 十畳ぐらいの広さの部屋には壁一面の本棚にびっしりと納められた本。収納場所に納まりきれない本は床のあちこちに平積みにされて微妙なバランスを何とか保ちつつ堆く高く積み上げられている。窓際の一際高く『本の山脈』が出来ている一角は、位置的に推理すれば、多分どこの研究室にも配備されているだろう机だと思う。相当デカい机の筈なんだけど、食パン一枚分の面積も机の姿がこっちには見えない。
 この部屋だけでも俺が一生かかっても絶対に読み切れそうにない量だ。背表紙にはL関数だの四次方程式だの波動方程式だの四色定理だの、何の学問の本なのかも理解出来ないような題名が書かれている。完全に取っ付き難い本ばっかりだ。
 どの本にも色とりどりの付箋紙が何枚も何枚も貼られているんだから…読んでるんだよなきっと。信じられない話だ。
 机(らしき一角)の側に他の棚から溢れ出した本同様、俺の腰の高さくらいまで平積みされた紙は、多分ただのコピー用紙かなんかだと思うんだけど、床に近付く程日焼けが進んでいて、何気に古文書の風合いすら醸し出している。年期の入った紙のタワーから引っ張り出そうとしたのか、ペローンと飛び出してる一束には入り口からじゃとても読めないような小さな文字がびっしりと書き込まれてて、紙縒(こよ)りで括られている直ぐ側に緑の蛍光ペンで『No.414』って書き込まれていた。…まさかと思うが、アレって全部論文…?…いや、まさかな……。感想文の原稿用紙三枚だって書くのが至難の業だった俺にとっては、もはや紙のオブジェにしか見えねーし。
 ホワイトボードやウォーターサーバーやコートハンガーなんかは机を取り囲むようにして設置され、机から一番離れた場所には三人掛けのソファーとコーヒーテーブル。他の学者同様応接コーナー兼仮眠コーナー(おそらくこっちの使用法がメイン)に使われてるなって生活感の色濃さだ。
 先刻まで寝てたのかソファーには毛布が丸められたままになっている。
 所々に立てられたイーゼルタイプの黒板は全部で三つ。どの黒板にも文字やら図形やら数字が書きなぐられたままだ。
 研究室としては綺麗でも汚くもない、ごく普通の部屋。
 俺に取っては、これといって印象の無い部屋だった。

 

 「初めてのご利用、ありがとうございます」
 一通り部屋の中を見た後、何気なくウチのサンドイッチを注文してくれた『お客さま』の顔を見た。
 「……っ」
 そのまま、自分でも良く分からないまま息を詰めた。
 「…………」
 部屋の主が迫力のある無表情でこっちを見ていたからだ。
 「な…」
 俺が見られているのに気付いても何か別のことを考えているのか全然目を逸らす兆しも無い。超別のこと考えてますっつー感じでひたすら俺のことを見詰めたままだ。
 「……な…何?」
 「…………」
 声を掛けてもちょっと聞こえてねーんじゃねーの?…って感じのノーリアクションだ。
 別に、凝視されるって言うのはこの研究所では初めてのことって訳じゃない。
 心理学の研究をしている学者なんかは、俺の行動とか表情とかは分かり易いからって意味無く(や、アッチに取っては十分意味があるんだろうが)ジロジロと観察されたりするし。
 法人類学のヤツ等に至っては、俺の骨の形を模写してぇからとかとんでもないこと言いながら、パパラッチ並に写真まで撮ってきたりすることもあるくらいだ。
 好むと好まざるとに関わらず半ば無理矢理『観察』されることに慣れている俺だったが、この学者の目付きは上手く説明出来ないんだけど、何か…何だか全然違う感じがしたんだ。
 何か…こんな視線で見られるのは……初めてかもしんない。
 強い、圧力のある視線。
 プレッシャーが強過ぎて…身動き出来なくなるような……。
 刺激したらいけないんじゃないかって気分に力尽くでさせられるような…。
 でもだからって逆に目を逸らすのは余計にヤバいような気がして。
 半ば固まったようにガチゴチと強張った視線で相手を見る。うわ…っ目付き悪っ…。どっかで見たような……えっと……ああ、そうそう……一昨日見たグレートジャーニーのビデオに出てた鮫の目だよこりゃ。
 うわぁ……見れば見る程そっくりじゃねーか……。
 何か考えてんのか全く読み取れなくて、十秒も数えないうちに変な汗掻き始めるし、足はカクカク震えるし。鮫に似てると思ったらもう頭ン中で研究室の中で泳ぐ巨大ザメとか勝手に妄想し始めるし……っ。
 「…ひ…っ…」
 すげー…なんか……んな訳絶対無いんだけど………
 

 (くっ…食われる?!)

 

 って、本能的にビビって焦った。
 サンドイッチ注文と見せかけて、まさかコイツ…人間食う派……?
 うわっヤベェ。
 怖ぇぇっ!!!
 条件反射的にサンドイッチのボックスとコーヒーポットを持ったまま両手を胸の前辺りで交差させる。手は何よりも大事なんだっ。ケータリングに来て手ぇ食われる訳にはいかねーんだよっ!!全身を強張らせてぎゅーっと目を瞑る。カタカタ全身を小刻みに震わせて、軽いパニックに陥りかけて………………はたと気づいた。
 そうだっ!!
 恐怖に耐えきれず、俺は意を決して隙のない視線を投げかける相手の懐に飛び込んだっ!!

 

 「…………おい……」
 「っっ!!っっ!!なっ何だよっ!!」
 力一杯目を閉じて、決死の思いで目の前の男の鼻を撫で回す俺の直ぐ側で、鮫に良く似た若い学者が俺に撫でられるまま、至極冷静な口調で言った。
 「これは一体どう言う意味だ?」
 「…………へ?…」
 恐る恐る目を開けると、僅かに眉をひそめた学者が鮫の目付きから不思議なモノでも見るような目付きに変えて、俺を見ていた。 

 

 

 

 

 「……理数系の研究してるんだ?」
 我に帰った後。
 一応失礼なことをしたんで詫びを入れながらサンドイッチとコーヒーポットを手渡した。
 財布から金を取り出してる姿を眺めているうちに直ぐに沈黙に耐えられなくなって取りあえず当たり障りの無いことを聞いてみる。
 そしたらジロッと睨み付けられた。
 「違う」
 即座にきっぱりと否定された。 んじゃ何の研究してんの?って聞いたら、暫く黙り込んだ後に
 『定理』。
 今までの人生の中で一番じゃねーか…?…級の途轍もねーような、ぶっきらぼうな口調で返された。


 続く

1 top 3